23話 闇の気配
投石は思っていた以上に、うまくいった。
発火した石弾がインパクトを与えたのだろう。恐れをなした盗賊の進撃は止まった。
ユゼフとエリザは互いの拳をぶつけて、健闘を称え合った。
ただし、油断は禁物。火が消えればまた城壁を登って来るだろうし、石弾もあと数個しかない。
狭間胸壁から覗いたところ、坂の下で三手に分かれ、待機している盗賊たちが見えた。中心には、例の熊と見紛う毛むくじゃらの男がいる。
これも亜人の能力なのか、ユゼフの目は弱い灯りだけでも、はっきりと捉えていた。頭領の姿は見えない。
……と、急に寒気がした。
──あの感じ、だ
ナフトを出てから消えていたのに……あの得体の知れない邪悪な気配が近くに感じられる。西、正面の方だ。朧としていた存在が今は明確に捉えられる。
「どうした?」
エリザが心配そうにこちらを見た。
「しばらくは攻撃してこないだろう。今のうちに俺は正面側の様子を見てくる」
「待て!」
行こうとするユゼフの腕を、エリザが痛いくらいに強くつかんだ。青灰色の目に溢れんばかりの涙をたたえている。共に戦っていた時の勇ましさと反して弱々しく、ユゼフはたじろいだ。
「……でも、調べないと」
こういう時、「大丈夫だ、安心しろ」と言うのが正解なんだろうが、そこまで器用ではなかった。
腕を引っ張られ、接近する。バランスを崩せば、エリザの額が自分の顎にぶつかってしまうくらいの距離になった。
──どうしよう?
近くで見るエリザの顔は愛らしかった。そばかすだらけの白い肌や少しだけ上を向いた鼻、上唇と下唇が同じ厚みなのは安心感を与える。幼い……まだ、少女ではないか。
──こんな子を一人にするのか
だが、怪しい気配の方へ連れて行きたくはない。一人にするより、そっちのほうが危険だ。
ユゼフは腰を少しだけ落とし、エリザと額をくっつけ合わせた。しばし、そのまま……呼吸と心音を感じ合う。
「いいか? 緊急時には指笛で知らせる。それを聞いたら、一人でも逃げるんだ」
エリザは何度も頭を振り、涙がこぼれ落ちた。
「すまない……」
ユゼフは彼女の手を振りほどき、全力疾走しなくてはならなかった。後ろを振り返ってはいけない──嫌な予感がするのだ。
†† †† ††
正面門側に着いたユゼフは、まず下をうかがった。
こちら側は松明を灯しておらず暗い。よく晴れた半月なので月明かりだけでも、ユゼフの視力なら見通すことができた。
白い月が苔むした石壁を優しく照らしている。月の光は清らかで、不気味な城さえ浄化してしまいそうだった。
誰もいない。跳ね橋も上がったままだし、城壁をよじ登る者の姿も見えない。門塔を上って調べるまでもなさそうだ。主殿の屋上はすべての塔と密接しており、扉一枚開ければ行き来することができる。
ホッと安堵の溜め息を吐いたその時──階段をダダダッと駆け上る音が聞こえた。
目の前に聳える門塔からだ。門塔は階下の門とつながっている。跳ね橋もかかっていないし、門には錠がかかっているから安心?……だとしても、せいぜい数キュビットの濠はロープを使って越えられるし、錠など鎚で簡単に叩き壊せる。現に彼らは濠を越えて城壁を登ってきていた。
嫌な予感、的中──
間をあけず、鉄扉がバタンと開かれ、ユゼフは数キュビット※先の頭領アナンと対峙することになった。
「いたな! ユゼフ・ヴァルタン!」
アナンは剣を抜いた。
鋼鉄の剣は月光を反射して煌めく。
後ろには長い髭を生やした身なりのいい男がいる。ユゼフの父と同じくらいの年齢だろうか。ナフトで見たこの男を筆頭に、次から次へと階段を上って盗賊が現れた。
十二人……勝ち目はない。
瞬きする間に囲まれてしまった。今、できることは一つだけだ。
ユゼフはエリザに知らせるため、指笛を吹いた。
ピューーーーーー!!!
