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兄様が殿下と話し始めたのを確認して、私はくるりと体を反転した。
名前・・・えっと・・・だめだ、思い出せない。賭けの相手兼エミリオ様の対戦相手の人と、真正面から向かい合う。
「無事ですね?」
「あ、はい・・・?」
頷きはしたけど、疑問形だ。なんで疑問形?
心配になって、じっといろんなところを観察する。見た目にはどこも怪我してなさそうだし、服の乱れもほとんどない。元々兄様は暴力に訴える人じゃないし、大丈夫・・・かな?
「では行ってください。ここでの事は、どうぞご内密にお願いします」
悪い噂がたつと、兄様の将来に影響するからね。お互いに・・・ね。
私の言葉に、だけど、目の前の人は不思議そうに目を丸くして、
「あなたは、怒らないのですか?」
だなんて聞いてくるものだから。
「何を?」
と答えるしかなかった。
これは事故だ。小さな事故で起きた、小さな傷。私の反射神経がちょっと残念だっただけで、みんなが大げさにしたがるだけの些細な事故。怒るほどの事ではない。
・・・と、いうことにしなければいけない。本当は事故じゃないんだろうな、ってことくらい、私だってわかってる。わかっていて、「事故」だと言っているのだ。
そうしないと、調査だのなんだので絶対に武術祭が中止になってしまうから!!
ありえなくない!? 兄様と姉様が絆を深めるイベントですよ、これ!! それを中止!? それも私のせいで!? 絶対無理! ありえない!!
なのでこれは事故だ。事故と言えば事故だ。大事にされたくないのは相手も同じ。というか、彼のほうが大事にされたくはないだろう。だからこそあえて聞き返せば、彼はぐっと言葉を飲み込んだ。
そして、信じられないものを見るような、だけど、どこか安心したような。なんと表現すればいいのかわからない不思議な表情を浮かべて、ゆっくりと頭を下げた。
「・・・怪我をさせてしまい、申し訳ありませんでした」
・・・び、っくりだ。謝ってくれたぞ、この人。パーシェル様も奥でびっくりしてる。ですよね、驚きますよね。
いや、普通なら故意だろうと事故だろうと謝るべきは謝ると思うけど、ここは貴族の世界。謝罪とは、自分の過失を認めることだ。それを嫌う貴族は多い。この人が私を苛めていたあの人とどういう繋がりかは知らないけど・・・主従関係だったら、主人にも責が及ぶかもしれないからね。普通はしない。
「いいえ、避けきれなかった私も悪いので」
だから、これ以上の謝罪は不要だ。その思いで紡いだ言葉は、ちゃんと真意が通じたんだろう。彼はなぜか泣きそうな顔でもう一度頭を下げて、静かに走り去っていった。
ふぅ・・・これでこの件は終了。無事に片付いてよかった。
ということで。
「パーシェル様! 姉様の試合はまだやってますか!?」
本題! 武術祭に戻らなくちゃ!!
急に詰め寄った私に、パーシェル様は一瞬呆けた顔をした後、
「あー・・・たぶん、もう終わる頃じゃないか? 相手的に、ミーシャが苦戦するとは思わないし」
「ええー!!」
なんと!? 姉様の試合がもう終わる!? くっ・・・私の足じゃ今から走っても絶対に間に合わないだろうな。
・・・待てよ。ということは。
「次は兄様の試合なのでは!?」
「そういやそうだな」
そうだな、じゃなーーい! なんですか、その軽い反応は!! 兄様の番が近いなら、いつまでもこんなところにいる場合じゃないでしょう!
「兄様、兄様! 早く戻りましょ・・・う?」
今すぐ兄様を会場に連れ戻そうと、また体を反転させた私。かなり切羽詰まった声が出ていたと思うが、飛び込んできた信じられない光景を前に、最後はしりすぼみになってしまった。
・・・え? 兄様、なんで殿下と抱き合ってるの? え、何。何を見せられてるの?
衝撃的な光景に体が固まった。思考回路もぴたっと止まった。たぶん、パーシェル様も同じだ。
男性二人が抱き合ってるこの光景・・・親友だとしても、ちょっと異常では? 割って入っていいの、これ?
「あー・・・先に戻るか、アリア?」
「・・・そう、ですね。邪魔しちゃいけない気がします」
うん、なんか・・・だめだ。次が兄様の試合ならオーウェン様も探しに来るだろうし、あの人にお任せしよう。あの人なら、この場所もすぐにわかるだろう、うん。
決断すればあとは早い。兄様たちの邪魔をしないよう、私たちは静かにその場を離れた。
客席に戻る途中、私を探すエミリオ様に遭遇した。エミリオ様は私を見つけて安堵したように肩の力を抜き、次いで、私の頬を見て眉根を寄せる。
「エミリオ様もこれに何か?」
なんでみんなそんな顔をするんだ。いい加減見飽きてきたなぁ、と思いながら聞いてみたら、
「いや。君は怪我しても綺麗だな、って思っただけ」
「きっ・・・!?」
きれい!? そうくる!? そうくる!?
