21話 それでも助ける(サチ視点)
暗い地下室に監禁されたサチは、絶望感に囚われていた。未熟な我が身を呪い、消えていった人たちに懺悔した──まさか、出してもらえるとは思わなかったのである。
例えるなら、巨大なトカゲが壁を這うような音だ。そんな音が聞こえ、悪寒が走ったあと解錠された。半信半疑で扉を押してみたところ、いやに呆気なく開いてしまった。
階段の先に見える一筋の光を目指し、サチは走った。ここが暗黒だったら、まだあきらめもつくが、光が差し込んでいる。なおかつ自由だ。
地上に出て真っ先に聞こえたのは、聞き覚えのあるしゃべり声だった。ユゼフとアスターの従者。ラセルタとダーラだ。
地下室の出入口は、アーチを作る太い柱の影にあり、彼らからサチの姿は見えない。
「もう、おいら行かなきゃ。アスター様の決勝戦が始まっちゃう」
「ダーラ、オメェはすげぇよ! 地磁感応っての? 感じ取れんのは地磁気・地熱・地脈だっけか?」
「アスター様がときどき能力を使えって。いつか役に立つことがあるかもだって。おいら、尻尾とか生えそうだから、ほんとは嫌なんだけど……でもさ、なんで地下室なんか探してたの?」
「それは……そう!ネズミだよ、ネズミ!……ユゼフ様がネズミの巣を探せってな……」
「たしかに生命反応はあったけど……ネズミじゃなくて、もっとデカかった。それって宰相様の仕事なの?」
「宰相の仕事は多岐に渡るから……」
こんな話をしていた。さきほどの巨大トカゲの気配はラセルタではないか、とサチはピンときた。ラセルタはただの少年に見えて、トカゲの特徴を持つ亜人だ。今の話だと、ダーラの地磁感応を利用してサチの居所を突き止めたらしい。
──ラセルタが動いてるってことは、ユゼフが?
ごちゃごちゃ考えるのはやめた。ダーラは決勝戦と言っていた。決勝戦で誰かが殺されるかもしれない。サチは柱の影から飛び出した。
「あっ! サッちゃん!!」
「今、決勝戦と言ったな? 死人やけが人は出てないのか? 決勝戦は誰が戦う?」
「サッちゃん、試合見てねぇのかよ? 誰も死んでねぇよ。けが人は何人か……でも、たいしたことねぇ。なんでそんなこと……」
「教えろ! 決勝戦は誰が!?」
「アスター様とアホのティモールだよー! なんだよ? サッちゃん、落ち着けよ?」
それだけ聞ければ充分だった。サチは疾風をまとい駆け出した。どこへ?──決めていなかった。
風となって通路を走るうちに、だんだんと考えがまとまってきた。闇雲に突っ走るだけではダメだ。
「君のために誰かが死ぬことは考えないのか?」
グラニエの言葉が耳の奥で響いた。
──そうだ。もっと冷静に。狡猾にならねば
このまま走って戦闘の場に乱入したら、間違いなく取り押さえられるだろう。そして、すぐに試合は再開される。力を貸してくれる人間が必要だ。
地位があって、耳を傾けてくれそうな人──リンドバーグは体調不良のため、来ていない。ラセルタに頼んでユゼフと会うか……国王の隣で観戦しているから難しい。それに、ユゼフがラセルタを使ってサチを解放したのだとしたら? サチが試合の邪魔をするのを期待している? だとしたら、ユゼフには試合を止める力はない。ユゼフに試合中止を訴えても無意味だ。
最後にサチの脳裏に浮かんだのはグラニエの険しい顔だった。説得は困難をきわめるだろう。
──覚悟が必要だ
サチは五年前、切腹までしてイアンを説得したことを思い浮かべた。大胆な作戦にはリンドバーグの協力が不可欠だった。しかし、過去の遺恨からリンドバーグは首を縦に振ろうとはしない。プライドの高いイアンに頭を下げさせるしかなかった。
──追い詰めたはいいが、逆転されたがな
今でも悔しくて歯噛みしそうになる。腹の古傷がしくしく痛んだ。
あともう少しだったのに! グリンデルから援軍さえ来なければ!
