6話 サチの初恋(ユゼフ視点)
アスター家での夕食のあと、ユゼフはサチに呼び止められた。
早く帰ってモーヴと二人きりになりたかったのに、迷惑な話だ。お腹の子のことも気になるし、世界一かわいい愛妻とユゼフはイチャつきたかった。そもそも、今日はモーヴのために休みをとって、丸一日一緒に過ごすつもりだったのだ。それが台無しになり、暑苦しい髭オヤジとのディナーへ変更になった。夜ぐらい満喫したっていいだろう。
最近、忙しくて彼女を一人にすることが多かった。埋め合わせとまではいかないにせよ、寄り添ってやりたかったのである。
それなのにサチときたら、思い詰めた表情で「話したいことがある」と。それはもう、明日世界が終わるのではないかと思わせるほど、緊迫感を漂わせてくる。
いつもは感情を出さないが、ユゼフは額に皺を寄せ、露骨に嫌そうな顔をしてやろうと思った。
顔を見て、サチはユゼフの気持ちを汲み取るだろう。
「迷惑なんだな? そうか、一国の宰相だもんな? 俺なんかと比べて大忙しだろう。俺のちっぽけな悩みとは比べものにならない大きな案件をたくさん抱えていて、寝る暇もないぐらいなんだ。俺の悩みはせいぜい安酒場で、仲間にブチブチ愚痴るぐらいが関の山だよ。国を背負ってるユゼフに言うような悩みじゃない」──そう、納得してくれるはず。
だが、思いがけない邪魔が入った。
「家へお招きしたら? そのほうが、ゆっくりお話しできるんじゃないかしら??」
なんたることか……モーヴが気を利かせてしまったのである。
しかも、にこにこして「なんなら、泊まっていけば?」なんて言っている。サチは身を引くどころか、
「じゃあ、遠慮なく……」
と、外套を取りにいった。
ユゼフはサチに向けるはずだった非難の目をモーヴへ向けてしまった。小首をかしげるモーヴの白いうなじが憎らしい。黒髪を下ろした彼女も堪能したかったのに、くるんとした後れ毛をにらむことしかできない。
「そんなに怖い顔しないで」
「今日は君と一緒にいたかったのに……」
「わたしのせいで友情に亀裂が入るほうがイヤ。大切な友達なんでしょう? 彼、とても思い詰めた顔をしてた。話を聞いてあげて? きっと、深刻な悩みよ」
「どうだか……」
ユゼフにはサチの他に友達という友達がいない。だからなのだろう。モーヴは気を使ってくれたのだ。彼女はこういう人なのである。いつだって、ユゼフのことを一番に考え、ユゼフにとって最善の方向へ導こうとする。自分のことは二の次だ。
──もっと、わがままを言ってくれたっていいのに……忙しい俺のことを責めたって……俺は甘えてほしいんだ
モーヴは完璧すぎた。そのせいで、ユゼフは引け目を感じてしまう。
†† †† ††
ユゼフの屋敷はこぢんまりしていた。一国の宰相が住む家には見えないと、よく言われる。周囲の嘲笑には無関心だった。ユゼフにとってはどんな豪邸より、居心地良い場所だ。
壁に使われる煉瓦は質のいいものを使っているし、柱や床の木材も派手さはなくても高価なものだ。家具やオーナメントも気品がある。どれもモーヴのセンスだ。室内の隅々まで手入れが行き届いていた。見てくれにこだわらず良い物を使い、良い仕事をしているのは見る人が見ればわかるだろう。地味で質素でも、こだわり抜いて造られている。
この居心地の良い家に住み、ヴァルタン家の屋敷をユゼフは売ってしまった。
なかなか買い手がつかず、破格の価格でお別れした。さらに瀝青城と王国南半分の領地を国王に献上している。残ったのは爵位と宰相の地位だけだ。ユゼフには欲がない。
質実剛健。ヴァルタン家の家風を私生児のユゼフが一番引き継いでいるのも、皮肉な話だった。
普段の服装も地味だ。ユゼフは他の貴族たちのように着飾らなかった。もちろん、ディアナの従者をしていた時より、仕立ての良い物を身に付けてはいる。必要最低限の身だしなみが整っていれば、見栄は必要ない。
生真面目なところに加え、吝嗇が悪評に拍車をかけているのだが、ユゼフは気にしなかった。五年前、シーマを支えていこうと決意してから、嫌われるのは覚悟している。シーマの人気が安定していれば、それでいい。ユゼフの立ち位置は汚れ役、悪役だ。人々の不平不満がシーマではなく、自分に向けばいいとユゼフは思っていた。
