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笑え

作者: 飛石

 私が生きていた頃の話をしたい。


 某県某町の田園広がる農家にて、その次男坊として生を受けたのが五十年前のことある。時節は秋であった。私を抱いた母はその賜の如き相貌にうっとり相好を崩したと聞くが、それが事実であるとすれば、その笑みはおそらく私に向けられた最初で最後の祝福であったと言えよう。

 貧しい家柄ではあったが、農耕精勤の逞しき遺伝子が流るる家系ゆえか、私の身体はすくすくと丈夫に育った。風邪を患うこともまずなかった。

 しかし、ああ。

 悲しきかな。

 精神の、そのとても根深い部分が酷い病に冒されていたのだ。今考えてみれば、その遺伝子こそが諸悪の根源であったろうか。丈夫な身体を除けば、人が生きるに大切なものを私は幾つも欠落していた。幾つも……否、あるいはそれは〈ユーモア〉ただひとつだったのかもしれない。


 私は人の笑顔を見ることが好きであった。

 莞爾とした微笑が好きであった。屈託のない破顔が好きであった。可愛らしい照れ笑いも好きであったし、軽蔑の念を秘めた嘲笑とて好きであった。

 要するに、私は如何な形であろうと他人の幸せを好いていた。

 よって今から話すは、私が人を笑わせしめしと奔走する諧謔の奮闘記である。




  ◇




「正徳ちゃん、正徳ちゃん」


 隣人の娘である佳奈美がそう呼びかけながら周囲をついてまわるようになったのは、私がまだ幼稚園に通い始めたばかりのことである。

 彼女は二つ年下であった。愛らしい顔立ちをしているわりに常々ぬぼっと惚けたような表情をしていて、声を立てて笑うということもないので、こいつをひとつ笑わせてやれと思い立つのにそう時間はかからなかった。

 佳奈美は、我が家の縁側前によく現れた。そこには私の母が趣味のガーデニングで花木を植えており、彼女はそのパンジーやらビオラやらというのをただ茫然と眺めているのが好きであったのだ。

 私は縁側に腰かけて、いつ面白いことを言ってやろうか、それともやってやろうかと待ち構えた。


「このお花、模様がとても可愛いわ」

「なんだと。老いぼれ爺みたいなへちゃむくれじゃねえか」

「まあ、正徳ちゃんたら」


 それだけ言うと、佳奈美はまた夢中になってパンジーの模様を観察し始める。私を一顧だにする様子はない。

 実を言えば、このとき私は先の言葉で彼女を爆笑の渦に落っことしてしまうつもりであった。

 つまり、笑わせるつもりで「へちゃむくれだ」と言ったのだ。

 くそくそくそう、何が悪かったのだ!

 先日のバラエティ番組では笑っておったではないか。相手の主張を厭らしくも否定する狷介さが、得もいえぬ滑稽を生むのではないのか。

 次なる手を思案しておると、「あらあ」と佳奈美が声を上げる。何事かと思えば、彼女は葉に這う不細工な芋虫を凝視しているではないか。アゲハの幼虫だ、と私はすぐに昆虫図鑑に載っていたその姿を思い浮かべた。


「この子、綺麗ねえ。きっとお姫様みたいな羽根をつけるのよ」


 閃いたぞ。押して駄目なら引いてみるのだ。


「やい佳奈美。綺麗、と言ったな。その芋虫の顔、お前によく似ているぞ」


 佳奈美は阿呆のように口を半開きにして此方を見た。私は縁側からずかずかと歩いて近寄り、ひょいと棒きれを拾い上げ芋虫を突いてみせる。芋虫は黄色なツノをぴゅいと飛び出して威嚇した。