甲高い音が緊迫した空気を切り裂き、アナンの怒鳴り声がそれを追いかけた。
「逃がすな! 一人たりとも!」
盗賊の半分はエリザのいる東の胸壁へ走って行った。
「剣を持っていないのか?」
アナンは丸腰のユゼフに眉根を寄せる。
「今までの貴様の抗戦ぶりに敬意を表して、闘う機会を与えてやろう」
闘う……とは?? ユゼフはいまいちピンと来なかった。決闘の申し込みなどされたことがない。戦功を挙げる兄たちの影で、ひっそりと生きてきたのだから。
「ナフトでワームを出した能力には驚いた。貴様、亜人なのか?」
アナンの問いにユゼフは答えなかった。
言っている意味はわかる。亜人の一部には不思議な能力を持つ者がいる。能力は評価されることなく、亜人=被差別民だ。
「まあ、いい。この間の続きをしよう!」
アナンは仲間から剣を借り、ユゼフの方へ滑らせた。
「今度は逃げるなよ?」
ユゼフが剣を取るや否や、斬りかかってくる。突風のごとく一打一打が鋭い。鋼と鋼がぶつかり合う金属音が響いた。
──重い……
受けるだけで剣が吹き飛ばされそうになる。力の差は歴然で柄を握り締めるのがやっとだ。ユゼフはイアンと真剣で立ち合った時のことを思い出した。
「弱い! 弱いな! そして遅い!」
アナンが繰り出す自由自在の剣撃に対し、ユゼフはギリギリで避けるしかない。
それでもアナンは手加減していた。ユゼフの技量を量るためだろう。しばらくすると、間断ない攻めにユゼフの体は疲労してきた。
走り慣れていない者がいきなり長距離に挑戦しても、へばってしまうのは当然のことだ。慣れない体はどのように補給すればいいか、休息すればいいか、疲労を軽減すればいいのか……わからない。
後ろに避けようとした時、とうとう足がもつれた。バランスを崩し尻餅をつく。
剣は手から滑り落ち、カランカランと乾いた音を立てて転がっていった。ユゼフの目前に見えるのは白く輝く剣先、アナンの持つ大剣だ。
「王女はどこにいる?」
月明かりに照らされたアナンの顔は傷に目がいくものの、女性的な美しさがあった。
「早く言え! 魔獣使いだかなんだか知らんが、貴様の奇術のせいでさんざんな目にあった。これからたっぷり報復してやるから覚悟しろよ?」
アナンはだいぶ苛立っているように見えた。
「なんだ? 人の顔をじろじろ見るんじゃない! 目玉をくり貫いてやろうか?」
ユゼフはアナンから目を離さずに答えた。
「君によく似た人を知ってる」
「なんだと?」
アナンの表情が変わった。
「名はカオル・ヴァレリアン。俺の従兄弟、イアン・ローズの家来だ」
アナンの目が大きく開かれる。明らかに動揺していた。剣を持つ手が少し震えているのはその証拠だ。
「たしかにカオルは兄の名だが……」
残念ながら、このやり取りを続けることはできなかった。なんの前触れもなく、月が隠れたのである。
……隠れた、と言うより消えたと言ったほうが正しいかもしれない。降り注ぐ神聖なパワーが同時になくなってしまった。星すら見えなくなる。盗賊たちの持っていた松明の火が風もないのに消され、闇に覆われた。
邪悪な気配はすぐ傍に感じられた。
「火を! 早く火をつけろ!」
異様な気配を感じ取ったのだろう。アナンの叫ぶ声が聞こえる。
ザワザワっと蠢く何かが近づいてきていた。
気配の次は音。悲鳴だ。何かが盗賊たちに襲いかかっていく。彼らは続けざまに叫声を上げ、ドサリドサリと倒れていった。
「いったい、なんなんだ!?」
視界を覆われたアナンは、闇雲に剣を振り回している。
──ちがう……そっちじゃない
黒い化け物がアナンの方へ向かって行くのが、ユゼフにはわかった。
「避けろ!」