つねに影のごとくシーマに付き添い、重要事項はすべて二人で決める。王議会で話し合われようが、最終的に決定するのはユゼフとシーマである。
居間のソファーには肌触りの良いウールのカバーが張られている。何代も家業を引き継いできた職人が丁寧に作り上げた傑作は、最高の座り心地だ。
そのソファーに身を沈め、ユゼフはモーヴの入れてくれたホットワインを口に含んだ。ナツメグと蜂蜜の香りが気持ちを穏やかにさせる。このまま、寝てしまいたい。
モーヴはワインを用意したあと、そそくさと上階へ姿を消してしまった。サチに気を使ったと思われる。
「いいなぁ、この家は。奥さんは美人で優しいし、ワインも部屋もあったかいし、このソファーも最高じゃないか?」
「わかるか?」
サチの褒め言葉にユゼフの気分は良くなった。
気立ての良い妻と居心地の良い家。眠気を誘うソファーと温められたワイン。サチが持たないものを持つ優越感を味わいつつ、少々同情もする。
「正直、うらやましいよ。俺なんか、いまだに準騎士扱いだから寮住まいだし、食堂の食事はまずいしさ」
「まあ、俺も忙しいから、なかなか家でゆっくりできないんだが」
「贅沢な悩みだよ。俺がユゼフの立場だったら、仕事なんかほっぽって、ずっとこの家にいたいよ」
──おっと、危ない
サチが浴びせてくる羨望に酔いながらも、ユゼフは冷静さを取り戻した。この流れは絶対「泊まらせて」……となる。友といえども、憐れみは不要だ。モーヴ>サチ。だいたい見当がついてるが、さっさと悩みとやらを吐き出させて滞りなく帰ってもらわねば。
臨戦態勢となり、ユゼフのほうから口火を切った。
「話っていうのは?」
「……うん、じつはユマのことなんだ」
──やっぱり。
思っていたとおりだ。ユゼフにとっては他人事というか、はっきり言って興味がない。とはいえ、サチが何を言うかは予測できた。なぜ、わかるのかというと──
さきほどの食事会にて、クソ髭オヤジがユマとの縁談をサチに持ちかけたのである。サチは動揺しまくっていた。顔を真っ赤にして言葉遣いもたどたどしく、
「わっ……私にはもったいない話なので、考えるお時間をくださいっ……」
と、よそ行きモードでアスターに頭を下げたはいいが、当のユマが、
「クソジジイ! ふざけんじゃないわよ! 勝手に決めんじゃないっっ!!」
と激怒して、出て行ってしまったので気まずくなった。
「俺だってわかってる。あのクソオヤジが善意や好意で動かないってことぐらいは。なんだかわからんが、また悪だくみをしているんだろう……だとしても、だ……」
サチは頬を紅潮させ、話を区切った。ユゼフのほうが恥ずかしくなってしまう。その顔は言葉の通り、紅顔の美少年だ。初めての恋に浮かれるさまは初々しい。この五年でいくつかの恋愛経験を経たユゼフとは違い、サチは学院卒業直後と変わらぬ顔をしていた。純粋無垢、女を知らぬ顔だ。
「正直に言おう。俺は彼女のことを……ユマのことを好いている!」
意を決したサチの告白は十年前に聞くべきものだった。大人が改まって言うことではない。
ユゼフはいたたまれなくなり、視線を床に移した。無表情を装い、ワインの入ったマグで手を温める。
タガが外れると、感情の流れはせき止められない。サチは言葉を溢れさせた。
「一目惚れだった。誤解するなよ? 五年前、初めて会った時、彼女はまだ十二だった。一目惚れしたのはひと月前に再会した時だ」
黙っているユゼフに構わず、サチは続ける。
「グラニエ隊長の使いで、たまたまアスターさんの屋敷に入ったんだ。その時、彼女がいた。息が止まったよ──」
カモミールの花を腕一杯に抱えたユマが、妖精か何かに見えたらしい。サチはすっかり、のぼせてしまった。
「彼女の髪、蜂蜜みたいな色をしてるだろう? それが春の日差しを浴びてキラキラしてさ、目もおんなじ色なんだ。見とれてたら、目が合ってしまって……とたんに頭が真っ白になった……ああ、これが人を好きになることなんだなぁって」
サチは幸せの絶頂にいると思われた。こっぱずかしいだけでなく、ユゼフには友の幸せを素直に喜べない理由があった。
ユゼフはサチの言葉には反応せず、ワインをすすった。
