116話 恋人と弓(アスター視点)
アスターはイアンと激しく打ち合った。大剣ラヴァーと比べ、イアンの剣は脆く見える。エデンの高価な業物と聞いていたが、アスターは一撃で折るつもりだった。美麗で繊細な剣技だろうが、力技でねじ伏せてやると。あいにく、美しい剣は堪えた。
──カタナ……とか言うんだっけか? なかなか、しぶといではないか
異変に気づいたのは短い鍔迫り合いのあと。甲高い金属音を響かせ、アスターは後ろに逃れた。
イアンは追わず、上目で睨みつける。呼吸が少し乱れていた。裂けた肩から血が滴り落ちている。そのすぐ下には穿孔も見えた。
死に直結する重傷ではない。しかし、苛烈な応酬を繰り返せるほど軽傷でもない。ダラダラと血が流れ続けているから、戦いが長引けば死ぬだろう。
──すでにこいつはバルバソフとアキラ、腕利き二人を斬り、私が三人目というわけだ
ケガをしているのに、イアンはアスターと対等に刃をぶつけ合っていた。
──ダニエル・ヴァルタンを倒したのは、マグレではなかったのかもしれん……
アスターはまったく手加減していなかった。早く終わりにしたかったのである。まだ、暗鬱を引きずっていた。
アルシアやシリン、バルバソフ……泣き叫ぶダーラ……鬱陶しい映像を頭から追い払うには、目の前にいる敵を倒す。それに専念するのが一番だ。さっさと決めるつもりだった。
激しやすい性格だと聞いていたから、最初に髪色のことを馬鹿にして煽ってみたが、少しも効果がない。冷静に攻撃をかわし、ヒヤッとするほど的確な場所に打ち込んでくる。
剣を交えるうちにアスターの剣筋や癖を学んで、返し技を仕掛けるようになった。
アスターは右上から大きく振りかぶったあと、必ず左へ流すようにして胴を狙う。右から左への流れがやり易いのである。流れを中断するのはよろしくない。
イアンはそれを読んで、がら空きになったアスターの右肩を斬りつけようとした。一瞬、イアンの左足が踏み込もうとしているのに気づかなければ、アスターはやられていただろう。
──こいつ、この若さでこの集中力……相手の剣筋を短時間に学習するだけでなく、不意打ちにも即座に対応する野生の勘も持ち合わせている……手負いというハンデを微塵も感じさせない
「天才」の二文字がアスターの脳裏に浮かび上がった。
──イアン・ローズ……殺すには惜しい
自分でも思いがけない考えが浮かんで、アスターは驚いた。
じつは、イアンと剣をぶつけ合うのに喜びさえ感じていた。対等に戦える相手と巡り会うことは、めったにない。だが、若いとはいえ敵の大将には違いないのだし、こいつの手下に仲間を何人も殺されている。
『助けたい』
このような感情を敵に対して持つのは良くないことだ。それに、今ここでイアンを殺さなかったとしても、謀叛人は処刑される。万が一、有り得ない恩情があって命が助かったとしても、その後の人生は惨めたらしくなることだろう。
アスターは戦いが始まるまえ、ユゼフと話したことを思い出していた。
イアンのやり方は急進的だったかもしれないが、クロノス国王は紛れもない暴君である。
カワウとの無意味な戦争を八年も続け、民や内海の領主を苦しめ、一部の特権階級だけに富を専有させた。反乱分子だと王の一存で処刑された者、国外追放された者はあとを絶たない。グリンデル王家と談合のうえ、議会の承認を得ないまま、アオバズクに戦争を仕掛けるつもりだったのも事実だ。
イアンが王女を誘拐したのは身を守るために致し方なかった。充分、恩情を与えられる余地はあると。信頼されているユゼフがシーマに嘆願すれば、なんとかなるかもしれないと。だから……
──イアンと戦うことになっても、殺さないでほしい
ユゼフは確かにそう言った。その時、アスターは「何を言ってるのだ? 馬鹿者め!」と一蹴したのだ──
