57話 王と女王の会談①(ユゼフ視点)
会談当日、ユゼフは密やかなときめきを抱きつつ、瀝青城にディアナを迎え入れた。この城はもともとヴァルタン家の物だったが、内戦後シーマに献上している。明け渡すにしてもいろいろ面倒なため、管理はユゼフがしていた。
久しぶりに見るディアナは驚くほど豊満になっていた。
──あんなに乳がでかかったろうか……ゴクリ
ユゼフの記憶の中にいるディアナは、壊れそうなぐらい華奢で繊細だった。
シーマと結婚してから、多少肉付きは良くなってきたものの、遠くからしか見られないため記憶は更新されなかったのである。
──アスターさんの言う妊娠の可能性はあるかもしれない……
その考えは心をやや落ち着かせた。
「瀝青城へようこそ、おいでくださいました。ディアナ様……」
追い討ちをかけるようにディアナはユゼフを無視した。
ひざまずいたユゼフの横をスッと通り過ぎる。あとには甘ったるい残り香が鼻腔をくすぐった。目すら合わせようとしない。
「ヴァルタン閣下、女王陛下とお呼びください。お名前で呼び掛けるのは少々馴れ馴れしいかと……」
苦言を呈したのは元騎士団副団長のクリムトである。この男は腰巾着のごとくディアナのそばに控えていた。いつの間にか、側近のようになっている。
ユゼフはクリムトを一瞥した。こんなのは相手にしない。
「ディアナ様、ご案内いたします!」
気を取り直して先導しようとするユゼフに、クリムトは舌打ちをした。聞こえないふりをして、ユゼフはディアナの前に立った。口元に笑みをたたえるのは彼女を安心させるためだ。
クリムトに対しては嫌悪感しか湧かない。とても美味しそうなケーキが置かれているのに汚い蠅が一匹、その周りを飛び回っている。ブンブンと嫌らしい音まで立て、視界に入り込んでくるのが、ひたすら不快だった。
ユゼフは蠅をなるべく見ないよう、視線をずらした。ふと、ディアナに付き添っていたミリヤと目が合う。
にわかに皮膚が粟立った。
過去に男女の関係になったからとか、そういうことではない。ミリヤの発する異様な空気に圧倒されたのだ。
美しく有能──おっとりしたかわいらしい娘を演じる侍女は……笑っていた。
ゾッとするような、冷たい笑顔。嗜虐的で獰猛。普段の鈍重な娘の顔ではない。勝利を確信している顔だ。
ユゼフの高揚感は急速に萎んでいった。
アスターの言うとおり、なにかを仕掛けるつもりなのだ。しかも、勝利を確信するほどの自信がある。
ユゼフは背後へ目をやった。ディアナのそばにいるのはミリヤとクリムトだけだ。
あとは護衛が三十人ほど。少し離れた所からついてくる。
……ん?
甲冑姿の護衛の中に娘が一人いる。薄汚れたエプロンをつけた、物売りか農家の娘といったところだろうか……
日焼けした紅い頬は、健康的で親しみが持てる。大きな黒い目をしばたたかせる仕草は可憐だ。
──あの娘はいったい??
