41話 ファットビースト②(サチ視点)
ドサリ……上階の客席から人が落ちた。
「え……!?」
ファットビーストの穴(口)の位置が変わる。前から後ろへ……いや、どちらが前で後ろなのかはよくわからない。
脂肪体は後ろから斬りつけるグラニエを無視して、落ちた者のほうへ突進した。大きな暗い闇がたちまち彼(騎士かヘリオーティスかはわからなかった)を呑み込んでしまう。
食べる時は無音……あっという間だ。驚いている余裕すら与えない。
ドサリ……ドサリ……ドサッ……
次から次に人が落ちてくる。上階はパニックだ。叫び声と怒号が飛び交う。
「退け! 退けぇえええ!! 早く! 早くっ!!」
「立てぬ者は置いていけっ!!」
「息を止めろっ!! 毒だっ!!」
「吸うなっ! 吸ってはいけない!!」
──毒?
ファットビーストが飛ばす粘液は、触れた対象物を融解し蒸発する。その際に立ち上る煙が有毒なのだろうか。
ピンクの膜に守られた状態では、外の空気がどうなっているのかわからない。サチは息を止め、膜から顔だけ出してみた。
──ああ、そうか
膜を取り払った視界はややくすんで見えた。薄暗いのもあるが、一面にぼんやり煙霧が立ちこめている。外で戦っているグラニエは間違いなく吸っているだろう。動作が少しずつ鈍くなっているのは、そのせいだ。
剣を構えたまま、グラニエはファットビーストの様子をジッと見守っていた。肩で息をし、両足が微かに震えている。
ファットビーストは落ちた騎士たちを片っ端から喰らっていった。
音もなくただ呑み込んでいく。その姿は底無しに貪欲で醜かった。意志や感情はなく、ただ欲望だけが化け物を動かしている。
自らに火の粉が降りかかると知った観客は去っていった。
ヘリオーティスだろうが、騎士だろうが、この化け物の前ではただのエサである。猛獣の檻に残されたのは、とうとうサチとグラニエだけになった。
重い扉が派手な音を立てて閉まる。残響が収まるまでしばし。純粋な静寂が訪れるまで時間はかからない。
音に誘発され、ファットビーストの意識がグラニエへ向いた。もう食べられる物は全部食べてしまったらしい。
「グラニエさんっ!!」
サチには、グラニエの血で汚れた頬がフワッと弛んだかに見えた。
──ダメだ、ダメだダメだダメだダメだダメだダメだダメだ
グラニエが弱っているのは気配だけでもわかる。
大量の毒を吸い込み、恐らく立っているのがやっとだろう。くわえて、奴の体内へ入り、危険な粘液に直接接触している。グラニエのダブレットの所々には穴が開いていた。剥き出しの皮膚が赤くジュクジュクしている。
サチは抜刀した。たとえ無駄だとしても、なにもせず見捨てるよりマシだ。
「ダメだっ! 来るなっ!」
刹那、グラニエの怒鳴り声が空を切り裂く。
サチはグラニエの背中を睨んだ。この状況で冷静でいられるわけがない。自分になにかできるとは思えない。だが、恩人が死んでいくのを震えて見ていられるほど、臆病者じゃない。
「今から私はこの化け物を倒す!」
有無を言わせぬ調子でグラニエは言い切った。サチにはグラニエの顔が見えない。ピンと伸ばされた背中から、機微は読み取れないのだ。
──倒すって……どうやって?
「サチ、君は生きるんだ。君を、あなたを守ること……それが私の使命……」
最後のほうはよく聞き取れなかった。ファットビーストの雄叫びが大切な言葉を掻き消したからだ。
風。
強風をまとった化け物が猛進してくる。
グラニエは愛剣アガポを落とした。空虚な音は地面に吸い込まれ、たちまち無音となった。両手を広げ、無防備に立つ。まるで、化け物を受け入れようとしているかに見える。
──まさか?
全身から吹き出る汗が、サチに危険を教えてくれた。呼吸するのを忘れる。意識を置いてけぼりに、感情だけがサチを動かしていた。
──触れた対象物を爆破させる魔法を自らにかけるつもりだ。メニンクスを使えたのだから、できる可能性は高い
走る。走れ。走れ……
「イクリク……」
グラニエがその呪文を叫ぼうとした時、サチは彼を突き飛ばした。
視界がグニャリと歪む。それがサチの記憶に残っている最後だった……
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