「うはは、なんだこれは。あは、あは、臭いじゃないか。佳奈美が去年やったお漏らしみたいな酷い臭気だ。やはり似ているじゃあないか、うは、うははは」

「正徳ちゃん、ひどい」


 気付けば佳奈美は涙を流していた。

 そうして、それだけ告げると、私に手を出すでもなく走り去っていく。

 その姿が庭前に建てられた車庫の影に隠れてしまう頃、私は「うはは」と胡乱に笑った。

 棒きれが乾いた音で折れ土壌に落ちた。見ると、先の芋虫が、ようやっとツノを引っ込めたのか黄色の先端だけを覗かせて私を見上げていた。

 ああ、此奴。

「お前が悪い」とでも言いたいらしい。


 まったくその通りだ。


 やんぬるかな、私は人を喜ばせる才が決定的に欠如していた。



 薄々と心づいていることはであった。

 家族の者達が、近隣の同年達が、私の一言一行で笑みを浮かべたことなど一度たりともなかった。あまつさえすこぶる優秀な兄と比較されては、悪逆無道の空け者と揶揄された。

 ぼくだって、そんなつもりはないのに。ただみんなに笑ってほしいだけなのに。

 そうは思えど、毎々私の善意は周囲を傷付けるばかりであった。


 この苦心惨澹は共感勝ち得るであろうか。諸氏にこの拙い口舌で伝ろうか。

 そんな不安が首をもたげて仕方ないのは、きっと少年時代に絶望の底へと落とされたあの一件が遠因にあるに違いあるまい。


「今年の学芸会は劇をいたしましょうねえ」


 たぶやかな猫撫で声でそう告げたのは、御年六十歳になられる担任の岡田麗子教諭であった。

 小学三年の夏休みを終えた頃のことである。生徒たちの配役を立候補と推薦によって決定し、私は誇り高くも主役たる桃太郎の配役を頂戴した。というのも、拒否した生徒を除いて全員が桃太郎の役を得たのである。

 所謂、世間の風潮であった。


「やあ、やあ、鬼め鬼め。成敗じゃ」

「おい違うって。やめろよ、やめろったら」

「じゃあ、これでどうだ。うりゃ。あはは、お前は鬼ぃ」

「きゃはは、やめろよう。服に書くなよう。きゃはきゃは。うがあ、俺は鬼だぞぉ」


 笑っている。

 私の冗句では、ピクリとも頬を緩めなかったというのに。

 紙細工の叢を絵筆でぺたぺたと塗りたくりながら、同輩連中の戯れあいを遠巻きに眺めやる。それから、つと思いついたことがあった。

 ふむ、こりゃ面白いぞ。きっと皆も笑ってくれるに違いない!

 思いつくが早いか、私はやにわに絵筆を振りかぶった。


「なぜこのようなことをしたの」


 顎下にぶら下がる脂肪をぷりぷりと震わせて岡田教諭は唾を飛ばした。傍の教卓には劇用に準備してきた衣装が畳まれており、その衣装すべてに「我ハ鬼ナリ」と汚らしい緑色で書かれている。

 無論、私が仕出かした所業である。同輩の遊びを真似たつもりであった。

 皆、笑ってくれると思っていた。


「あなたは入学してからこんなことばかり。私はもう黙っていられません」


 その日の岡田教諭は凄まじかった。普段の嫋やかな所作からは想像もつかない剣幕で私を叱責した。かねてより私の佯狂めいたドタバタには目を瞑ってくれていたに相違ない。

 どうしてあなたは。

 いじめのつもりか。

 反省なさい。

 その怒りは、従前堪忍袋に溜めてきた怒張をぶちまける轟々の勢いで私を糾弾した。はじめはただ粛々と頷いていた私も、次第に嫋々とまで言える態度へ軟化していき仕舞いにはしくしくと泣き出してしまった。そして、溢れ出す涙と口から漏れ出る言葉達を止めることができなかった。


 私が悪いのは存じております。

 よく分かっておるのです。

 ですが、ですが私は……ただただ皆に笑ってほしうございまして……

 それで、それで……


 私はこれまでの苦悩を岡田教諭へ吐露した。斟酌を欲したのではない。生徒想いの優しい岡田教諭をここまで怒らせたことへ罪悪の念が膨れ上がり、心臓のあたりに掛けていた頑丈な鍵が思わず緩んでしまったのだ。

 私の浅くも情けない人生譚を語るにつれ、いつの間にか岡田教諭はうんうんと頷いては涙ながらに共感の意を表してくれた。

 ああ、聖母であろうか。

 教諭はそのふくよかな肢体で私を抱き締めると「辛かったでしょう、辛かったでしょう。先生が浅慮でした。明日は公欠にするからゆっくりとお休みなさい」そう言って、車で家まで送り届けてくださったのだ。