思わず教えてしまった。別に恩を売るつもりはない。なぜか放っては置けなかったのだ。彼が知り合いの弟の可能性がある、それだけで他人事とは思えなかったのである。
アナンが避けると、黒い塊は別の盗賊に襲いかかった。その隙にユゼフはアナンの背後へ回り、腕をつかんだ。
「ここから離れたほうがいい」
言った直後に赤い火が灯り、明るくなった。ナフトで会った長髭、貴族風の男が火をつけたのだ。
アナンはユゼフの手を振り払った。
視界が色を帯び、黒い固まりが甲虫の集まりだったことをユゼフは知った。火の光を当てられた虫の群れは、暗がりへと逃げていく。
アナンと髭の男を除いた盗賊は全員倒れていた。哀れなのは、大きく空いた眼窩と気管が剥き出しになった喉である。彼らはこの短時間で急所を食い破られた。そして──
「これは、どういうことだ?」
髭の男がユゼフを見た。
「……わからない」
聞かれても、わかるわけがない。こちらが聞きたいぐらいだ──と、ユゼフは思った。
まだ気配は消えていない。虫の集まりとは別の……もっと大きな闇の気配をユゼフは感じていた。
──これで終わりじゃない
立ち尽くすユゼフたちの前で、倒れていた盗賊たちの体が痙攣し始めた。
ブルブルと身を震わせるさまは、下の妹がひきつけを起こした姿と重なる。
下の妹がまだ二、三歳のころだろうか。高熱で寝込み、ひきつけを起こした。
こういう時、周りはあたふたするだけで何もできない。せいぜい舌を噛まぬよう気をつけてやるぐらいだ。ところが、当人は取り付かれたみたいに全身の筋肉を暴れさせる。寝ながら、体が浮かぶんじゃないかと思うくらい派手にのた打ち回った。
今もその時と同じだった。
最初は震える程度だったのが、だんだんと激しくなっていき、最後には地面から跳ね上がるほどになった。ユゼフはそれをただ眺めるしかなかった。
妹の時と違うのは収まったあと──彼らはムックリと起き上がった。
青ざめた顔は死人そのものだ。空いた眼窩は底なし沼のようで、目を食われていない者も虚ろだった。ヨダレやあぶくを口から吹き出し、言葉にならない呻き声を上げている。
アンデッドだ。
甲虫に命を奪われたあと、盗賊たちはその肉体まで奪われたのである。
ユゼフ、アナン、長髭の三人は完全に包囲されていた。東側へ走って行った連中も死んでから戻って来たらしい。十人以上……数が増えている。
「どうする?」
髭の男が尋ねた。松明は下に置いている。
ユゼフたちは背中合わせに剣を構えた。
先ほど、ユゼフは反射的に剣を拾っていた。普段は鈍臭いとよく言われるのだが、この逃走劇が始まって以来、先を見て行動するようになった。生き延びるため、本能に動かされているかのようだ。
「やるしかないだろう」
アナンが言い終わらないうちに、死人が襲いかかって来た。
刃が光を放ち、黒い血がほとばしる。辺りに充満するのは生臭い血肉の匂いではなく、死臭だ。
アナンが素早く胴を切り付け、胸を刺しても死人の動きは変わらなかった。
ユゼフも何人かを斬りつけた。
彼らは近づくと俊敏になり、力が強くなる。目は見えていないようだから、ユゼフと同じように気配を読んでいるのかもしれない。
「頭だ! 頭を狙え!」
髭の男が怒鳴る。
空いた眼窩に剣を差した瞬間、ようやく止まった……が、口から虫がブワァっと溢れ出て……こちらへ向かって来る!
ユゼフはアナンたちが気を取られている間に、光の届かない闇へ突っ込んで行った。
──ディアナ様の所へ行かなくては
その強い気持ちだけが体を動かしている。彼らを置いて、ユゼフは屋内に通ずる階段へと走った。
※数キュビットは数メートルというニュアンスで。




