40話 ファットビースト①(サチ視点)
先の八年戦争の時、命を助けられた経緯から、クリムトはアスターを慕っていた。
五年前、アスターが帰国した際も仲間を呼び集め、真っ先に駆けつけたのである。回廊でアスターに声を掛けられ、クリムトは泣き崩れた。
上官と部下というより、主君と忠臣のような間柄だ。クリムトはアスターのために、なんでもする男だった。
──どうしてだろう? 腑に落ちない
地下へ続く暗い階段を下りる途中、サチは思った。両手は拘束されている。隣にいるグラニエも同様だ。
演習場の地下へ繋がる階段は騎士団寮の中にあった。普段は物置に使われている部屋の床板を剥がすと、土をえぐっただけの粗末な段々が現れる。
サチとグラニエは麻袋を被ったヘリオーティスに前後を挟まれ、下りていた。
前を歩いているのは、エッカルト、麻袋を被った甲冑の女、クリムト副団長だ。後ろからはぞろぞろと、食堂にいた騎士やヘリオーティスたちがついてきていた。
クリムトの行動には違和感があった。一連の行動はアスターの許可を取っていない。知れば、アスターは激昂するだろう。ヘリオーティスとは五年前、夜の国で衝突している。彼らを軍営内へ入れるなど、アスターが許すはずがなかった。
──アスターさんを崇拝しているクリムト副団長がなぜ? 勅命と言っていたが、シーマがこんな命令を下すわけがないし
隣を歩いていたグラニエが囁いた。
「サチ、君も腑に落ちぬのだろう?」
「ええ……」
「私もだ。だが、クリムト副団長の行動はある程度、説明がつく。噂で聞いたんだが、君は団長の娘さんと……」
グラニエはさらに声を低くした。サチは顔を熱くさせる。
「えぇっ! なんでそれを?」
「皆、噂しているよ。アスター様の目的はよくわからんが、贔屓どころか特別扱いされていると妬む者は多い」
噂というのは、アスターの娘との縁談のことだった。
「俺もなんでそんな話を勧めるのか、いまいち理由がわからないのですが……」
話の途中で、前を下りていたクリムトが咳払いした。どうやら、ヒソヒソ話が聞こえていたらしい。
黙ったとたん、足音と呼吸音以外はなにも聞こえなくなる。三百年前の空気を密閉した空間だ。
階段が終わり、二人がやっと並べる幅の通路に出た。
先頭のクリムトとヘリオーティスは次々に松明を灯していった。
歩が止まるまで時間はかからなかった。突き当たりに石の扉が見える。王家の紋章……三つ首のイヌワシが描かれ、その下には古代語がみっちり彫られていた。
クリムトはダガーで指を傷つけた後、血を文字に擦り付け、呪文を詠唱した。
サチは目を背けたくなった。魔国での出来事を思い出したのだ。
魔王が住んでいたという黒曜石の城にて、イアンが化け物の封印を解いてしまった。何度、自身の管理不足を呪ったことか。あんなことにならなければ、ユゼフと交渉してイアンも国へ戻れたかもしれなかったのに。
元通りローズ城へ戻れなくても、安全かつ清潔な場所で過ごせていたに違いない。少なくとも、置き去りにすることはなかった。
ズズズズズ……
石の動く音が冷え切った洞に響く。あまりに呆気なく封印は解かれた。封印というものは内から解けないようになっていても、外から攻めれば案外脆いのかもしれない。
──イアンの時もそうだったのかな
悠長に考えている場合ではなかった。扉の向こうは、人一人分の足場を残して床が消えていた。足場が空洞をグルリと囲み、階下を見下ろせるようになっている。
階段の前まで来て、サチは突き飛ばされた。手の自由を奪われているため、軽くバウンドしてごろごろ転がり落ちる。
「いってぇ……」
不幸中の幸いといったところか。円柱形の空洞に沿ってカーブしながら続く階段はなだらかで、段も浅い。突き飛ばされた勢いで転落し、途中の踊り場で止まった。しかしながら、あとから来たグラニエに押し出され、残りの階段も転がっていった。
一番下の地面まで着くと、サチはゆっくり身を起こした。
──あちこち痛いけど、うん、大丈夫だ
全身痛いが、骨は折れていない。浅い段が衝撃を分散してくれたのだろう。
「サチ! 無事か!?」
踊り場のほうからグラニエの声がする。
「だいじょう……」
ぶ……と、答えようとした時、パアッと明るくなった。見上げたところ、上方の壁に松明が灯されている。出入口までの吹き抜け。狭い足場に立って、こちらを見下ろす人影が円を描いていた。
束の間の休息さえ、サチたちには許されなかった。
「サチ! 下がれ!」
グラニエに言われ、サチは反射的に飛び退いた。
ジュワッ……