 翌日は学校を休み、翌々日にて私は晴れた気分で登校した。

 衣装の件も含めて皆には謝らねばなるまい。そして、人一倍の精魂を込めて衣装の修繕を手伝わねばなるまい。誠心誠意、そんなことを考えていた。

 だが、その日、同輩達はいやに余所余所しかった。腫れ物に触れるが如く私を避けた。衣装の修繕も恭しいほど丁重に断られた。頭を下げれば、「正徳くんは、まあね」「いいよ。いいから」「気にしてないから」有耶無耶な態度ばかりが返ってくる。まるで海外映画で見たシザーハンズにでもなったような心地であった。

 それから数日後のことである。

 課題を取りに行こうと職員室へ赴くと、ふいに扉の隙間から自らの名が漏れ聞こえてきた。私は耳を聳てる。浅はかな行為だった。

 そのとき耳にしたことを、生涯忘れたことはない。


 岡田教諭は私を抱き締めた翌日、クラスメイト一同に口説した。無論それは私についてであり、職員室で盗み聞いた会話と併せて要約すると以下のような内容であった。


 一.正徳くんを責めるなかれ。

 二.正徳くんのイタズラに悪意はない。

 三.正徳くんは知的活動に問題がある。

 四.正徳くんの特別学級への編入も検討したい。


 畢竟、私は佯狂ならず本物の狂人として扱われたのだ。

 大人になってみれば、それは偏見であると自身を諭すこともできよう。だが、真実、あの同輩達の笑止顔は忘れもえぬのだ。

 ぐらぐらぐら。

 脳が妖しく揺れている。

 岡田教諭の抱擁がうそ寒い憐憫の彼方へ薄らいでゆく。

 少年少女の奇異の眼が気色悪い。

 ああ、ああ、グロテスクだ。

 イヤだイヤだイヤだイヤだ。

 職員室前からさっと身を翻して、私は裏庭まで足を向ける。衆目に映らぬ木蔭へ飛び込むようにへたり込む。そして、草葉に嘔吐した。げぇ。げぇ。己のモノとは思えぬ声が喉から漏れた。違う、こんなものは私の声じゃない。この体に棲みついた悪魔の唸り声だ。だから、私が悪いんじゃあ、ないんだ……


 嗚呼、我が心胆、進退窮まれり。



 以来、自身の苦悶について説示することはやめた。




  ◇




 ところで、あれきり佳奈美嬢との縁が切れたかといえばそうでもない。

 先の辛酸にも関わらず、彼女は事あるごとに私の後をついてまわった。そのたび笑顔の実験台にして泣かせてしまったものである。

 かの記憶も今となっては懐かしき郷愁の思い出であり、ほんに彼女と縁が切れたのは中学二年晩夏の頃合いであった。我が家族が北九州へ引っ越すことに相成ったのである。

 てっきり父は農家を継ぐものだと思っていたので、私はよもや地元を離れることになろうとは予想だにしていなかった。もしやすると、与り知らぬところで自身の蛮行が近隣住民とのトラブルや横禍の火種になっていたのやもしれぬと今では思う。結局、特別教室にこそ移動しなかったものの私の不埒は続いていたし、近隣との諍いに発展したこともしばしばあった。親兄弟には申し開きのしようもないことだ。だが、その引っ越しこそが私の人生における転機となったことは間違いない。

 引っ越し当日、担任指導のもと同輩達数人が家まで見送りにやってきた。

 各々と適当な挨拶を交わしていくうちに、私はおやと首を傾げた。

 人一倍表情には敏感な自信がある。車に乗り込む私へ向けて手を振っている同輩達の表情が、いつもの遣る方なげに繕う凄然な無愛想とはまた違うのだ。

 ヴロロロ。

 父自慢のディーゼル車がエンジンの稼働を高らかに告げる。

 待て、何かを掴めそうなのだ。きっと大事なことなのだ。

 リヤガラスに頬骨を擦りつけん勢いでべったりと貼りつき、次第に遠ざかってゆく豆粒達を食い入るように見つめる。

 なんだ。なにがあるのだ。違和感の正体を探る。

 ふらふらと高々に揺れる腕。朝靄に薄らぐ人影。もはや、ぼやけて誰が誰だか判別もできなくなる。ただひとつ分かるのは、どいつもこいつも人を見下したような薄ら笑いを浮かべていることだけで――ああ、そうか。

 皆、欣然としているのか。

 別れを喜んでおるのだ。

 あの嬉々と垂れた目尻、緩んだ頬、上擦っていた声。

 どれもこれも歓喜や安堵、また嘲弄の念を隠しきれておらんではないか。

 そうか、そうか……。


 やった。


 やったぞ!