驚きすぎて、皮肉の一つも出てこない。顔中に熱が集まったのがわかったけど、エミリオ様は手当された傷口を一撫でして、またも驚きの言葉を口にした。
「一応、今日は護衛できる人と一緒にいるといい。兄君たちの試合を残して帰るような君じゃないだろうし」
「え、護衛?」
「少なくても最前席はやめてくれ。二回目がこの程度の傷で済むとは思わないほうがいい」
二回目。
その言葉に背筋を冷たいものが走った。テンパっていた頭が、一気にクリアになる。
そうだ。あの人は、対戦相手を明確に紹介していない。一緒にいたから、私たちにはそう見えただけ。私を傷つけた人はあくまでも一緒にいただけで、他の参加者の中にまだ本命がいるかもしれないのか。
思い至って、ぞわっとした。反射的にパーシェル様を見上げれば、パーシェル様も私を見ていて、強く頷いてくれる。
「癪だが、兄貴のところに行くか。俺が付いててやりたいけど、俺にも試合があるからな」
「で、でも、ランス様にもお仕事があるのでは?」
「今日の兄貴は、騎士団に入れそうなやつを選別するのが仕事だ。隣にアリアがいるくらい、むしろ喜んで受け入れるだろ」
それなら大丈夫かな・・・うー、でもやっぱり迷惑なのでは・・・
「兄貴?」
「開会式で見ただろ。今日の騎士団まとめてる人だよ」
「ああ。君の兄なのか。護衛にはちょうどいいね」
頭を抱えている私の隣では、パーシェル様とエミリオ様の間で話がまとまったらしい。二人の視線がこちらに向いたことに気が付いて、決断を迫られていることに気付く。
・・・正直、嫌だ。だって、試合をまんべんなく見渡されるように、ランス様の観覧席は観客席からは離れた一番高いところにある。VIPルームとでも呼ぶべきだろうか。実態はただの運営席だけど。オーウェン様も同じ部屋にいるからね。
まぁ、とにかくそういう場所にあるので、全体の眺めはいいけど表情とかまでは見えづらい。というか、私の視力では見えない。つまり、ゲーム内ではスチルしかなかった兄様と姉様の戦いをじっくり見ることができないということだ。
嫌だ。なんのために毎年最前席にいると思っているんだ。でも、今年はそんなことを言っている場合ではないということもわかってる。わかっているのだ・・・
「ううう・・・わかりました・・・」
ここで駄々をこねても、何にもならない。私だって優先度は弁えている。仮に私がまた何かしらの傷を負ったら・・・今度は私でも止めれないレベルの暴走を兄様がするだろう。それだけは避けなくては。百歩どころか一万歩くらいは譲っての、苦渋すぎる決断だ。
私の返答を聞いて、パーシェル様がほっと息をついた。エミリオ様も安堵してくれたのか、「いい子」と言いながら頭を撫でていく。・・・確実に子供扱いされている。同じ年齢・・・いや、前世がある分、私のほうが精神年齢高いはずなのにおかしいですね。
「ならこっちだ。兄貴のところまで送ってく」
パーシェル様に腕を引かれ、エミリオ様にはぺこりと頭を下げて付いていく。エミリオ様はついてくることはなく、手を振って見送ってくれた。
・・・歩いてて思ったけど、やっぱり遠いな、ランス様のところ。嫌だなぁ・・・って思いがきっと顔に出たんだろう。
「兄貴なら偵察用の望遠鏡持ってるだろうから、それで我慢してくれ」
ってパーシェル様に笑いながら言われてしまった。くっ・・・お見通しか。ありがたく借りよう。
ランス様のいる部屋につけば、ランス様にもめちゃくちゃ心配されていた。オーウェン様はいないようだったけど、まぁ、兄様の試合まだ始まってないもんね。兄様を探しに行ってるんだろう。お疲れ様です。
何はともあれ、事情を話せば、すぐに二つ返事で了承してくれた。その上、
「今日だけでいいのか?」
なんて不穏なことをおっしゃるものだから、思わず頬が引き攣った。
今日だけでいいです。ええ。こんな物騒な行事は今日だけだからね。何度もあってたまるか、ってものですよ。
「お気遣いだけもらっておきます」
丁重にお断りして、窓際に移動する。うわー、やっぱり見晴らしはいい。客席まで含めて一望できるよ。流石はVIPルーム。
「あとは頼んだ」
「ああ。無様な試合は見せるなよ」
パーシェル様が出て行くのとほぼ同時に、試合会場でも動きがあった。
あ、兄様が出てきた。隣にはオーウェン様もいる。よかった。オーウェン様、ちゃんと見つけてくれたみたい。
「アリアちゃん、使う?」
「! ありがとうございます!」
差し出された望遠鏡をお礼を言って受け取って、覗き込む。うわー、すごいすごい。本当にちゃんと遠くまで見えるものなんだなぁ。兄様の顔までちゃんと見え・・・兄様の目元、赤くない? え、兄様大丈夫!?
そんな心配をしたのは一瞬のこと。舞台に上がった兄様は、試合開始の合図と同時に剣を抜き、瞬きの速さで勝利を掴んできた。
いや、本当に。何が起きたのかわからなかった。ただ、気付いたら相手の剣が地面に落ちてたのだ。え、ほんと。何が起きた。
「おやおや。憂さ晴らしに使われたか、可哀想に」
ランス様が笑ってるけど、憂さ晴らし? え、何の? 相手の人も上級に出てくるくらいには強いはずなんですけど!
いろいろと思うことはある。あったけど、兄様がこっちを向いて、笑顔で手を振ってくれたから。全てがどうでもよくなって、
「兄様、おめでとうございますー!!」
と、見えも聞こえもしないだろうけど、私も全力で勝負を讃えていた。
それからはもう、怒涛の如く試合は進んだ。
殿下やパーシェル様も無双のごとき展開で勝ち進み、あっという間に2回戦。エミリオ様は難なく勝ち進み・・・
兄様と姉様の試合の番が、やってきた。