壁の向こうで援軍を手配したのはユゼフ。シーマとユゼフのチームに、サチは完敗したのである。
気持ちを落ち着けるため、サチはあの時、刻んだ誓いの傷をそっと撫でた。これは癖になっている。触ると安心するのだ。
──きっと、あの時と同じくらいの覚悟が必要なんだ
ティモールは友達でもなんでもないが(むしろ嫌いだが)、命の重さは誰でも同じだ。
これ以上、無駄に誰かを死なせたくない。サチはグラニエと話すことにした。
グラニエの居場所はわかる。爆発があった天幕の近く──几帳面な性格は事件の真相を追っているはずだと、サチは思った。サチのことを厳しく叱りつける一方で、彼自身は気になったことをそのままにはしない。
燃えかすや、足跡、髪の毛、塵に至るまで……ありとあらゆる証拠を集めて、精査するだろう。そういう人だ。
狙い通り、グラニエは燃えた天幕の裏手にある通路をうろついていた。腕組みし思考するグラニエの前に、サチは風を連れてきた。グラニエは監禁されているはずのサチが姿を現しても、そこまで驚かなかった。眉を少し動かした程度である。尖った髭と同じく、くっきりとした眉だ。
厳格な態度にも、サチは怯まなかった。
「グラニエさん、俺に最後のチャンスをください。騎士団を辞めることになっても構いません」
「君の話は聞かないよ。おかしな動きをしたら、取り押さえるがね」
「聞かなくてもいいです。ただ、横で話させてください。気に食わなくなったら、力でねじ伏せても構いません。理不尽な暴力には慣れていますから」
この言葉にグラニエは眉根をギュウウウッッと寄せた。怒ってくれてもいいと、サチは思った。
「でも、さっきみたいに騙して閉じ込めるのはやめてくださいね。そっちのほうが傷つきます」
「黙りたまえ。なんの力も持たぬくせに噛みつくな。小虫が噛んだところで叩き潰されるだけだ」
「おっしゃるとおりです。だから、こうやって話しに来たのです。俺一人では、どうにもできませんから」
「協力しないからな?」
「存じております。ただ、おそばで思いの丈をぶちまけさせてください。それも、いけませんか? 鳴くことを許される虫もおります」
グラニエの鋭い視線をサチは受け止めた。グレーの瞳が一瞬、暗くなったのは気のせいか。
「グラニエさん、イアンは馬鹿だし最低な奴でした。そうです。以前仕えていた城の若殿様ですが、あえて悪く言います。だって事実ですから……」
慣れぬ打ち明け話を始める。グラニエはサチを見ようともしない。サチは尊敬する上官の耳たぶに向かって話した。
「聞いてください。学生時代、俺はいじめられてました。大勢に殴られ、意識を失ったこともあります。殴られている間、遠くでヴァイオリンの音色が響いていました──」
グラニエの耳が微かに動いた。
虐められていたなんて、恥ずかしい過去だ。軽蔑されるかもしれない。だとしても、サチは構わなかった。
「目の前は真っ暗で何も見えませんでした。痛みしか感じないのに、耳の中をヴァイオリンの音だけが何度も行ったり来たり……朦朧とした意識のなか、その音が俺をつなぎとめてくれました。夢や幻聴ではありません。イアンが一人、教室でヴァイオリンを弾いていたんです」
サチたちがいる通路は、闘技場を囲む観客席の外側に巡らされている。幸い、通路には誰もいなかった。
決勝戦のまえにアマルの朗詠が始まったのである。そのため、人々の意識は美しい吟遊詩人に向いているのだった。
恥辱に満ちし獣の貌、
置き忘れし憎悪は
追ひかけ来る。
いたづらなる思ひ出をば消さん、
天魔を取り出だし、
さすべき子とならむ。
今宵は内海人も
大陸人も同じなり、
殺し合ふほどに、
癒し合ふほどに、
まことの我とならむぞ。
天下はあやしく満ちたり、
別の道を示せども
なんぢら逃れられず。
教へよ、
母は何をすべきや。
うつつを見よ、
はらからにそれを言ふなかれ。
安易なる道を選ぶならば、
うつろにはあらじ。
闘技場はやけに静かだ。サチは深く息を吸って吐いてから、また口を開いた。
「それは「生きろ」と言っているように聞こえました。どんなに苦しかろうが「生きろ」と。そのあと、俺は意識を取り戻しました」
グラニエは何も言わず、顔を傾けた。奥歯を噛みしめている。
「だから思うんです。この世に完全な善人がいないように、完全な悪人もいないのだと。天の下、人の命は皆平等です」
しばらく、気まずい沈黙に支配された。アリーナから打ち合う音が聞こえてくる。試合が始まったのだ。
呼吸するのさえ憚られる。サチは辛抱強く待った。気持ちが通じなければ、この人はそれまでの人ということ。サチが買い被っていただけだ。
ふいと、グラニエは顔を上げた。
「わかった。君を助けよう」
ピンと上を向いた髭先が震えている。サチにはグラニエが泣いているように見えた。
現代語訳↓
恥辱に満ちた獣の顔、
置き去りにされた憎悪が
追いかけてくる。
いたずらな記憶を消すために、
天魔を呼び出し、
そうなるべき子となる。
今宵は内海の者も
大陸の者も同じだ、
殺し合い、癒し合うほどに
本当の自分になるのだ。
世は奇しく満ちている、
別の道を示しても
お前たちは逃れられない。
教えてくれ、
母は何をすべきか。
現を見よ、
兄弟にはそれを言うな。
安易な道を選ぶなら、
決して虚ろにならないだろう。