 そう声を張り上げんばかりに、胸のうちから熱い感動がこみ上げてくる。

 初めてだ。

 初めて人を笑わせたのだ。

 こんなに嬉しいことはない。私にも生きる価値があった。人を幸せにするだけの能力を秘めておったのだ。

 ああ、豆粒がひとつ減ってふたつ減って三々五々に散り散りになってひとつ増えて走り寄って遠ざかって……いや、もうそんなことはどうでもよい。なんたる慶福。


 少年たる私は大志を抱く。


 畢生にかけてのべつ災いを生むこの命、光明は爛れた災いの先にあると見たり

 卑陋死する日こそ喜悦を覚ゆ精神の按摩、それすなわち幸である

 我が終生を大衆の幸が為に捧げたし

 今宵をもって、我が人生再びの嚆矢とする


『大悪の死が生む幸福』


私はその大願に向けて歩み出したのである。




  ◇




 それからというもの、人々を貶める不義の業へと身をやつすようになった。

 今すぐ自死してして皆を喜ばせようかしらと卑屈なことを考えもしたが、おそらくは家族に多大な迷惑をかけるに過ぎず、多くの人は無関心のうちに過ごしてしまうであろうことは目に見えていたのですぐに棄却した。

 然して、やはりと言うべきであったろう。私には瞞着やら嘲罵やらという悪事の才気が備わっていたらしい。暴虐的叡智を尽くし、学徒から教諭連中まで脅しすかすようになった。中学時代のことである。


 うんうん。

 しかし、万引きはよくないよな池田くん。

 煙草に酒までしちゃってさ。

 ああ、そうカッカするなよ。

 非行を写真に撮られたくらいでさ。

 なんだい、証拠もなしに言うものか。

 インターハイは出られないかもしれんなあ、バスケ部のエースがこれじゃあなあ。

 おやおや。

 さっきから赤くなったり青くなったり忙しい奴だなあ、キミは……


 やや、これは猪ヶ原先生。

 あれから栗川嬢とはどうなのですか。

 なんの話か。

 おとぼけを言わんでください。

 あんた方、中州のホテルでよろしくやってたじゃないの。

 還暦間近のおっさんが、セーラー服を追いかけるとはねえ。

 教育委員会なぞに知れたらさぞ大変でしょうなあ……


 お、あれはデブの田山だ。

 おうい、お前の上履きに画鋲が入っていたぜ。気をつけな。

 なに、いいってことよ。

 池田の非行を写真に収めてくれたのはお前なんだからな。

 ああ、でも気をつけろと言ったのは夜道のことだぜ。

 お前からの指示だって、池田の奴には教えておいてやったからさ……


 忌み嫌われるため、ひたすら東奔西走する日々であった。

 非行少年がいればその微罪を摘発してやり、清楚な乙女がいれば周囲にふしだらな噂を仄めかせた。教師への上滑りな媚とあだあだしい反駁も忘れない。

 ときに恋の鞘当てを乱闘まで発展せしめたこともあった。ただ、そのときばかりは蹉跌をきたしたもので、痴情はもつれにもつれて教師陣の不倫騒動まで巻き込んだ挙句、壮絶な嫌がらせやら恋のバトルやらでしっちゃかめっちゃかの昼ドラマが如き様相を呈しはじめた。

 結果、私は蚊帳の外へつま弾きである。

 もはや部外者の扱い。

 嫌われることが目的なのだから、私が諸悪で皆から恨まれなければ意味がないのだ。

 一方、他人を実際には不幸な目に合わせぬよう配慮することにも苦心した。先の田山くんなどはもとより池田少年に苛められていたから、池田少年に主犯云々の話を伝えれば、彼は怒り狂ってなりふり構わず田山くんへと襲い掛かったやもしれない。