イアンはこちらの出方を鋭い目つきで、うかがっている。童顔も戦闘時は獣のようになる。獲物を狙う猛獣の目はアスターと同じである。
アスターは剣を腰まで落とし、脇で構えた。思いがけない構えに、イアンは薄い眉毛をピクリと動かす。口の端を曲げた。
「そこそこやるじゃないか? アスター様の偽者」
「少し話さぬか?」
アスターは、扉近くにいるアキラたちをチラリと見る。ラセルタがアキラの手当てをしていた。手遅れだと思っていたのに、血は止まっているし、包帯を巻かれる姿はシャンとしている。もしかしたら、助かるかもしれない。
「貴様のような、得体の知れないチンピラと話す口はない!」
イアンは言うなり、向かってきた。アスターは剣で受けずに、ヒラリと身をかわした。
イアンはバランスを崩すことなく方向転換し、間髪入れず斬りかかってくる。突然、下に構えたかと思うと、右手首を狙ってきた。
背筋に冷たいものが走り、アスターは咄嗟に足払いをかけた。
実戦経験が少ないイアンにとっては、想定外の攻撃だったのだろう。まんまと、よろめいた。
腰を落としたイアンの腹をアスターは下から思いっきり蹴り上げる。イアンは数キュビット先へ飛ばされた。
床に這いつくばり、嘔吐するイアンの前に冷たいラヴァ―をちらつかせる。アスターは容赦なく、剣を握り直そうとするイアンの手を踏み潰した。
「うっ!」
短い呻き声のあと、顔を上げたイアンの目は非難に満ちていた。苦しそうに息をしながら、抗議する。
「これは……喧嘩じゃない……真剣勝負だ」
「おまえはぬくぬくと守られた環境でお上品に剣を振り回していたのかもしれんが、戦場ではこんなもんだ」
アスターに剣を突きつけられ、イアンの表情は変わった。
恐怖を顕著に浮かび上がらせたのである。戦闘時、アスターの剣筋を見極めていた時とは別人だ。
──ああ、こいつ弱いな? ダーラと同じだ
剣に関しては天才的だが、精神は幼い。危機に直面した経験もないだろうし、ましてや剣先を突きつけられるのは、生まれて初めてだろう。
落とすのは簡単だと、アスターは思った。
「イアン、おまえ、もう終わりだぞ」
吐瀉物に顔をぬらし、おびえた目をするイアンに、アスターは無情な言葉を浴びせた。
「王女を逃がしただけじゃない。鳥女と人面鳥も、黒獅子も、魔人の兵は全滅させた。おまえらに手がいくつ残っているかはわからんが、たいしたものは残っとらんだろう?」
「嘘だ! たかだか、盗賊五十人に倒せるわけがない!」
「まあ、信じられんだろうが……ん、なんで人数を知ってる?……ああ、クリープか……どちらにせよ、おまえはここですぐに殺されるか、捕虜として捕らえられるか、選ばなくてはいけない」
アスターの言葉を聞くと、イアンの顔から恐怖が消えた。
すぐさま複雑な表情へと変わる。死ななくても済むかもしれない……が、これからのことを考えると不安でたまらない、といったところか。
「少しだけ考える猶予を与える。捕らえられることを選ぶのなら、けがの手当てもしてやろう」
アスターが口調を和らげたので、イアンは強張った表情を緩めた。
考えていることが手に取るようにわかるのは、非常に助かる。鉄仮面を被ったユゼフとは大違いだ。アスターはほくそ笑んだ。
「ユゼフは? ユゼフと話したい」
イアンは早速、助けを求めてきた。見下していたユゼフでも構わないから、助けてほしいのだろう。
「ユゼフ」と聞いてアスターは少し引いた。これは容易に相手の要望を受け入れないためだ。甘くし過ぎて、調子に乗られては困る。
その反応がユゼフの「死」を直感させたのだろう。イアンは愕然とした。絶望とユゼフに対する罪悪感か。
イアンはユゼフを案じていた。




