12話 疑心暗鬼
その時、ユゼフは気配を感じて場を離れた。
皆が集まっていたのは西側の胸壁の近くだ。目の前に居館がある。鼠が忍び込むとしたら、外壁をよじ登ったか、隠し通路か。
気配は近い。鋸の刃のように凹凸した狭間胸壁※の辺りからだった。
──気のせいだろうか。ヒュッと現れて、スンと消えてしまった。
「おい、ユゼフ!どうした?」
「今、鋸壁の辺りに誰かいたような気がした……」
アスターが近づいてきたので、ユゼフは一緒に鋸壁の隙間を覗きこんだ。凹凸の凹の部分は、人一人入り込めるくらいの広さがある。
「誰もいないな? 勘違いか」
アスターはユゼフに戻るよう、手をヒラヒラ振った。それから数歩歩き、ピタリ……止まる。クルリと踵を返した。
アスターは音を立てず素早く胸壁に戻ると、ギザギザの狭間の一つに手を突っ込んだ。狭間から引きずり出したのは……
「クリープ!」
アスターはクリープの体を硬い石の床に叩きつけた。眼鏡が吹き飛び、クリープは蛙のように這いつくばる。
「こそこそと会話を盗み聞きしやがって! 貴様、何者だ? まさか、連中と繋がっているのではあるまいな?」
拳を振り上げようとするアスターにクリープは、
「ただの好奇心です。盗み聞きしたことは申しわけないです。でも、誰かと繋がっているとか、そういうんじゃないです……」
いつもの無感情な声で答えたため、逆鱗に触れた。怒りのあまり、アスターのこめかみはピクピク痙攣する。むんずとクリープの襟首をつかんだ。それから──
ユゼフはハッと息を呑んだ。
周りが止める間もなく、アスターはクリープを狭間に押し込んで、胸壁から突き落としたのである。
突発的な行動だとしても、あまりにもひどい。ユゼフは駆け寄り、隣の凹みから様子を窺った。
際どいところでクリープは胸壁の縁をつかんでいた。ぶら下がった状態の足下には固い地面が見える。崖側でなくて良かったという話でもなかった。屋上の高さが三階建て程度とはいっても、平らなのは城壁の真下だけで、数キュビット先は岩だらけの下り坂である。坂を転がり落ちた場合、二度と戻ってはこれないだろう。
狭間に立ったアスターは、クリープを見下ろした。
「かろうじて、つかまっているようだが……たとえば、私がおまえのこの右手を踏んづけたらどうなるかな?」
「……本当に……誰とも関係ありません……」
クリープの答えが気に入らなかったのだろう。アスターは足を上げ、思いっきりクリープの手を踏みつけた。
「やめてください!」
ラセルタが止めようと駆け寄った。乱暴すぎる。ユゼフもそう思ったが、アスターはやめようとしなかった。
「胡散臭いこいつのことが、ずっと気に食わなかった。腹の中でいったい、何を考えているのか。旅についてくるのだって、探るためだろう? 誰だ? どこの間者だ? 貴様は何者だ?」
踏みつけた足に力を入れ、クリープの手をズリズリと摺る。クリープは叫び声すら上げないものの、苦痛と恐怖で顔を歪めた。クリープが感情を表に出すのは初めてだ。
「いい表情になってきた。本来のおまえの顔だ。さあ、言え! 自分が何者なのかを!」
「本当に……なにも……」
クリープの声は、ユゼフでも聞き取るのがやっとだった。いつ、落ちてもおかしくない状況だ。皆が唖然とするなか、ラセルタがユゼフの服の裾を引っ張った。
「ユゼフ様、お願いです。アスターさんにやめるよう言ってください。魔国でオレを斬れば逃げられたのに、クリープはそれをしなかった。それにね、ずっとサチさんをおぶってくれてたんですよ? 敵の間者なら殺そうと思えば、いつでもできたはずです。クリープが胡散臭いって言うなら、アスターさんだって風来坊で信用ならないですよ。ただの弱い者イジメにしか見えません」
ふたたび、別れるまえのウィレムの言葉が蘇る。
──君らの中にも敵がいるから
ウィレムは確かにそう言った。ウィレムの話を丸々信用するわけではないが、刺さって取れないトゲのように心に引っ掛かっていた。隠し事をしているのはお互い様だ。ラセルタの言う通り、アスターだって信用に足るとは思えない。
皆、住所不確かな浮浪者の寄せ集めなのだから、クリープばかり槍玉に挙げるのはおかしい。少々、挙動不審だからといって、殺すほどではないだろう。
「アスターさん」
ユゼフが呼びかけた時、クリープの指の筋肉に限界が来た。胸壁の縁にかけた指がするりと滑り落ちる。
ユゼフは背筋を凍らせた──
落ちる寸前にクリープの腕をつかんだのは、アスターだった。怪力で胸壁の上にクリープを引き上げる。勢いあまって、屋上の床に倒れ込み、ごろごろ転がった。
「今日のところは勘弁してやる。だが、いつか必ず貴様の正体を暴いてやるからな?」
立ち上がったアスターは乱れた髭をなでつけた。
命拾いしたクリープは青白い顔で倒れたまま、立ち上がれないでいる。アスターは何事もなかったかのように、
「では、これにてお開きにする。見張りの交替はダーラにやらせる。ラセルタ、おまえはこいつを見張れ」
平然と言い、クリープに冷ややかな視線を落とした。
「アスター、やりすぎだ」
息を呑んで、成り行きを見守っていたアキラが責めた。アスターは無視して去ろうとする。
向けられるのは軽蔑と驚愕の眼差しである。それらを物ともせず、アスターは胸を張った。
そのまま行ってしまうかと思いきや、ユゼフの横で一時停止した。耳に口を寄せ──
「あとで話がある」
小声で伝えると、無頼漢は大股で皆の中心を縦断した。そして、非難の視線を振り払ったあとは、居館の中へ消えてしまった。
※狭間胸壁……城壁最上部の背の低い壁面のこと。