 だから、本当のところ、私は池田少年に主犯どうのは言わなかったのである。


 その時分には、我が容貌が如何なものであるかも充分に心得ていた。ふいと鏡面を見れば浮き上がった頬骨に汚らしい座瘡がぶつぶつと浮き上がっており、魁夷な骸はぐねりと前後歪に曲がった背筋と合わせて怪物の如きである。たとえ悠然に風を切って歩こうとも、そこにいるのは品性下劣な醜男であった。

 かくて怨まれ通しの青春は過ぎ去った。

 強迫観念にも似た悪逆への傾倒ではあったが、私はなるたけ遵法に徹した。刑罰などを受けてその不様を笑われては、私が死したときに皆が感じるべき幸福感が損なわれるように思えたのだ。

 そのためであったか、高校を卒業する頃に御父兄および教師陣から漏れ聞きたるは「虞犯少年の正徳くん」であった。

 その後、福岡の私立大学にて経済学を修めた私は北九州市に拠点を置くソフトウェア開発会社へと入社した。その頃には、この地に我が骨を埋めると決めていた。生まれ育った田畑の青さも恋しくはあったが、もはや帰郷したところでそこに私のあるべき余地はなく、大望を叶えるにしてもより大勢の嫌忌を集めたかったのである。

 その点、この福岡の立地は悪くなった。交通の便が生まれの片田舎などよりずっと充実しており、かといって大都会のように人を嫌う余裕さえ生まれぬほどにせせこましくはない。

 特に、商店街などがまだ生きておるのは僥倖であった。

 口コミが醜聞の拡散に一役買ってくれたことは言うまでもあるまい。


 ご存知かしら。

 なんの話よ。

 正徳さんでしょ。

 そうなのよ。

 パソコンの会社でしたっけ。

 三木さんの旦那と同じとこ。

 やらかしたのね。

 そうなのよ。

 取引先との会議でらしいわ。

 卑猥な映像流したらしいわ。

 えっ、どういうことなのよ。

 社長のお尻が映ったらしいわ。

 秘書との不倫がばれたらしいわ。

 正徳さんが撮ったというのね。

 そうよ。

 そういう噂があるのよ。

 こわいわねえ。

 こわいわ。

 こわいわ。



 人はいとも簡単に嫌悪を抱くものだ。

 友好的な関係を築くのは、針に糸を通すよりずっと難しいというのに。


 それからも脈々と続く悪道は、結局のところ同じような事柄の繰り返しであったので割愛する。




  ◇




 その時節は肌寒かった。

 四十を過ぎた私には少しばかり堪えるものがあったが、長年の研鑽によって身につけた特技を試すつもりで人気の少ない商店街を練り歩いていた。

 ふと菓子屋併設の喫茶店『ミラムス』に入っていく老齢の男が目にはいった。

 あれはたしか、柳川とかいう心理学の大学教授であったか。たまにこの時間帯で見るとは思っていたが、なるほどあそこの常連か。しかし、『ミラムス』は彼の勤める大学と反対方向ではなかったかな。

 つと気になって、私も喫茶店のガラス戸を開けてなかへ入ってみた。


「いらっしゃいませ」


 軽やかなベルに店員の女の子が顔をあげる。清純そうな柔和な笑みを浮かべるその横には、先ほどの柳川教授が立っていた。

 今まさに歓談の真っ最中であったらしい。

 ははあ、と私はすぐさま心得た。

 柳川教授が窓際のテーブルにつくと、私はがら空きであるにも関わらず彼の正面へと腰かけた。


「お好きなんですね、あの娘」


 不審げな眼つきをしていた教授はむせ返りかけて「あんた、正徳さんね」とだけ答えた。


「私のことをご存知なんです」

「やあもう、知ってるとも。みーんな、あんたの噂しとる。悪い奴だってね」


 教授は毒蛇をどう対処するかといった眼つきで私をじろりと睨んだ。


「ダフ屋アタリ屋ペテン師や。いろいろ聞いとるよ。今も耄碌の恋などと揶揄するつもりだったのではないかね。そうやって私を怒らせようとしなすった。いいや、嘘おっしゃい。実際に会ってみて分かった。あんた、そうやって毎々人から嫌われようとしてらっしゃる」


