100話 やっぱり……
玉座の間。緑青で覆われた扉には、凝った装飾が施されていた。
欠けた月を花が囲む彫刻だ。細やかな葉脈や、花弁の奥にある花糸まで見事に描かれている。
ユゼフはディアナにあげたお守りを思い出した。ユゼフの物は中心にあるモチーフが月ではなく太陽。デザインがどことなく似ている。
ずっしりとした扉が軋み音を響かせる。
まず、顔を出したのはクリープだ。つぎに、嬉しそうに飛んで来るダモンが見えた。
「ユゼフ、ユゼフ、ユゼフ! マタセタナ!」
ダモンは叫びながら、ユゼフの周りを飛び回る。簡単には懐かない鳥だったが、このひと月の間に少しは認めてくれたようだ。
「お待たせいたしました。イアン様がお見えになります」
抑揚のない声。大根役者がセリフを棒読みしているのとも違う。近いのは、からくりで鳴く鳩時計だろうか。ただの意味を持った音だ。
ユゼフは玉座までの通路の脇で、ひざまずいた。
今さらながら、クリープを返すという判断に疑問を抱き始める。なんとなく、この男はただ者ではない気がするのだ。
しかしながら、友好的解決を求めるうえで、人質として価値の低い者を留める意義はなかった。拷問して情報を引き出すにしても時間がかかるし、留める時間が長ければ長いほど、こちらの事情を知られてしまう。
即決が求められるなか、バルバソフの選択は最善だったと思われる。
一呼吸置いて、目の前をイアンの長い足が颯爽と通り過ぎた。
腰掛けたのを確認してから、ユゼフは立ち上がり、玉座の正面へと移動する。
玉座は三段ほど上がったところにあり、ユゼフはその下で膝をついた。
──イアンと最後に会ってから、一年も経ってないと思うが……たしか、親戚の集まりで……
会話はここ数年、ほとんどしていない。
ユゼフはしばらく、顔を上げずに黙っていた。こちらから先に言葉を発するのは、無作法だと思ったからである。
沈黙が場を支配した。痛いほど視線を感じる。それでもイアンはずっと黙っていた。冷や汗が背中を伝っていく。
「イアンサマ、ユゼフガ、ユゼフガ、タスケタイッテ」
沈黙を破ったのはダモンだ。
ダモンが鳴きながら羽毛を撒き散らしたので、イアンはクリープに言いつけた。
「ダモンに何か、食い物をくれてやれ」
クリープがダモンを連れて出て行くと、イアンはようやく口を開いた。「顔を上げろ」と。
ユゼフは顔を上げ、立ち上がった。
久しぶりに見るイアンは少しだけ痩せていた。血色は悪くない。顔つきは……機嫌がすこぶる悪そうだ。
大きな褐色の目が鋭く、ユゼフを捉えていた。
「イアン、久しぶり」
ユゼフは笑顔を作ろうとしたが、うまくいかなかった。
「髪、切ったんだ……似合ってる」
長かった赤毛が短くなっていた。イアンは自分の赤毛を気に入っていて、長年伸ばしていたから短い髪型には意外性がある。
髪のことで何か思い出したのか、イアンの頬が紅潮した。
──まずい……余計なことを言ったのかも
「俺が質問することに正直に答えろ。おまえからの質問は、いっさい受け付けない」
イアンが押しつけてくる要望をユゼフは受け入れた。
「シーマとは、いつからつながっていた?」
「……つながっていたとは? シーマは学院の時からの友人だけど……」
ユゼフは服の下にある傷痕を触った。イアンの瞳がその動作を追っているのに気づいて、ゾクッとする。
「友人だと!? おまえとシーマが? 友人とは対等な関係をいうものだ」
「そうだな。主人と家来の間柄と言ったほうが正しかった」
「おまえは壁が現れるまえから、シーマとつながっていた、そうに決まってる! 主国で何が起こっていたか、全部知ってたんだろうが! 壁が現れてからも、なんらかの方法で連絡を取り合って……」
「それは違う。主国で内乱が起こったことは知ってたけど、ヴィナス王女の文から得た情報だけで詳しいことは何も知らないし、関わってもいない」
イアンの眉がキッと釣り上がった。
「嘘つきめ!!」
「嘘はついていない」
「イザベラから聞いた。ディアナ様がおっしゃってたそうだぞ? グリンデルに援軍を要請してくれと、おまえに言われて文を書いたと」
「それは……ヴィナス様の文……文を拝読させていただいたんだが、ヴィナス様が助けを求められているように感じた……グリンデルへ文を書いたほうがいいのではないかと、ディアナ様に進言しただけだ」
イアンの刺すような視線から、ユゼフは目をそらした。
「嘘つきめ! 嘘つきめ! 嘘つきめ!」
イアンは立ち上がり、激しく怒号を浴びせる。話し合いができる状態ではない。
ライラの話を聞いて、イアンが穏やかになったのではないかと、期待していたが、変わっていなかった……
──どうするか?
