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あれから数日。武術祭まであと一週間と迫っているが、私は未だに兄様とお話できていなかった。
「話をしたいか?」と聞かれたら、答えは「No」だ。出来れば話したくない。だって絶対勝負のことを聞かれる。やましいことは何もない。何もないけど・・・・・・怒られる、気がする。たぶん。きっと。おそらく。ほぼ絶対に。
怒られるとわかっていて、呑気にお会いしたいと思うほど私は馬鹿ではない。・・・いや、ずっと逃げ回るわけにはいかないし、今も逃げているというよりは兄様が忙しすぎて会う暇もないというのが正しいけど。けど、怖いものは怖い。うちの兄様は怒るとすごく怖いんだ。それは妹であっても例外ではない。
なので、兄様が仕事で忙しい事を利用して、私は兄様を徹底して避けた。・・・・・・避けたつもりだった。
「やぁ、アリア。すごく久しぶりだね」
笑顔の兄様が目の前に現れるまでは。
あ、詰んだ。
直感的にそう思ったし、表情も固まってしまったと思う。けれど兄様はそんな私にかまう様子もなく、ぐいぐいと腕を引っ張って屋敷の中を歩きはじめた。
ちょっとみんな黙って見てないで助けて!? 意味深な笑顔や頷きはいらないー!!
すれ違う人たちに助けを求めて視線を送ったり手を伸ばしたりしてみたけど、どうやら屋敷の中に味方はいないらしい。なんてことだ! 私一応、このおうちの長女ですけど!? いや、腕を引いてる人は跡取りだけど・・・それにしたって誰か一人くらい庇ってくれてもいいじゃない!?
薄情な使用人の人たちを恨んでいる間に、どうやら目的地についてしまったらしい。自分の部屋の扉を開けて、備え付けられている椅子に私を座らせて。真正面に座った兄様は、それはもう、言葉にできないほど綺麗な笑顔を浮かべておられた。
「今ならまだ許してあげる。僕に言わなきゃいけないことがあるだろう?」
そんな綺麗な笑顔で言われても、言葉なんて出てくるはずがない。思わず口角が引き攣ったけど、兄様の笑顔は緩まなかった。
・・・言わなきゃいけないことはある。言ったほうがいいこともわかっている。
でも、最初に言うべきことはどれ!? いじめられていたこと? でもそれは前にもあったし、優先度は高くないはず。ならば喧嘩を買ったこと? それとも、ここ数日兄様を避けていたこと? ううう・・・どちらから口に出すべきか、判断がつかない。
「いっぱいあります、って顔してるね。順番に言ってごらん。怒る優先度は僕が決める」
いーやーー! 兄様の笑顔が怖い! 怖いよ!!
で、でも、うん。前向きにとらえよう、私! 怒られることは確定してるけど、許されることも確定してる。ならばきっと、怖いのは一瞬で終わるはず! これ以上兄様から逃げられるはずもないんだから!!
心を奮い立たせるように、膝の上で拳を作る。兄様の顔が見れず拳に視線を落としたまま絞り出した声は、自分でも驚くほどに震えていた。
「・・・ま、前にお話しした人に、またいろいろと言われまして、勝負を引き受けました」
「うん」
「武術祭で代理人を使って勝負して、私が勝ったら二度と関わらない、私が負けたら殿下たちに私が関わらない、という、賭け事、です」
「うん」
「兄様たちに迷惑をかけたくなかったので、代理人はエミリオ様にお願いしました。エミリオ様も了承してくださったので、勝負には勝てると思います」
「うん」
「兄様に相談せずに決めてしまったので、顔を合わせ辛くて・・・兄様を、さ、さけて、まし、た。ごめんなさい・・・」
「・・・」
今度は相槌もなかった。それだけのことが怖くて、私はまだ顔を上げられない。
私の言葉を聞いて、兄様はどう思ったんだろう。やっぱり呆れただろうか、それとも嫌われただろうか。怒られるのは仕方ないけれど、嫌われたくはない。沈黙が痛くてじわりと視界がにじんだ時、トンと軽い音が部屋中に響いた。
トントン、と小刻みに続く音。見なくてもわかる。兄様が指でテーブルを叩いているのだろう。考え事をするときの兄様の癖だ。
・・・だからこそ、もう限界だった。