 何を言われるでもなく、「可哀そうな人だ」と彼は続けた。


「多くの人は、きっとあんたが死んでも悲しまんのだろうね。むしろ嫌なやつが消えてくれたと万歳をするのかもしれん。……だが、まあ、私はそうはしないでおくさね。あんたのような人物にも、その行動にも、あんたなりの考えがあるんだろうから……」


 その老人教授の慧眼には舌を巻いた。

 心理学者は皆こうなのかと錯覚しそうなほどの洞察力で一方的に捲し立てられ、気付けば柳川教諭の食膳には黄色い卵焼きがちょこんと残るのみになっていた。この教授、私がどんな具合に口を挟んでも腹を立てる様子がない。これは参ったなと思いつつも、このような人物からでさえ嫌われる自信が確かにあった。

 怒りのツボというものは、人それぞれに違うものである。

 車に泥を撥られねて発狂しかねない人間もいれば、やっちまったと諦観気味にやり過ごす人間もいる。畢竟、怒りとは個々人の価値観に過ぎない。

 であるから、いくら論文の批判をしても憤懣に駆られなかったのに「私、デイトレーダーを生業としていまして」と告げた途端みるみる口元を歪ませた柳川教授のことを責めるわけにはいかなかろう。

 それが彼の怒りのツボであり、そこを抑えるのが私の特技であったというだけのことである。


 その頃合いからであろうか、私はいよいよ多種多様な人物から嫌われるようになった。

 八百屋、質屋、骨董屋、主婦、教師、学生、役人、芸人、支配人、画家、作家、音楽家、医者、学者、科学者、警察、ヤクザ、政治家……私自身も職業を点々とした。

 車両整備やら広告代理やらに勤めては社内で悪態をついてまわった。商店街端のバーなどでシェーカーを振っては熱心に他人の悪評を収集した。実際デイトレードに手を出したこともあったが、予想以上に時間的束縛が強いのですぐにやめてしまった。

 転職、転職、転職。

 転職のコツは相手の弱みを握ることだ。そうして私はどこへ行こうとも罵詈雑言を見舞い、ひっそり他人の秘め事を掻っ攫った。他人が被るべき憎悪を肩代わりすることもあった。本物の悪党にとってはラッキーであったこと間違いない。

 そのうち、私は町中の憎悪の掃き溜めになっていた。

 正徳の野郎が悪いんだ。魚屋の店主などはしょっちゅう怒鳴り散らした。

 お願いだから死んでくれ。そう懇願されたこともあった。

 実際、何度か殺されかけた。

 かかるうち季節は幾重にも巡る。老父が急逝し、母が病床に伏し、兄の会社が軌道に乗り、我が寿命はもはや使い果たしてしかるべきであると、私は五十回目の秋にそう断じた。



 ふいに大事なことを失念している気がした。

 だが、もはや計画をゆるがせにして帰る道などなかった。




  ◇




 秋晴れの広がる昼下がりのことである。

 私はぶらりと町中を散歩しておった。あたりにはジョギングしている老紳士であるとか、指を絡めあい歩くカップルとか買い物帰りの主婦であるとかが行き交っており、そこには長閑でゆったりとした悠々の時間が流れていた。


「ややや」


 そんな情けない声をあげたのは誰であろう私であり、その瞬間にはすってんころりん錐揉みしながら宙高く舞い上がっていた。

 目端に黄色いゴムのようなものが映る。

 ひゃあ、あれはバナナの皮だ!

 バナナの皮を踏みつけたた私の下駄が、ひゅるんと弧を描いた。背骨を強かにアスファルトへと打ちつける。そして傷みに呻く暇もなく脱兎の如く駆けだした。


 バウバウ、バウバウ。


 放し飼いのボクサー犬だ!

 下駄がぶち当たったのか前頭部を赤く腫れ上がらせ、牙を剥きだしで今にも噛みつかん勢いではないか。

 私は縺れそうになる足を無理やりに動かした。


「な、なんだあんた――」


 人家だろうが構うものか。


「ちょっと危ないから走りまわらないで――」


 公道だろうが。


「どうもお買い上げありがとうござ――」


 デパ地下だろうが。


「てめぇ正徳の野郎、お前許さ――」


 商店街だろうが!


