22話 急に歌い出す
ソラン山脈の五首城を出て山越えをする。目的地は山を越えた先、夜の国カワラヒワだ。
(歩く順番)
ユゼフ
イザベラ、ダーラ(狐)
クリープ、アスター
ラセルタ(とかげ)
エリザ、レーベ、アキラ
翌日、ユゼフたちは五首城をあとにし、ソラン山脈を登っていた。
山頂付近に近づいたとたん、植物は極端に減る。目につくのは岩に張り付く地衣類※や、石だらけの地面から顔をのぞかせるタデ科の低草だけだ。
道もあるにはあるが、大きな岩をよじ登る所もあり楽ではなかった。
自然と皆、無口になる。マリクだけが楽しそうに舌を出し、息をしていた。ときどき振り返りながら、駆け上がるマリクの丸まった尻尾をユゼフは恨めしく思う。
アスターに血をあげたし、昨晩はほとんど寝られなかったから体がダルい。それに、さまざまなことが一度に起こり過ぎた。精神的に疲労している。
先頭のユゼフの後ろにはイザベラとダーラが並んで歩き、クリープ、アスターと続く。
迷子のラバを二頭見つけたのは、ユゼフの能力の成せる技だった。一頭に荷物を載せ、もう一頭にサチを乗せた。その二頭をクリープとアスターが引く。
アキラ、エリザ、レーベの三人が遅れていた。
ユゼフはラセルタに、遅れた三人の様子を見に行かせた。
背後のイザベラとダーラの会話が聞こえてくる。
「なんにもない。つまらないな」
「いいえ。岩がとっても綺麗。ほら見て。こんなに乾いていて、栄養も少ない場所で……日の光を懸命に浴びて自分の色を咲かせているの。美しいと思わない?」
イザベラが言っているのは、岩肌を彩る地衣類のことだろう。赤や黄、橙、ピンク、白、淡青、黄緑などカラフルだ。なるほど、岩ばかりで味気ないとユゼフも思っていたが、見方を変えれば……乾いた苔のような地衣類がびっちり張り付いた岩肌は、秋山の紅葉にも見える。
山頂に近づくと、その苔すらなくなり、生命の気配を感じられなくなる。殺風景な進行方向から目をそらし、ユゼフは来た道を振り返った。遅れた三人とラセルタの姿はかなり小さい。追いつくまで、まだ時間がかかるだろう。ユゼフは後続のアスターへ視線を移した。
荷物係のクリープと並んで、ラバを連れ歩くさまには恐れ入る。今朝、城を出る時にアスターから申し出たのである。多少は反省したのか。
──どうだろう? したたかな人だから、殊勝なフリをしているだけかも
ユゼフが止まっていたところ、イザベラとダーラが追いついた。
「ねえ、狐君、歌いましょうよ」
「……おいらの名前はダーラだ」
「ダーラ……いい名前ね。お父様がつけてくれたの?」
ダーラは口をキュッと結び、首を横に振った。動物的本能からイザベラを警戒している。構わず、イザベラはしゃべり続けた。
「黙っている間、ずっと歌詞を考えていたの。節はもう決まっているわ。ザカリヤとクラウディアの恋物語よ! 教えてあげるから、一緒に歌いましょう。わたしがクラウディアで、あなたがザカリヤね」
ダーラは当惑した様子だったが、逆らえずにうなずいた。
よりにもよってつい昨日、命からがら逃亡したグリンデルをテーマに歌おうと言うのだ。悪の女王ナスターシャが引き裂いた、英雄と王女の悲しい恋物語を──イザベラは歌い始める。
「あなたは|ヒース(荒野)を埋め尽くす薄紅色の|ヒース(花)……夏が終わり、冬の始まりに戻ってきて……そしたらザカリヤ、あなたはこう、光よ、雲の合間から射し込むあなたが待ち遠しい……」
「おいらの名前はダーラだ」
「いいの。今はザカリヤになるのよ。さあ、まねして」
ダーラは軽く瞼を閉じ、張りのある声を出した。男にしては高音で、かといって弱々しくもなく、緩みのない弦を思い切り弾いたような力強さがある。それを聞いて、イザベラは大きく嘆息した。
「ああ、美しいわ! でも、もうちょっと低くして。わたしの声が女にしては低めだから」
弦を震わせる。喉の奥から口へと溢れ出る耽美な言葉の数々。岩が跳ね返した音は、また別の岩に反響する。
イザベラとダーラは対話するように歌い始めた。戦の時も歌っていたが、ダーラは抜群に歌唱力がある。