「どうしました? ヴァルタン閣下? さきほどから、後ろばかり気にされているようですが……」
「クリムト殿、あの娘は誰ですか?」
「リリエという娘です。話し合いが始まれば、じきに何者かわかるでしょう」
「何者ですか? 今、教えていただきたい」
「それは……女王陛下にお聞きしないと……」
クリムトの意地悪な視線を受け取ったのはディアナだ。
「ゴチャゴチャしゃべってないで早く案内しなさい!」
ディアナは喚いた。その拍子に視線がぶつかった。
「……あ」
彼女の瞳は最美の宝石と言われるグリンデル水晶より勝っていた。
目が合った瞬間、時が止まる。ユゼフは呼吸を止め、止めたことさえ忘れた。
──ディアナ様が俺のことを見てる。こうやって顔を合わすのは何年ぶりだろう……
一瞬の意志の疎通が終わると、時は動き始めた。
彼女は目をそらし、ユゼフは前を向いた。目に入るのは重苦しいデザインの壁紙だけだ。瀝青城は構造上、窓の少ない造りだから薄暗い。城の内装は時代遅れだった。
ユゼフは腰に差したダガーの柄をなでる。会談中、臨席者は帯剣しないのが礼儀だが、ダガーは装飾品として帯びることを許されていた。臣従礼の時に賜ったダガーは忠誠と信頼の象徴でもあった。ダガーの柄にはめ込まれたグリンデル水晶をディアナの瞳と重ね、背徳感を覚える。
踏み心地の良いビロードの絨毯を踏みしめながら、ユゼフは口を開いた。
「ディアナ様、本当にお久しぶりですね。この瀝青城を会談の場として選んでくださったこと、光栄に存じます。文に信頼しているとお書きくださったことも、とても嬉しかったです……」
自分でも不思議なくらい饒舌を楽しめた。吃音は全然出ない。甘い愉悦が緊張と不安を食ってしまっている。
「五年前のことを覚えてらっしゃるでしょうか? モズの町を共に歩いたことを? 私が兄という設定でしたね。エリザの言ったことで、怒って走り出してしまうから慌てました。そのあと、盗賊にぶつかって……」
歩みをわざとゆっくりにして、ユゼフは話し続けた。彼女の近くにいられるのは、広間に着くまでの短い時間だ。
ディアナはなにも言わなかった。
「先日も塔から突然姿を消されたので驚きました。なんとかお力になりたいと訪ねたのに、部屋の中はもぬけの空で……」
「ちょっと、ユゼフ……様……」
邪魔をしたのはミリヤだ。
「陛下が戸惑っておられます」
ユゼフは足を止め、振り返ってディアナの後ろにいるミリヤを見据えた。
五年前、この女のせいでディアナに誤解された。一時の誘惑に負けた自分も悪いが、あばずれは最初からユゼフとディアナの仲を引き裂くつもりだったに違いない。
「俺はディアナ様に話してるんだ。おまえにじゃない」
ユゼフが突っぱねると、ミリヤは目を見開いて固まった。クリムトも不審がっているだろう。
──そりゃそうだ。俺は今までこれっぽっちも自己主張しなかったからな? ずっと気持ちを押さえつけて、ここまできたんだ
「子供のころから、ディアナ様のおそばにいたのです。五年前、魔国へさらわれた時もお助けました……だから、少しぐらい懐かしんだっていいでしょう? 今になって、よく子供のころのことを思い出すのです。粗末な花かんむりを大喜びしてくださったことや、動物の鳴き真似を何度もさせられたこと……そうだ! あの時、渡したお守りはまだお持ちですか?」
広間の扉の前まで来て、ユゼフはディアナに向き直った。 ディアナは微笑んでも、顔を赤らめてもなかった。顔をこわばらせ、おびえた目には涙が浮かんでいる。
──やってしまった
自分でも狂っているのは気づいていた。抑圧され続けた愛情が歪んでいることも。
ユゼフがこんなにたくさんの言葉を彼女に投げたのは初めてである。彼女の気持ちなど考えず、ただ一方的に……
──仕方ないだろう。我慢してきたんだ
もう、ディアナは王妃ではない。王に反旗を翻した謀反人だ。主の所有物でなくなった彼女に対し、脆くなったタガは簡単に外れた。
ユゼフは遠慮なく彼女を見つめた。扉を開けてしまえば、また現実に引き戻される。今しか彼女と交わる機会はない。
ディアナはうつむいた。濡れた睫毛が震えている。レンゲ草の花弁を思わせる薄い唇も……
──ああ、やはり美しいな
感嘆の溜め息を漏らしそうになる。シーマもアスターも絶対に彼女を許さないだろうから、その時は……
──彼女をこの城の地下に監禁しよう。誰にも気づかれないように……守ってあげるんだ……
その考えは少し前からユゼフを支配していた。ディアナを自分だけの物にする。大胆な考えは血を躍らせ、妄想を逞しくした。
──その宝石のような瞳も、唇も、舌も、細くたおやかな指も、やわらかな乳房も、温かな恥部も……すべて俺の物になる。俺の物にする……
「……ないわ」
「……えっ?」
花弁がほどけて息が漏れる。唐突だったから、彼女がなにを言っているか聞き取れなかった。
「お守りなんて、もうない」
言葉を聞き終えると、ユゼフは無言で扉を開いた。