ユゼフの頭に思い浮かんだのは……アスターの言葉だ。
──どうして、信頼関係を築けなかったと思う?
黒獅子との戦いで動けなかった者たちを指導したあとに言われた。
アスターは彼らの心を開かせる必要があると主張した。アスターが行ったのは頭ごなしに叱りつけることでも、表面的に取り繕うことでもなかった。
──ユゼフ、自分では気づいてないだろうが、貴公は他者に対して壁を作る。あまり本音を出そうとしない
これもアスターの言葉だ。
本当は認めたくないだけで、どうすればいいのかユゼフはわかっていた。ここで決めなければ、エリザの想いが無駄になる。人の命だって、かかっている。背中を押すのは小さくて大きな勇気。ただ、本音で話すということ……
ユゼフは覚悟を決めて、イアンに視線を合わせた。
「……なんだ? その目は?」
ユゼフの態度が意外だったのだろう。イアンはわずかながら、ひるんだ。
「少しくらいこっちの話を聞いてくれ。今まで一度だって、ちゃんと聞いてくれたことは、なかったじゃないか? 俺は争うためにここへ来たんじゃない。イアンの力になりたいと思って来たんだ」
言えた! 子供のころはできなかった意思表示ができた。
「壁の向こうで何が起こっていたかは知らない。それに関わったつもりもない。グリンデルからの援軍がどうとか……俺のせいにされても困る」
驚いたイアンは目を見開いたまま、しばしユゼフを見つめた。ユゼフは視線をそらさず、見返した。
驚いた顔から泣きそうな顔に変わり、最終的にイアンは目をそらした。
人に怒りをぶつけるのには慣れていても、ぶつけられるのには慣れていない。
「イアン、渡したい物がある」
ユゼフは階段を上って、玉座にいるイアンのもとへ歩いて行った。
紺色の絹布に包まれたそれを、おもむろに差し出す。イアンはおそるおそる受け取った。
銀色に輝くメシアの剣のお守り──
「これは亡くなったアダムが身につけていた物だ」
絹布を開いてすぐに、それがなんなのか、わかったのだろう。イアンは顔を上に向け、口を引き結んだ。ユゼフは手心を加えない。
「ディアナ様と護衛隊がカワウの王城にいたころ、アダムは文を届けに来た。時間の壁を越えて……着いたときは、すでに老人だった。文を渡すと同時に息絶えたそうだ」
イアンの片目から一筋、雫が流れ落ちる。
「確かに俺がアダムにあげた……顔も知らぬ父の形見。肌身離さず身につけていたものだ。だから大切な弟が王城に仕える時、渡した」
イアンは涙を指で払い、続けた。
「グリンデルから援軍が来たせいで、俺もサチも酷い目に遭った。俺は二十歳の誕生日にもらった白馬を失くし、機械兵士に殺される寸前だった。サチが助けてくれなければ、確実に死んでいたんだよ……サチは妹をシーマの手の者に凌辱されそうになった。サチも妹も大ケガをして死にかけたんだ」
イアンは淡々と打ち明けた。
たった一通の文……
ディアナに書かせて、レーベに届けさせたあの文が、イアンとサチをそんなにも追い詰めていたとは……
したことの重大さを、ユゼフは身にしみて感じた。
「それだけだと思うな? シーマは間者を使って、王子を皆殺しに……まだ年端もいかない子らを……赤ん坊や幼児までも……」
「……シーマが? 家来が勝手にやったことでは……?」
「あいつが何もかも仕組んだことだ。全部、俺がやったことになっているがな……ガラク・サーシズという名に聞き覚えは?」
「知らない……」
「他にも何人かいた。王子殺しのほとんどはガラクがやった。俺はあいつらに唆されて……まずヴァルタンの瀝青城に攻め入った」
「瀝青城に!? なんで?」
「ここからの話は関係がないとは言わせないぞ? カモミールの月、十六日……この日に心当たりは?」
ユゼフは首をひねる。
しかし、記憶の糸を手繰れば、あることに思い当たった。イアンはユゼフが返事をするよりまえに、口を開いた。
「この日、二十八人の王子が瀝青城に集まった……どうしてか、おまえは知っているはずだ」
ユゼフの体温は急激に下がった。シーマに言われて、父や兄の会話を盗み聞きしたり、手帳や書類を気づかれないように見ていたりしたことを思い出したからだ。
ユゼフはかすれ声で答える。
「アオバズクから奴隷を連れて来る。ガーデンブルグ王家とグリンデル王家、ヴァルタン家……奴隷の所有権について……」
「やっぱりな! シーマがおまえから得た情報だ」
「け、け、けど、その情報を使ってまさか、イアンに謀叛を起こさせるなんて……」
「知らなかろうが、おまえのしたことで命が奪われたんだ! ローズの兵だけじゃない。なんの汚れもない幼い命までな!」
ユゼフは、別れ際にシーマが言った言葉を思い出した。
──前にいるのはたったの五十二人だ。戦地で、五十二人の屍は数のうちに入らないよな?