追いついたアスターが目を丸くしていた。死ぬ思いで逃げ延びて、今も逃げ続けている。そんな状況で呑気に歌などと──たぶん、山奥で珍獣を見つけたら、こういう顔になる。
「とうとう、気が狂ったか……いや、おまえらは最初からおかしいからな」
──あなたのため、大地を照らす光になる。あなたが笑ってくれるなら、この命、喜んで捧げましょう……
殺伐とした空気が一変する。天まで届きそうな澄んだ歌声は、灰色の風景を色鮮やかに変える力があった。
驚いていたアスターも穏やかな顔へと変わっていく。その隣にいるクリープは相変わらず無表情だが、嫌がっているようには見えなかった。いつしかユゼフも、変人二人の歌声にどっぷり浸かってしまった。
ディアナのことが思い返され、つらくなる。
「愛だの恋だの、馬鹿らしい」
ディアナのことを頭から追い払いたいがために、ユゼフは水を差した。歌声は止んで、乾いた風が吹く。
「まあ、いいではないか? 二人とも美声だし、誰にも迷惑はかけてないだろう?」
擁護するのはアスターだ。
「産まれた子供はどうなった? 愛だの、恋だの言ってるせいで王子二人は惨殺された。周りを巻き込んで、皆を不幸にするだけだ」
ユゼフはせっかく和んだ空気を台無しにした。これだから嫌われるのだ。歌声が止まったことで、残像だけ置いて、ディアナは頭の中から消えた。うんざりするほどの平穏が心に訪れ、鬱々としたトーンに戻った。
カラフルに見えた岩は見る影もなかった。岩に張り付き藻を纏った菌はくすんで見える。渇き切った場所でも、生にしがみつく浅ましさすら感じる。
過酷で退屈な山登りが再開した。
ユゼフの顔色をうかがいつつ、アスターが沈黙を破った。
「イザベラ、ダーラ、歌ってもいいぞ。恋の歌でなければいいのだろう? 子守歌なら構わんだろう」
「いやよ。だって怒られるもの」
イザベラの拗ねた声が聞こえた。背後だからユゼフには見えないが、唇を尖らせてそうな子供じみた声だ。こういったかわいらしい反応はめずらしい。ユゼフの前では、もっとツンツンしている。
「物事を一面でしか、捉えられない人なのね。かわいそう……ダーラ、あなたはどうなの? 付き合っている子はいるの?」
ダーラは首をかしげたのだろう。イザベラはクスクスと笑う。
ユゼフはなんとなく勘づいた。イザベラの仕草が女の子らしいのは、ダーラを意識してのことだ。この意地悪女は、なぜかダーラのことを気に入っている。
「あなたは優しいし、王都に行ったらきっとモテるわ。その耳と尻尾は隠さないといけないでしょうけどね。よかったら、クレマンティの屋敷で働くといいわ」
「おいらはアスターに付いて行く」
「それは良くないと思うわ。あの人はあなたにいい影響を与えないと思うの……」
「おい、丸聞こえなんだが……」
すぐ後ろを歩くアスターが、抗議する。
「ふふん。あら? ごめんあそばせ」
イザベラはあっけらかんとして、ダーラとのおしゃべりを再開させた。
「うちの屋敷で働いている女の子なんだけど、すごくかわいらしくて、あなたにピッタリの子がいるの。無事、帰れたら紹介してあげるわね!」
ダーラは答えられないでいる。
「まさか、女の子に興味ないわけじゃないでしょう?」
「……交尾してるのは見たことがある」
ダーラの答えに、イザベラは言葉を失った。
「……いけないわ、ダーラ。あなたは人間なのよ?」
「人間も動物も一緒だろ」
「いいえ。違うわ。人間は見つめ合ったり、互いの温もりを感じるのよ」
ダーラはよくわからないのか、また無言になった。
二人の後ろで話を聞いていたアスターが笑いの含んだ声で、クリープに声をかける。
「阿呆同士で話していると、会話が噛み合わんようだな? まるで寸劇でも見てるようだ」
「そうですか……」
「おい、昨日のことはやり過ぎだったと謝ったろうが?」
「別に恨んだりしてません」
アスターはそれ以上、歩み寄るのをあきらめた。クリープはなにか隠しているが、ユゼフやサチの命を狙っている目先の敵とは関係ないと思われる。
髭を撫で、アスターは思考している。ユゼフは背中で見て、聞き耳を立てた。
「クリープよ、おまえ実際のところ、剣はどれくらい使える?」
「……たいして使えません。戦うときは足手まといになると思います」