 どれほど衆目に晒されようが構いやしない。追いつかれたら、こっぴどく噛みつかれちまうことは想像にかたくないぞ。


「やい、阿呆犬。

 下駄などに当たっちまう頓馬なお前が悪かろうが。

 だから私を追うのはやめろ。

 こら、涎を飛ばすな。汚らわしい。

 どけどけどけどけ。

 公園はみんなのものだ。みんなのものなのだ!

 ええい、どこまでついてくる。駅だぞ。

 あっ、危ない。

 あっ、

 あっ、

 いてててて。

 足打っちまった。

 テメエなに見てやがる、見世物じゃねえやい。

 ああ待て、待てってば。

 やめて、やめてください。

 ね、ね、おねがいだよう。

 噛まないでよう。

 ぐあ、ぐあ、おおおおおおおおおおおおおおお――

 きゃいんっ」


 町中を駆け廻って、怒鳴り散らして、泣き叫んで、許しを乞うたあげくに尻を噛まれて飛び上がる。派手にすっ転んで跳ねるように車道へ飛び出した。


「ぐええ」


 ブウオオオ。

 たまさか通ったトラックに撥ねつけられる。

 横っ飛びに数尺吹き飛んで車道のどまんなかに仰臥する。

 メキビキビキメキ。

 掠れた呻き声が漏れる。ずいずい立ち上がって這う這う車道からまろび出る。おっと、工事中だ。マンホールが開いてやがる。地面を踏み外しかけて私は大きく飛び退いた。

 危機一髪と座り込んだ刹那、鋭い痛みが電撃のように体を駆け巡る。


 肛門だ! 


 肛門に汚らしいパイロンが突き刺さりやがった!

 あまりの衝撃に悶絶しのたうち回りもんどりうって脳が麻痺してぱらぴりぷるぺれぽろぽろぽろぽろ。

 好きよ好きよも幕の内。生け垣。鞭打ち。

 登壇。

 こーん。

 私は狐……。


 ようやっと脳がすべての激痛を理解した。激痛に痙攣を起こした身体が意味もなく万歳しながら倒れ込む。

 死の間際、昏く濁った瞳が数えきれないほどの人影をにわかに映した。


 くつ。


 くつくつ。


 くつくつくつくつ。


 騒ぎを聞きつけたのか、大勢の人々が集まっていた。皆、妙な男のバカな死にざまに失笑しそうになっている。

 人の不幸を笑うなと誰かが言った。

 だがその人も、死んでほしかった男の曲芸じみた最期に下笑みを浮かべずにはいられていなかった。

 死んだ彼には申し訳ないけれど、あんな死に方を現実でするやつがいるとは思わなかった。そんな言葉が漏れた。

 なにか、とても面白いものが沸々と腹からこみ上げてきて、抑えきれなくなった笑みが町中に溢れかえり始めた。


 ふ

 ぷ

 ぷふ

 ひひ

 おふっ

 あは、あは

 いひへへ

 ひ、ひ、ひゃ

 おほ、おほほほ

 う、う、う

 うあーーーーーっはっはっはっはっっは

 いいいいーーーっひっひっひっひっひっひ

 かーっかっかっかっか。げらげげらげらげらげら

 でへへへへへへへ、えははは、あひあはうふふふふふ

 ふうはあ。はひははあ、えごほごほぅ、ぬひへくくくくくぅ

 し、しししし。ぶ、ぶひははははは。ぶっ、ぶっ、ひほほほーほっほ

 うけけけ。ひゅっひゅっひゅっ。きゃきゃきゃ。あはああはあんうふふふふーん

 わらわらわらわら。げっふ、おっひゅう。ひゅ、ひゅっ。わっはっはっはっははははははははのは

 あー

 あー

 

 あーおかし

 


 町中を包みこむかまびすしいその笑い声は、一両日中ずっとやむことがなかった。




  ◇




 是にて我が諧謔奮闘記の幕引きとなる。

 数多の笑みに看取られし我が命、歓天喜地という他ない。爆笑の渦を彩った全人物に感謝をば。


 笑ってくれてありがとう。

 バカにしてくれてありがとう。

 気持ち良くなってくれてありがとう。

 暇つぶしにしてくれてありがとう。

 幸せになってくれてありがとう。


 実は今、私は件の福岡を訪れている。

 なに、そのためにこうして諸氏へ話してみせたのだ。一世一代かけたギャグの成果を確認せねばなるまい。

 ほれ見よ、さっそく撮影カメラの閃光が幾重と焚かれているぞ。あの公園沿いに伸びている電柱のあたりだ。なにやら若い男が記者連中に囲まれているではないか。


「近所では有名でしたよ。うふ、悪い意味なんですけれどね。なんでも昔ヤクやって脳がやられちまってたとか、妙な噂のある人だったんですよ。へへへ。ああすみません、思いだすだけで嬉し、いやおかしくってね。ひひ」


