75話 義母
翌日、ユゼフは義母のいる修道院へ向かった。
ラセルタがついて行くと言い張ったが、絶対にダメだと拒否した。そのあと、実母と妹たちのいる実家に帰るつもりだったからである。
「なんで、いけないんですか? オレもユゼフ様のお母様に会いたい!」
「ダメと言ったらダメだ。母とは込み入った話をするから、他人がいると困る」
ラセルタがふくれるので、ユゼフは仕方なく別の日に連れて行くことを約束した。
修道院は町外れにあった。民家は途切れ、背後に農地が広がる。喧騒から離れたのどかな場所だった。
往来が少ないため草はぼうぼう、道と野原との境界がわからなくなり始めている。馬車もあまり通らないようだ。宿屋で借りた馬を走らせ、一時間ほどで着いた。
義母バルバラ・ヴァルタンは、最後に会った時と変わらぬ険しい顔でユゼフを出迎えた。
聖堂の裏門をくぐると、小さな面会室が設けられている。簡易なテーブルと椅子が二脚あるだけの質素な部屋だ。窓はあるものの、曇りの日の部屋は薄暗い。灰色の壁には絵も何も掛かっておらず、テーブルの上も寂しかった。
義母の眉間と口に深く刻まれた皺を見て、せめて花が生けてあれば少しは顔が明るくなるのに……なんてことをユゼフは考える。
「母上、このたびは……」
ユゼフは言いかけて間を置いた。バルバラが言葉を遮ると、わかっていたからである。
「お悔やみの言葉は必要ない」
案の定、バルバラは冷たく言い放った。それから用意していた書類の説明を始めた。
「これが土地、城の登記簿と権利書、爵位認定証、そして父上があらかじめ用意していた遺言書です。遺言書には万が一、二人の兄たちが亡くなった場合、爵位や家名も含むすべての権利をあなたに相続すると書かれています。これらの書類はヴァルタン家を継ぐにあたり、国王陛下の許可と共に必要になるでしょう。それと……」
バルバラの話は事務的で何の感情も込められていなかった。
ユゼフは相槌だけを打った。一度に夫、二人の息子、実の妹を亡くしたとは思えないほど、バルバラはしゃんとしていた。その態度は国を出る三ヶ月半前とまったく変わらず、ユゼフはここが修道院ではなく、ヴァルタン家の屋敷ではないかと錯覚するぐらいだった。
「話は以上よ」
説明が終わると、気まずい沈黙が場を支配した。
「あの、は、母上……」
「そのように呼ぶ必要はない」
例によって、突き放すような物言いをする。
──じゃあ、なんて呼べばいいんだ
言葉に詰まるユゼフに対し、
「シスターでも、なんでもいい。もう、私はヴァルタンでもローズでもない」
見透かしたようにバルバラは言った。
「……では、シスター、育ててくださりありがとうございました。今まで大変お世話になりました。心から感謝しています」
これは本心からの言葉だった。義母に厳しく躾けられたおかげで、ナイフとフォークの使い方すらわからなかった少年は、貴族らしく振る舞うことができるようになった。
気のせいか、バルバラの表情が一瞬和らいだように見えた。だが、次にバルバラが発した言葉は思いがけないものだった。
「実の母にはもう会ったか?」
どういう意図があって、こんなことを聞くのか……実母に会うことをバルバラは固く禁じていたはずだ。
ユゼフは答えられず下を向いた。
「知っていた。おまえがこっそり会いに行っていたことは」
「え!?」
ユゼフが驚いて顔を上げると、バルバラは表情一つ変えずに打ち明けた。
「最初は厳しく罰を与えて、行くのをやめさせようとした。だが、いくら罰を与えても、おまえはやめようとはしなかった……」
──そうか……気づかれていたのか
厳格なバルバラが見て見ぬ振りをしていたとは、にわかに信じられなかった。ユゼフの首の辺りを見つつ、バルバラは告白を続けた。
「おまえは私のことを鉄の女主人のように思っていたかもしれないが、哀れみの気持ちぐらいは持ち合わせている。おまえが宦官にされることに対しても、私はずっと反対していた」
意外だった。宦官になることに関しては、むしろ勧めているとユゼフは思っていたのだ。
「考えもしなかったであろう? 私はヴァルタン家の妻として感情を押し込める必要があった。夫の利益のためには、己の感情を犠牲にしなければいけなかった……」
義母の濃い褐色の瞳は悲しみの色を湛えていた。これまで見ていたのと違う。冷え切った無感情な瞳ではなかった。
「本当は疑問に思っていた。おまえを兄たちの保険としてヴァルタン家に迎え入れることは……家族のもとで幸せに暮らしているおまえをむりやり連れてきて、物のように扱うことも……しかも、ダニエルたちが無事戦地から帰国すると、エステルは当たり前のようにおまえを宦官にすると言った。おまえを王室に仕えさせ、政治利用するつもりだったのだ」
怒気を含んだバルバラの声は抑揚を抑えようとしても抑えきれず、微かに震えていた。
「ディアナ様はグリンデルへ嫁いで王妃になる予定だった。エステルはグリンデルとの繋がりがほしかったのだろう。選択材料のなかにおまえの感情は存在しなかった。この私の感情も……」
そこで、バルバラはいったん言葉を切った。心なしか目が潤んでいるように見える。見たことのない義母の姿にユゼフは狼狽していた。
「エステルの行いは間違っていることだと、神の前では許されぬことだとわかっていた。それをわかっていて傍観し、なおかつ片棒を担いだ私も同罪だ。だから罰が当たったのだ。エステルはああなって当然だった。ダニエルとサムエルは私の罪のせいでああなった……」
バルバラは軽く目の端を拭った。ユゼフは何か声をかけようとして口を開いたが、言葉が出なかった。
「でも、これだけは言わせて……この八年、苦しんできたのはおまえだけではない。私もずっと苦しんできた……これからは贖罪のためだけに生きていこうと思う……」
「……母上、感謝こそすれ、怨みに思ってはおりません。どうか気に病まないでください」
ユゼフはそう言うのがやっとだった。バルバラは首を横に振ってから、充血した目でユゼフの目を捉えた。
「おまえは自由よ。これからは好きに生きればいい」
さきほどまで曇っていた空が晴れ、窓から陽が差し込んだ。ユゼフを見るバルバラの瞳に陽光が映り込み、鮮やかな色を帯びる。
なぜかディアナのことを思い出して、ユゼフは目を伏せた。




