64話 縮んでいく世界 その三
ハンスの声が洞窟内にこだまする。ユゼフは心のなかで繰り返した。
──記憶の……洞窟?
次の瞬間、いくつもの発光する物体がこちらへ向かってきた。
蛍より光は大きい。サクランボぐらいか、それ以上……蛍ほどは俊敏に動かず、フワフワと浮遊する。例えるなら、大ぶりでも儚く舞う雪片だ。
近くまで漂ってきて、ようやくそれが白い綿毛なのだとわかった。
アスターがクリープの顔を見る。
「おい! これは魔国で見たのと同じの……」
「たしかに……そっくりです」
クリープは神妙にうなずいた。淡い光に照らされ、眼鏡は濡れていたが、震えてはいない。
ユゼフは耳を触り、自分の手が温かいことに安堵した。滝を抜けたとたん、寒気が収まっている。魔法の力が働いているのか、内に火が灯ったかのようにぽかぽかしていた。
「魔国で同じ物を見たのか?」
サチが尋ね、アスターが答えた。
「おまえは寝ていたから知らないな? イアンのいた城が消えてなくなる時に、これと同じような物が大量発生したのだ」
「ふーん……」
サチは何気なくそれに触ろうとした。
「触ってはいかん!」
「……なんでだよ?」
「それは、その……」
アスターは言い淀み、ユゼフの顔を見てくる。ユゼフは首をひねった。ユゼフはその時、一足先にアキラとグリフォンで村へ帰っていたと思われる。村の湖に沈められて魔甲虫を抜かれたあと、気球の中で目覚めるまで意識を失っていた。
──綿毛? エリザが、まえに言っていたやつか?
「そうです。それは誰かの記憶の塊なのです」
ハンスは悲しげな微笑を浮かべている。
「皆さん、水が循環するのはご存知でしょうか? 空から落ちてくる雨や雪は、地下に浸透し蓄えられます。そしてまた地表から吹き出し、川となって海へ注ぎ込みます。やがて海の水は蒸発して雲になり、ふたたび雨や雪となって地上へ戻ってくるのです」
綿毛は次から次へと飛んで来た。辺りは優しい光に包まれる。
アスターとクリープはいやに警戒しているが……フワフワ浮いたり沈んだり、ボゥっと光を放つ綿毛は甘美だ。霊魂の一種であろうか。恐れを抱かせるような、邪悪さは皆無だ。ユゼフは顔を傾け、綿毛を注視した。
「霊魂というか、断片のようなものですね。人の魂が死ぬまえの形のまま留められるのは、非常に稀です」
浮かび上がった疑問に、またハンスが答えた。
清らかさは心を打つ。水面を仄白く照らし出す綿毛は、いかにも柔らかそうで見ていると気持ちが鎮まる。つねに揺れ動く闇と光の境界は曖昧だ。そこにいる自分の存在さえ覚束なくなってくる。綿毛と一緒に、空を漂っているかのような錯覚に囚われる。
静謐な場所は音や寒気だけでなく、心まで吸い取ってしまいそうだった。初めて見るユゼフにとっては、ひたすら耽美な世界だ。
「我々妖精族、光の民は死者を水葬します。それは輪廻により魂が永遠に生き続けることを願うからです。ここにあるのは水に溶けた死者たちの記憶……」
ハンスが話している最中、一つの綿毛がユゼフの肩に触れ、雪のように溶けて消えた。
瞬く間にユゼフは、雪面に覆われた白銀の世界へと移動した。
──アオバズクの外で殺された後、戻ってきた者たちの記憶
耳にハンスの声が届く。
両手を縛られた亜人たちが縄に繋がれ歩かされていた。皆、薄着でサンダルを履いている。なかには子供もいる。雪山を強制的に登らされているのだ。
断片的に「鉱山」とか「グリンデル水晶」といった言葉が脳に入り込んでくる。
──もしかしてグリンデル鉱山へ採掘に送られた奴隷の記憶か
躓いたり転んだりすれば、すぐさま見張りの兵に鞭打たれる。
その繋がれた亜人たちのなかにユゼフはいた。亜人が人間より丈夫な肉体を持っているとしても、限度があるだろう。凍傷に冒され黒ずんだ手足で動けるのは異常である。膝から崩れ落ちるユゼフを兵士は容赦なく鞭打った。痛みはないが、記憶の持ち主の感情は心に流れ込んでくる。