「あの話がアスターさんの気まぐれだろうが、なにかの企みだろうが俺は受けるつもりでいる。なぜなら、彼女のことを愛しているからだ」
アーモンド形の目は嘘を言わない。こんなにも純情で今までよくやってこれたな、と感心してしまう。彼を汚した人は、聖典に記されている絶対に許されない罪に問われるのではないか?……そんなことを考えてしまうぐらいの聖域だった。
「わかってる。彼女は俺のことを好いていない。今日の態度からも、それぐらいわかるさ。けど、彼女のキツい性格はアスターさんを父に持って、苦労してきたからだと思うんだ。できるかはわからないが、俺が彼女の気持ちをほぐしてやりたい。少しずつでいいから、彼女の支えになっていきたいんだ」
ユゼフの心は憐憫に満たされる。それはなぜか。アスターの企みのなんたるかを知っているからである。
先日、シーマがアスターに“あのこと”を漏らしてしまった。ユゼフがそばにいないのを見計らって、あのクソオヤジはシーマを誘導尋問にかけたのだ。
サチはグリンデル王家の落胤。唯一の直系。グリンデル女王はそのうち、サチの引き渡しを要求してくるだろう。
アスターが狙っているのはグリンデル王家とのつながりだ。サチがグリンデルの王太子として迎えられるまえに、自分の娘と婚姻させたい。正妃にするのは無理でも、公妾※ならいけるだろう、という目論見である。
ユゼフは顔を上げた。親友なら、ちゃんと伝えてやるべきだろう。“夢を見るな”と。
「サチ、アスターさんが悪だくみしているのに気づいているなら、婚約は断ったほうがいい。彼女のことを思うなら、なおさら……」
ユゼフはゆっくりと言葉を吐いた。吃音の症状が出やすい時期は、気をつけて話す。友のことを思っての発言だった。ところが、
「彼女をあきらめるという選択肢はない。俺が相談したいのはどうすれば彼女に好いてもらえるか、なんだ。おまえみたいにモテるわけじゃないから、どうやって女性の気を引けばいいのか、わからない」
サチはユゼフの忠告を無視した。サチが相談したいのは、その先のことであった。
どうやって女性の気を引くか?──そんな質問は困る。そういえば、ユゼフはサチと恋愛に関する話を、ほとんどしたことがなかった。
思い返せば学生時代──
貴族の女性においそれと声などかけれないし、目を合わすことすらできない。ヒエラルキーの最下辺にいるユゼフたちにとって、学院のお嬢様方は恋愛対象にはならなかった。ひょっとしたら、「誰々がかわいい」程度は話したかもしれないが、恋愛に発展するようなレベルではなかったはずだ。
多感な年頃だから、女性には興味があった。その興味対象はごく身近なところへ向かう。ユゼフたちの関心は互いの妹たちだった。しかし、友達の妹だ。好奇心を露わにはできない。妹を一日交換してみないかと提案してみるのが関の山だった。それも、妹たちの反発により白紙となった。
妹のことを思い出してしまった。母の死に際に留守だったせいで、ユゼフは絶縁されている。ちなみにサチの妹は内海の奥地に嫁いで、なかなか会いに行けないらしい。
まさか、恋愛指南を求められる日が来ようとは……
「お、俺だってそんなにモテるわけでは……」
「俺よりはマシだろう……ここにイアンがいれば、いろいろとアドバイスしてくれただろうな」
アルコールのせいか、サチは口を滑らせた。言ってはいけない名をサラッと口にしてしまったのだ。固い封印が解かれ、罪悪感と自己嫌悪が噴き出す。それに不安が上乗せされた。
気持ちの悪い空気が二人の間を流れ、ユゼフは石となった。恋バナどころではない。
世間ではユゼフが謀反人のイアン・ローズを討ち取ったことになっている。
実際のところは、魔族方式の臣従礼をしたサチが生きているから、イアンは死んでいないのだが、まともな暮らしをしている可能性は極めて低いだろう。
そして、イアンをそんな状況に追い込んだのはシーマ。間者を使い、イアンを唆して謀反を起こさせた。事実を知っているのは限られた人間だけだ。
ワインが冷めてしまった。サチも察したのだろう。マグが空になると一言、
「聞いてくれて、ありがとう」
礼だけ告げて、屋敷をあとにした。
※公妾……王の二番目以降の妻のこと。