バランスを崩し倒れ込む。さっきまで座っていた所になにか落ちた。焦げ臭い。白い煙が立ち上る。
「早く、階段のほうへ!」
移動中、すぐに縄を解けるよう例の仕込み爪で削っていたのだろう。手早く自身の拘束を解いたグラニエが駆け寄ってきた。
「あっ!!!」
松明がちょうどそれの向かい側にポッと灯り、全容が明らかになった。
そこにあったのは……巨大な脂肪の塊だった。
目、耳、鼻、口……といった人間らしい器官は見当たらない。馬鹿でかい脂肪の塊から、ニョッキリ手足が生えている。弛んだ皮膚が何層も重なり、薄闇ではゲル状にも見えた。
グラニエは腰に下げていたダガーでサチの縄を切った。サチは即座に動けないでいた。全身の毛が逆立つようなあの感じ──魔国で何度か体験している。当時は嫌な予感と表現し、道を避けたり隠れたりしてやり過ごした。これが圧倒的な“魔力”というやつなのかもしれない。
目を凝らせば、脂肪の塊の中に小さな黒いシミがあった。その染みはどんどん広がっていった。
「危ないっ!!」
グラニエがサチを突き飛ばした。
ジュジュゥウウウウ……白い煙が立ち上る。床が抉れた。
脂肪塊の中央部分にポッカリ大きな穴が空いていた。絶望的に暗く深い穴だ。
間を空けず、粘液の玉はアラレのごとく降り注いだ。サチは瞼を閉じた。
──もう、おしまいだ
「メニンクス!!」
グラニエの声で目を開く。淡い桃色のゼリーがサチとグラニエを包み込んでいた。グラニエはサチを庇うように抱きかかえている。
メニンクス……この呪文には聞き覚えがある。たしか魔国で村の外を歩く時にイザベラが使っていた……
魔法攻撃を防ぐ、魔物の邪眼から見えなくする魔法である。
まだ、飛んでくる。
ヒュンッ、ヒュン! ヒュンッ……粘液丸は桃色のゼリーに触れると、白いモヤとなって蒸発した。
グラニエは立ち上がり、剣を抜いた。
「グラニエさんっ! 俺も……」
「ダメだっ!!」
抜剣しようとするサチを、グラニエは前を向いたまま止めた。
「なんで……ですか?」
「この膜の中にいれば、安全だ。ここから動いてはいけない」
「でもっ……一人で戦わせるわけには……」
「今の君では足手まといになるっ! 邪魔になりたくなければ、ここでおとなしくしているのだ!」
厳しい言葉にサチはうなだれるしかなかった。わずかに振り向いたグラニエの瞳が揺れる。
「生きてください」
「……へ?」
「君の祖父母も同じ気持ちだった。君は……」
言い終わる前に、耳をつんざく爆音が空間を揺らした。石の壁が、地面が、皮膚が、ビリビリ震える。神経を麻痺させるほどの衝撃が襲ってきた。
脂肪の塊が奈落を目一杯広げ、咆哮を上げたのだ。間髪入れず、こちらへ向かってくる。ドシドシと不格好な足で地面を踏み鳴らし……速い!
グラニエは愛用する長剣、アガポを構えた。すぐさま地面を蹴る。
脂肪の化け物……ファットビーストの胴を一気に薙ぎ払う。黄色い粘液と血液が飛び散り、醜い体がくずおれた。
サチのほうにまで飛んできた飛沫は、ピンクの膜に当たり蒸発した。
倒れたと思ったのも束の間。ファットビーストは体を自在に伸縮させ、ムクムクと起き上がった。なにもなかった所から、また大きな穴が広がる。それは変幻自在に出現する口のようにも見える。そして……
「はっ!?」
ファットビーストがグラニエを食べた。
目を見開き、サチは剣柄を握る。ところが、光る長剣の先が見えた。白い皮膚の上にニョッキリ姿を現したかと思うと、粘液を飛散させ、脂肪を真っ二つに割った。
「グラニエさんっ!」
割られた脂肪の中から出てきたのは、粘液と血液まみれのグラニエだった。
「ンゴゴゴゴゴゴ……ゴ……」
低い咆哮が地面を揺らす。上階から拍手喝采が聞こえた。一人が立てるだけの狭い足場に、野次馬が円になって並んでいる。化け物相手に健闘しているグラニエを讃えているのだ。
こういう時、戦士は正直である。素直に純粋な気持ちから、勇敢に戦う者を賞賛する。
グラニエは休む間もなく切り続けた。鈍重な見かけと反して、ファットビーストは素早い。切っても、切っても……泥となって形を変え、口を移動させ挑んでくる。
グラニエが化け物を叩き切るたび、粘液が弾け蒸発した。しだいに上階のオーディエンスもヒートアップしていく。狭き瓶はあっという間に興奮のるつぼとなる。
最初のうちは、グラニエのほうが上手く立ち回っているように見えた。
だが、サチは気づいてしまった。
──グラニエさんの動きがだんだん鈍くなってる!
ドサリ……上階の客席から人が落ちた。