「嘘をつくな! おまえ、気配をまったく消せるし、体力もあるだろう? 身のこなしが素早いこともある。魔国では食虫植物に襲われても、慣れた様子だったし」
「それは……」
「命に関わることだ。我々は暗殺者たちから逃げている状況なのだぞ? 正直に話せ!」
クリープは少し迷ってから口を開いた。
「本当に剣はたいして使えません……」
「おい!……」
「でも、魔力を感じ取ることはできます」
「……どういうことだ?」
「……僕は魔人に飼われていました。その間、特殊な訓練を積んだのです。魔に属するタイプの亜人や魔物は強い魔力をまとっています。魔力は体を血液のように駆け巡っているのです。それを感じ取ることにより、軌道を先読みすることができます。ですが、それは魔力を持つ者に対してだけです。あなたのような普通の人間に対してはできません」
「なるほど……」
これで、弱いクリープが魔国で生き延びられた謎が解けた。ユゼフが人間や動物の生命エネルギーを感知するのと似ている。ただし、クリープの場合は魔力を持つ相手だけに特化している。
「お話の内容から刺客は普通の人間で、かなりの手練と聞いています。僕ではきっとお役に立てないでしょう」
「わかった。しかし、おまえの潜在能力は高いと思う。ちゃんと習ったことはあるのか?」
「……いえ」
「一息つけたら、剣の指導をしてやる。おまえもユゼフと一緒で、使えるようになるかもしれん」
「あまり期待されないほうが……」
「期待など最初からしとらんよ。駄目もとでやるのだ。アキラの実家まで無事に着いたとしても、アオバズクへ行くまでに必ず襲われるだろう。使える奴は多いほうがいい」
まじめな話の最中に邪魔が入った。
「見て! 頂上よ!」
イザベラが駆け出した。話している間にだいぶ進んでいたのである。前方には国境線の代わりとして、等間隔に埋め込まれた棒が見える。そして、その向こうには……
「きれい! カワラヒワの赤い月だわ」
岩陰に隠れていた大きな赤い満月が姿を現した。山の向こうの暗い空を背景に鮮やかな赤色が映える。
カワラヒワでは西と東の両方から月が昇る。西から昇る赤い月は、東から昇る月のように欠けることはない。絶えず満月だ。明け方、太陽の代わりに西から昇り、日の入りに東へ沈む。
今は西の空に高く昇っている。頂上を境に定規を使って区切ったかのごとく、空の色が水色から濃紺に変わっていた。
「走っては危ない!」
ユゼフが注意したが、聞かずにイザベラは横を駆け抜けた。近そうに見えても、頂上までは距離がある。
「あっ!」
案の定、イザベラは岩につまづいた。前のめりに倒れそうになり、すんでのところで腕をつかまれる。
助けたのはダーラだった。駆け出した時、いち早く追いかけていたのである。
「危ないよ」
ダーラは体勢を崩したイザベラを軽々と引っ張りあげる。イザベラは恥ずかしそうに頬をピンクに染め、スカートの埃を払ってごまかした。
頂上が見えてから、一時間はかかっただろうか。
西の月は西の海から昇り、ソラン山脈に落ちると言われている。それを納得させるほど巨大で明るかった。
日が昇らなくても、赤い月のおかげでカワラヒワは夕暮れ時ぐらいは明るいのだ。
山頂から見る夜の国、カワラヒワには、きらめく天の川が見えた。この運河は北西へ向かって走って行く。先にあるのが夜の町だ。いくつもの色彩豊かな光が集まって、町はキラキラ輝いていた。
アスターも目を細めている。美に抱く感情は皆同じだ。
「あれは天灯だな? 日の昇らない夜の町では、絶えず天灯が飛ばされていると聞いたことがある」
「すてき……なんて美しいのかしら……」
イザベラは目を潤ませた。
赤い満月と光り輝く町……青白い空気に包まれたその風景は、あまりにも甘美だった。これを前にしてはどんな言葉も陳腐に聞こえてしまうだろう。しばし、静寂に支配された。ユゼフも胸一杯に清々しい空気を吸い込む。
「きっと、うまくいくわ。きっと、なにもかも……だってわたしたち、あんな恐ろしい目に遭ってまだ生きてる……だから……」
誰ともなしに呟くイザベラの目から一筋、頬を伝って雫が流れ落ちた。
※地位類……藻の中で繁殖する菌類。乾いた環境でも生きていける。