「うあああん! 今まで黙っていてごめんなさい! 嫌いにならないでくださーい!」
声は自然と大きくなった。同時に、押しとどめていたものが涙となって溢れてくる。
「え!? ちょ、泣かないで、アリア!!」
急に堰を切ったように泣き始めた私に、兄様が慌てている。でも、今の私には兄様を気遣う余裕はない。普段ならありえないほど大きな音を兄様が立てたことにさえ、気付けなかった。
「怖がらせてごめん! 君を嫌いになるなんて、そんなことあるはずないだろう?」
そんな私の体を、温かくて大きな腕が包んでくれる。兄様に抱きしめられているのだとわかっていても、今の私には抱き返す勇気はなかった。
「で、でも、私、兄様をおこ、らせて・・・!!」
「怒ってはいるけど、嫌ってはないよ。ほら、ちゃんと手を回して、いつものようにおいで。嫌ってる人相手に、僕がこんなことするはずがないでしょ?」
手を取られたと思ったら、促すように兄様の首へと回される。だけど、私は素直に聞くこともできなくて、すぐに手を引いてしまった。
ああ、だめだ。こんなことをしては兄様を困らせる。
わかっているのに、自分から兄様に抱き着く勇気は今の私にはない。子供のように泣きじゃくるだけの私を、だけど、兄様は放そうとはしなかった。
「君が落ち着くまでずっとこうしてるよ」
背中を撫でながら、降ってくるのは優しい声だ。涙で滲んだ視界では、兄様の顔もちゃんと見れない。声で判断するしかない今、私には兄様の言葉を聞くことしかできない。
なんとか泣くのをやめたくて、両手でぐいと目をこする。けど、その手も兄様にとられてしまった。
「こすっちゃだめだよ。腫れてしまうだろう」
「でも、私、もう子供じゃ・・・」
「子供じゃなくても、僕の可愛い妹だ。そうでしょ?」
優しい声。兄様のこんな声を聞けるのは、きっと私と姉様だけだ。そう思うと、また涙がぼろぼろと溢れてきた。
兄様のことは好きだ。大好きだ。けれど、怖いものは怖いし、悲しいものは悲しい。泣いたってどうしようもないとわかっているけど、勝手にあふれてくるのだから私にはどうしようもない。この体は年相応らしく、自分自身で制御できないことが稀にあった。
だから、この失態は本意ではない。本意ではないけれど、兄様に対して効果が抜群なのも事実だった。
「君が反省しているのはわかったし、これ以上怒るつもりもないよ」
今度の言葉は、きっと本音。兄様の指が優しく目元を拭ってくれる。少しだけクリアになった視界で兄様を見れば、私と同じ色の瞳がまっすぐに私を見つめていた。
「ただ、一つだけ約束して」
「やくそく?」
「そう。僕に内緒でエミリオ殿下を頼るのは今回だけにして。守れる?」
「・・・兄様がそう仰るなら」
私の返事を聞いて、兄様の雰囲気が明らかに和らいだ。そして、次に浮かべていたのはいつもの穏やかな笑顔。
「ありがとう」
そういって、ぎゅうと私を抱きしめてくれる。いつもと同じ兄様に、私ももうためらう理由などなかった。
腕を伸ばして、私も兄様を抱きしめる。兄様の顔は見れなかったけど、今度はすっと言葉が出てきた。
「本当にごめんなさい」
重ねて謝れば、ふっと兄様が息を吐いたのがわかった。
・・・もしかして、兄様も緊張していたんだろうか? ふと湧き上がった疑問は、兄様に聞いたところで答えてはもらえないだろう。
代わりに私を抱きしめる腕に力が入る。私も負けないように強く抱きしめ返せば、今度は兄様の力が緩んだ。
そして、もう一度視線を合わせ。
「当日はちゃんと僕の応援してくれないと拗ねるからね?」
紡いだ言葉は、きっと本音なのだろう。悪戯っ子のような表情で誤魔化そうとしてるけど、誤魔化し切れてないですよ。
けど、私の答えは決まっている。
「はい、もちろんです」
兄様とエミリオ様の試合は、ゲーム中にはなかった気がする。エミリオ様は兄様ルートではほとんど出てこないから当然かもしれない。でも、例えお二人が戦うことになったとしても、私の返答は変わらないだろう。
私の返事を聞いて、兄様は今日初めて見る晴れやかな笑顔を浮かべてくれた。それを見て、私もやっと心から笑顔を返すことができたのだった。




