20―2話 グリンデルに援軍を頼む②
うまく乗り切ったと安堵している場合ではない。ユゼフは早速本題に入った。
「どうしても、お願いしたいことがあるのです。これは妹君ヴィナス殿下、ミリアム妃殿下、国王陛下の命にも関わることです」
前置きは短くし、インパクトを与える。
「ヴィナス様の文にもあるとおり、現在主国内は逼迫した状況です。内海の領主の多くが謀叛人に味方しました。兵力の差は五分と書かれてありましたが、実際はもっとでしょう。内海では、国王陛下に対する不満が高まっていたのです……」
ディアナが、おとなしくなったおかげで言葉がスラスラと流れ出る。ユゼフは早口になった。
「王連合軍は占拠された王城を囲んでいるとありました。しかし、突破されるのは時間の問題です。なぜなら王城の西、ヴァルタン領は敵の手に落ちているからです。西と背後の内海、さらに北のローズ軍も加われば、ヴィナス様のおられるシーラズ城は挟み撃ちされます。包囲は簡単に破られるでしょう。それを回避するには……」
「ちょっと待って! 難しいことはわからない。いったい、なんの話をしているの?」
放心していたディアナが帰ってきた。情報量が多くて頭に入っていかないのだろう。鼻に皺を寄せている。
「グリンデルのナスターシャ女王に文を書いていただきたいのです。援軍を国王陛下のもとへ送るようにと」
「なぜ? シーバートがそう言ったの? 援軍って……時間の壁で通れないでしょう?」
「シーバート様は何もご存知ありません。マリクは時間の壁を通ってきました。とある場所なら通れるのかもしれません」
「でも、どうしてあなたが?」
ユゼフは下を向いた。これ以上は無理だ。どうすれば、彼女は言うことを聞いてくれる? どうすれば……ユゼフは無意識に左腕の傷を触っていた。
──誰かにものを頼む時は相手の目を見て、視線を動かさないようにする
シーマが以前、そう言っていたことを思い出した。主の言葉には強い力がある。
ユゼフは顔を上げ、まっすぐにディアナの目を見た。
「シーバート様は関係ありません。国王陛下がお亡くなりになりました」
「なんですって!?」
「シーバート様はディアナ様を気遣って、このことはまだ伝えないほうがいいと」
ディアナは絶句した。
「お亡くなりになったことが国内に広まるのは、時間の問題です。そうなれば、諸侯の多くがイアンにつくでしょう。兵力の差は歴然です」
「もし……もし、イアンが王になったら私はどうなるの?」
「おそらくは……」
「やめて!! 言わないで!」
ディアナは動揺し始めた。対してユゼフは冷静になる。
「グリンデルに文をお書きください」
「あなたの言うことを信じていいの?」
「今までディアナ様のことをお守りしてきました。これからも命がけでお守りします。どうか、信じてください」
無言で見つめ合う。
言葉を失うとは、まさにこのこと。言い表そうとすれば、ありとあらゆる言葉は陳腐化する。
──まるで女神のようだ
甘い時間が過ぎ、ディアナの瞳から不安や疑いが消えた。
「わかった。あなたを信じる」
ディアナは首肯した。
肩から力が抜けていく。息を吐いた瞬間、ユゼフは両手を床についてしまった。
──まだ、まだだ。安心するにはまだ早い
「感謝します。文面は私が考えましょう。女王陛下はご存知かもしれませんが、マリクが通ってきたと思われる場所のことも書いておかないと。大体の位置はわかります」
主国、グリンデル王国、魔の国、三国の境界が交わる、ディアナを連れて行けとシーマに命じられたあの場所。
問題は文をどのようにして届けるかだ。初めての場所に動物は使えないので、ユゼフ自身が行くしかあるまい。
※※※※※※※
書き終えた文に封蝋を押したころには、夜の八時をまわっていた。
「ありがとうございます」
文を受け取ったあと、ユゼフはごく自然に笑みをこぼした。とてもくたびれていたが、清々しい気分だった。なんとか役割を果たすことができる。
シーバートにはレーベを探しに行くとでも嘘を吐いて、ただちに発とうと思った。
ところが、去ろうとしたとたん、後ろから強く腕をつかまれた。
「待って。行かないで!」
振り返れば、ディアナが泣きそうになっている。
「一人にしないで欲しいの。もう少し、もう少しだけこのままで……」
いきなり、ディアナは背後からユゼフを抱きしめてきた。こんなことをされたら、息が止まる。
動くに動けず、前を向いたまま硬直する。ディアナはユゼフのだらりと垂れた手に指を絡めた。
「こうしていると、あなたの心臓の音を、体温を、匂いを、呼吸を感じることができる……」
ユゼフの体内では沸騰した血が暴れ狂っている。本能は正直なのに心は定まらない。
ディアナは思いをぶちまけた。淡々と、ときに昂らせ……
「いつだって、ひとりぼっちだった。周りにいるのはバカみたいに媚びへつらう者ばかり。私は女だから、父も母も興味を持たなかったわ。ヴィナスとは仲が良かったけれど、兄たちは私を空気のように扱った。どうせ外に出される運命だからと、あきらめていたの」
ぬくもりとセットの場合はなおさら、飾らない言葉は心に響く。
「もちろん、反発したこともあった。自分より弱い者をいじめたり、使用人にも、よく当たり散らしていたわ……あなたにも酷いことを……」
服を挟んでいても、彼女の息遣いと唇の動きを感じ取ることができた。
妹以外の女性と触れ合う機会がなかったわけではない。どうせ宦官になる身だからと消極的だったのだ。経験がないユゼフは、どう対応すべきかわからなかった。
「あなたの瞳、深い藍色をしてるでしょう? なんで今まで気づかなかったんだろう。とても、きれい……」
「……いけません、ディアナ様」
掠れ声を絞り出し、ディアナに向き直った。
「私のような者は高貴なお方に相応しくありません」
「どうしてなの? あなたは自分より、私のことを大事にしてくれた。カワウからモズへ向かう土漠で、自分の食べ物や水を全部差し出してくれたでしょう? 森ではケガをしてまで怪物と戦ってくれた。ナフトでは盗賊と戦い、ここに来るまで傷が痛んでも私のことをおぶってくれた……ペペ、あなたは私のことをずっと守ってくれていたわ」
「あなたをお守りするのは……」
「国王への忠義、とでも言うつもり? あなたにそんなものあるのかしら? 私たち、似た者同士じゃない? 親に物のように扱われ、利用されて……でも、もう、その親はいない」
ユゼフはディアナの深緑の瞳を見つめ返した。一片の曇りもない。彼女の指は柔らかく、そして冷たかった。胸が締めつけられる。
──たぶん、これは罪悪感から来る痛みだ
不意にドアをノックする音が聞こえ、ユゼフは弾かれたようにディアナから離れた。
罪悪感? 臆病風? どちらにせよ、甘い夢から逃げ出したかった。悲しいかな、逃げ出さなくても、目覚めは向こうからやってくる。忘れていた現実が追いかけてくる。
ユゼフは相手を待たせず、ドアを開けた。
ドアの前にいたのは、思いがけない人物だった。シーバートでも、エリザでも、レーベでもない。
薄い鉄製の胸当てと肩甲を身に付け、脚衣の上には汚れた編み上げブーツ。腰に剣。艶のある栗毛を無造作に束ね、見事に武装している。
ミリヤ──盗賊に囚われているはずの哀れな娘がそこにいた。