記憶の主は違う場所へ連れて行かれた妻と子供たちの身を案じていた。彼らを助けに行かねばならない。だから今、俺はここで死ねないのだと……
鞭を振り下ろしていた兵士が見透かしたようにニヤリと笑う。
おまえの妻子は俺が手にかけたと……痛めつける時、おまえと違い、とてもいい泣き声を上げた。首に吊しているのは、おまえの子供たちの歯だ……
それから先は激しい感情の波に押し潰され、兵士が何を言っているのか、わからなくなった。絶望し、記憶の主は息絶えたのだろう。ユゼフは元の洞窟へと戻った
「また、こんな物を見せるのか!? もう、ウンザリだ!」
同じく何かを見たのか、アスターが怒鳴る。
「死んだ者の記憶などクソくらえだ! 早く地上に戻らせろ!」
アスターの気持ちはわかる。痛みを感じなくても、映像は現実そのものだ。感情まで体内へ流れ込んでくる。虐殺される記憶を何度も繰り返されたら、誰だって気が狂う。
「でも、あなた方は知る必要があります。過去に何があったか。ガーデンブルグ王家が、我々亜人に何をしてきたか……」
「亜人たちが虐殺され、人権を踏みにじられてきたことは知っている。ヘリオーティスに、グリンデル王家に、ガーデンブルグ王家に……これ以上、何を知ると言うのだ!?」
「あなたたち人間はいつもそうやって目をそらす。自分に関係ないと逃げ続けた結果、どうなりました? 暴君が長年君臨し、己の利益のために戦争を続け、無垢の人々は命を奪われ続けてきました。あなたの息子さんはどうですか? クロノス・ガーデンブルグが国王でなければ、カワウとの戦争もなく、今ごろ孫の顔を見られていたかもしれませんよ」
心を読まれたのか。死んだ息子のことを言われ、アスターは顔を赤くした。激昂寸前だ。絶対に触れてはいけない柔な部分に触れられ、平常心は失われる。
息子の話はアスターの弱みである。傷だ。グジュグジュ膿んだまま、けっして治癒することのない、覆い隠そうとしても隠しきれない傷。
わざと横暴に振る舞ったり、自暴自棄になったりするのはこれが原因かと思われた。
いつもは煽り役のアスターが反対に煽られていた。ハンスは薄く笑っている。人の心を読めるというのは恐ろしいことだ。いつも、誰よりも精神的優位に立つアスターですら、敵わないのだから。
ユゼフはアスターの肩に手を置いた。
「アスターさん、落ち着いて。たしかにアスターさんたちには、見る必要のないものだ。けど、俺は見て知らなければならない」
ユゼフには断乎として譲れぬ決意があった。シーマが卑劣な手段を用いてまで、国家転覆を謀ったのはなぜなのか? シーマからの手紙には「自分で全部背負う」と書かれてあったが、ユゼフは責を押しつけて逃げたくなかった。
アスターはユゼフの気迫に押され、めずらしく怯んだ。
「シーマがなぜ王になることを選んだのか、俺は彼の腹心として知る義務がある」
シーマが冷酷にも四十数名の王子の命を奪った理由。イアンを陥れたこと、ユゼフの兄と父を殺したこと……すべてに対し納得できるまで、ここにいる必要があるとユゼフは思った。
ユゼフは船首のほうへ移動した。記憶の綿毛を一身に受けるためだ。
アスターは黙り、ふたたび静寂に支配される。聞こえるのはせせらぎ程度の音量の滝の音だけになる。
なに、死にはしない。逆に触れたことで体温は上昇し、寒さが気にならなくなった。魂というのは命。命を喰らえば、活力を得る。
ユゼフはゆっくりと目を閉じた。受け入れる覚悟は出来ている。
──俺は知らなくてはいけない。罪を共有するためにも
綿毛が体に触れる寸前、思いがけない声が聞こえた。
「俺も……俺も知りたい! 自分が亜人だということはごく最近知った事実だが、同じ亜人がどういう目にあい、どのように生きてきたのかを知りたい。知らなくてはいけない気がする!」
サチだ。サチは船尾のほうに立った。
「アスターとクリープは伏せてればいい。俺とユゼフが綿を全部食ってやる!」
サチの小柄な体躯からは、溢れんばかりの精気がみなぎっていた。