 おお、あの青年は覚えておる。

 バナナの皮を踏んづけたときに近くを歩いておったな。いや、それだけではない。奴は近隣に暮らす親爺の一人息子で、生前に冷や水を浴びせてやったことがある。なに、なにやら学生運動めいたことをしていたから面白半分にバケツいっぱいの水道水をぶちまけてやっただけだ。

 そんなことより次を見ようではないか。

 お、こりゃ懐かしい顔だ。

 中学で世話になった淫猥教師の猪ヶ原ではないか。駅前で何やら講釈を垂れていやがるぞ。


「彼の学生時代を知っているがね、今回の一件は罰が当たったというほかない。や、それほどに不良生徒だった。高等学校だと虞犯少年などと囁かれていたらしいがそんなもんじゃあない。あれは悪魔だ、犯罪者だ。いや、悪魔にしてはあまりに滑稽な最期だったな。じゃあ、小悪魔か。あっはっは、愉快愉快。あっはっはっはっは、ひー。いや失敬。あはは」


 どいつもこいつも笑っておる。

 通行人は誰もかれもが指をさしてクスクスと笑って去っていき、なかには携帯で写真を撮っていく者もいる。男女数人が噂の滑稽死について歓談しては喜色満面の笑みを浮かべている。

 素晴らしい。

 私は、皆を笑わせしめたのだ。

 数日でこの騒ぎも収まるであろう。

 だが、それで良いのだ。

 私のことなど一笑に伏して忘れてしまえばいい。こんな奴がいたぜと一時の笑いの種になれば良い。それだけで私は幸せだ。


 ……おや、私の没した生垣に花束が添えてあるぞ。

 ギャグに献花とは洒落ておる。よほど気の利いた傑物に違いあるまい。きっとそうだ。

 そら、すぐそこに年増の女が佇立しておるではないか。献花したのはでこの女であろうな。

 どれ、ひとつご尊顔を拝んでやろう。



「正徳ちゃん、正徳ちゃん」



 アスファルトが黒く染まった。

 ぽつ。ぽつり。

 一粒落ちては濡れそぼって黒になる。



「どうして死んじゃったの。嫌だよ、また遊んでほしかったよ」



 蜿蜒おぼろげに抱いていた鬼胎が癇癪玉の如くに炸裂する。

 青天霹靂。

 佳奈美。佳奈美。引っつき虫の泣き虫な佳奈美。


 こいつはなんだ。

 何を泣いておるのだ。

 誰が連れてきた。

 おい、涙を零すな。

 汚らわしい。

 皆が笑えないだろうが。

 竦むであろうが。

 おいやめろ。

 泣くんじゃない。

 いい歳をした女がくだらぬ駄々を捏ねるんじゃない。

 こら、笑え。

 破顔しろ。

 相好を崩せ。


 にこにこしろ。



「悲しいよ。辛いよ。ねえ、また笑ってよ」



 それはこっちの台詞だ。


 笑え、笑わんか。


 胸の左側から、腐った果実がどろりと溢れ出てでて止まらない。

 

 えっ。

 

 なんだこれは。

 

 違う。


 これは、熱だ。


 こころだ。


 記憶だ。


 あの日だ。


 やめろ。


 やめろ。


 父自慢のディーゼル車を追いかけるな。



「正徳ちゃん、正徳ちゃん」



 笑えと言っとろうが。


 私の生きていた意味を否定する気か。



「正徳ちゃん、正徳ちゃん」

 


 笑え。


 咲え。


 嗤え。


 哂え。



「正徳ちゃん」



 笑え。



「ねえ、正徳ちゃん」



 笑ってくれ。



「ねえ」


 

 ねえ。




 お前に笑ってほしくて、私は。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 衝動的に感想を書いてしまうくらいによかったです。 このセンス、最高でした。
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