10話 マリク争奪戦その二(アキラ視点)
アキラが意識を取り戻した時、目に入ったのはダーラの姿だった。
主殿の屋上と一体化する居館の出入り口から、マリクを抱いて歩いてくる。
その姿はたちまち朱色に染まった。額から流れ出る血が目に入ったのである。アキラの視界はまた闇へ戻った。
──痛ってぇ!
痛みを感じるということは意識がハッキリしているということだ。アキラは目を開けず、耳を澄ました。
「おお! かわいいエデン犬を連れてるじゃねぇか!」
歓喜の声はティモール。軽やかな足音はもう一人の小綺麗な貴族様……ジェフリーといったか。
「あん? もう一匹のガキはぁ?」
「逃げられた」
「……ダサッ! 逃がしたのかよぉ?」
ティモールの嘲笑にジェフリーは舌打ちで答える。よかった。ラセルタは逃げたようだ。
戦うまえのやり取りもそうだが、彼らは仲が悪い。仲間というよりか、即席で作ったチームなのかもしれない。
「グルグルグルグル……」
マリクの唸り声が聞こえる。石畳に膝をつく音……これはダーラだ。ひざまずかされている。
その後、カサカサと紙の音がしたので、文を奪われたのだろう。
「うん、間違いねぇ! これでシーマの野郎は終わりだぜ!」
ティモールのかすれ声が笑を含んでいる。アキラは失意に沈んだ。
──シーマの不利になることが書かれてたのか……
また、失敗してしまった。アスターはこんな自分を信じて、託してくれたというのに。すさまじい自己嫌悪がアキラを蝕み、意識をまた離れさせていく。遠くから、敵のおしゃべりが鳥のさえずりみたいに聞こえてきた。
「勝手に封を開けていいのか?」
「はん? 別に構わねぇだろぉ? 開けねぇとこれで合ってっか、わかんねぇし。開けちゃダメとも言われてねーし……」
「この亜人はどうする? もう用なしだな?」
「ああ、思った以上にアホで助かったぜぃ」
今度はダーラのくぐもった声が聞こえた。なんと、情けないことに命乞いしている。
「頼むから……殺さないでくれ……」
「殺さないでくれ、というのは誰のことだぁ? おめぇ自身のことか? それとも、そこに惨めたらしく転がってる、おめぇのダチのことか? それともアスター様のことかぁ?」
ティモールは楽しそうに質問する。こいつは完全な嗜虐趣味者だ。
「みんなのことだ……おいら自身はどうなってもいい。だから、もうアキラさんには手を出さないでくれ」
なんてことだ。ダーラはアキラのために命乞いしているのだ。アキラは自己嫌悪を通り越して、情けなくなった。
「待て! ダーラは殺すな!」
ジェフリーがダーラを殺そうとしたのか。それをティモールが制した。
「そっちの傷顔の色男からいろいろ聞き出すつもりだったが、このバカを連れて帰ろう。こいつならメンドーなく簡単に聞き出せそうだぜ」
「うむ、いいだろう」
「よっしゃ、じゃ傷顔のほうをぶっ殺してから、さっさと引き揚げよう」
今さら自分に矛先が向かうと思わなかったので、アキラは面食らった。
──でも、これでよかった。ダーラより、オレのほうが役立たずだし、ダーラの命が助かってよかった
死という誉を得られることで、アキラの自尊心は少し回復した。恐怖も多少ある。が、それよりあきらめが勝っていた。一方で、ダーラの声は不満げだ。
「……話とちがう……」
「俺様は一言も、傷顔を助けるとは言ってねぇぞ? 死ぬとは言ったがな?」
アキラが薄目を開けると、ギラギラと煽ってくる刃が見えた。
──これまでか……あっ! ダーラ、やめろ!
ダーラがティモールに飛びかかった。剣はすでに奪われたあとだから丸腰だ。勇敢?……いや、ただのバカだ。武器も持たず、体格差もあるトサカ頭相手に一矢報いられるわけもない。ダーラはあえなく撃沈した。そばにいたジェフリーに剣鞘で滅多打ちにされる。
細剣が入っている金属製の鞘は硬い。細いステッキで打たれるのと同じだ。
ビシッ、ビシッ……いやな音が鳴り響いた。服の下で肉が裂ける音だ。哀れ、石畳の上に転がされるダーラは呻いて、嘔吐する。アキラは見ていられなくなり、目を閉じた。
「おいおい、手加減してやれよぉ。連れ帰ってから拷問してやるんだかんな? 今、死なれたら困る」
笑うティモールに寒気を感じるも、アキラは自分も暴力的な世界に住んでいたことを思い出した。
──そうだ、オレは盗賊……盗賊だったじゃないか。こういう、嗜虐趣味者はウジャウジャいた。弱い者イジメは嫌いだから、見かけたら声をかけたさ。でも……
アキラは、自分がバルバソフに守られていたことを痛感した。バルバソフは見かけがあんなふうだから、ナメられなかった。そのバルが低姿勢で接してくれたから、アキラもナメられずに済んだのだ。
出会ったころはバルが頭領だった。アキラは無謀にも戦いを挑んだのである。顔にできた傷はその時のものだ。血みどろになりながら、アキラはバルバソフに突進した。たしか肩を刺し、すかさず抜いてトドメを刺そうとしたところで、バルバソフが降参した。
「これからはアンタが頭だ。オレはアンタに従う。アンタの家来になる」
そう言って……
今から思えば、顔に傷を負ってもひるまない、その負けん気だけを評価された。本当はただの無鉄砲。ダーラと同じバカだというのに。
バルバソフは根っからの戦士だった。戦いにおいてはまっすぐな精神性を持ち、男らしい戦い方を好む。勝つために小細工を凝らすのは卑怯と捉えた。
「オレみてぇな、生まれついてのヤクザもんは毛並みの悪ぃ野良犬みてぇなモンでさぁ、絶対ぇ上にはいけねぇんすよ。でも、アナン様はちげぇ。血統書付きのそれこそサラブレッドでさぁ。人の上に立つようにできてる。だから、いいんすよ。オレを家来に従えて、デンと構えてりゃあいいんです。もし、ガキだのなんだの言ってくる奴がいたら、オレがぶちのめしますから」
野獣の目はアキラに対しては、穏やかだった。本人も言っていたように、貴族の血統に憧れがあったのかもしれない。バルとの出会いはアキラにとって、最大の幸運であった。
だが、バルバソフはもういない。
突如、重苦しい回想を突風が吹き払った。見上げた先にはグリフォンが見える。
──グリフォンが! 二頭! ユゼフだ!!
死にかけていたユゼフが戻ったのか? 後ろ向きだったアキラの気持ちは高揚した。
「やべぇ!! グリフォンだ! ジェフリー、逃げるぜ!」
敵のトサカ、ティモールと陰険貴族ジェフリーは慌てた。
主国の内陸部から来たのなら、魔獣はめずらしい。ましてや、貴族のボンボンなら、国境近くに住んでいない限り、見たこともないはずだ。彼らが本当に時間の壁を越えて来たというならば。
ティモールが剣を拾い上げようとした時だった。どこに隠れていたのか。突然現れたラセルタが体当たりした。
「おわっ!」
ティモールが驚いて叫んだ瞬間にはラセルタは通り過ぎ、そのまま居館の裏手へ走り去って行った。
「なんなんだ? いったい……」
「魔獣が降りてくるぞ! 早く逃げよう!」
ジェフリーとティモールは、階段めがけて走り出した。