シーマはその言葉通り、自分の前にいる邪魔者を無惨にも消し去ったのだった。
──でも、シーマは残忍な人間ではない。なにか理由があったに違いないんだ……なにか、シーマを無慈悲な行動に駆り立てるような、なにかが……
そうは思っても、イアンには伝えられなかった。イアンは有無を言わさぬ口調で宣言した。
「明日の朝九時までにここを去れ。おまえらには、ディアナ様を渡さない。もし去らなければ攻撃する」
「イアン、お、お、俺がしたことでイアンたちを傷つけたのは悪かったと思う。ほ、ほ、本当にごめん」
ユゼフはまず謝った。
「ディ、ディアナ様がイアンの切り札なら、む、無理に奪いたくない。けど、ディアナ様を返してくれるなら、か、か、代わりとして、シーマにイアンたちの身の安全を約束させる」
「壁の向こうのシーマと連絡は取れるのか?」
イアンの気持ちが若干、揺らいだかに見えた。ユゼフはどもらないように深呼吸をした。
「連絡の取り方はわからない。王女様を約束の日時、ある場所にお連れしろと言われている。おそらく、そこでまた指示を与えられるのだと思う。その時にシーマと連絡が取れるかもしれない」
「それじゃダメだ。確証のないことを信じられるものか。俺は一年ここで耐える。一年経って、壁が消えてからディアナ王女とニーケ王子の存在を世間に公表する」
「一年もこんな場所で過ごすのは危険だ。ディアナ様は……」
「ペペ」
イアンはユゼフを子供のころの呼び名で呼んだ。
「おまえの気持ちはわかった。でも、無理なんだ……関わってしまった時点で、もう後戻りできない。俺もおまえも……」
イアンの顔から怒りが消え、悲しみだけが残った。ユゼフはまだあきらめたくなかった。気持ちが落ちついたのなら、和解の糸口がつかめるはずだ。
「イアン、聞いておきたいことがある」
ユゼフは悲しげなイアンの顔を見上げた。
「サチは無事なのか? それと俺たちの仲間を捕らえているだろう? 彼の安否も知りたい」
「二人とも無事だ」
即答。他人事のような口ぶりだった。
「もう話すことはない。さあ、行け。明日の朝、九時までだからな?」
まだ話は終わっていない。ユゼフは戦いたくないのだ。幼いころの顔を互いに知っている者と、殺し合いたくない。
だが、これ以上話すことは、ままならなかった。イアンは大声でクリープを呼んだ。
クリープはいつから戻っていたのか、開け放たれた扉の影からひょっこり登場し、
「お帰りですか?」
と、無表情な顔を向けた。
「イアン……」
ユゼフが呼び止めようとしても、イアンはさっさと扉のほうへ行ってしまった。
追って扉のところまで来ると、今度はクリープが立ち塞がる。
「のちほど、玄関までご案内します」
押し退けたかったが、クリープは堅牢な城砦がごとく、ぴくりとも動かなかった。
──なんなんだ、こいつ?
クリープの後ろで、イアンが回廊を曲がろうとしているのが見える。
「イアン! 待ってくれ!」
叫び終えた時には、イアンの姿は見えなくなっていた。




