姉の百合
教授室を後にあいた、キャップにサングラス、リュックサックを背負った昊星と柊が、正面玄関から出てきた。
道場に通っていたのかと、柊が聞いても、昊星はううんと、否定の返事をするだけで何も言わない。諦めが悪いのか、それとも、俺もこいつのようにあんな風に、とでも思っているのか、相手の胸に頭をつけて前褌引き、腰を低くして組む相撲取りのように、しつこく食い下がって質問し続けていた。
昊星は、その余りのしつこさに観念したのか
「姉貴」
と、素っ気無く答えた。
「姉さんがいるのかッ!?」
羨ましそうに昊星を見つめている一人っ子の柊は、女姉妹に対する憧れのようなものを抱いていた。姉はどこまでも優しく、妹はどこまでも可愛い。だが、現実となるとそうはいかない。昊星は、冷たく鼻で一笑した。
昊星の姉の百合は、泣き虫でねしょんべんたれだった坂本龍馬を、強い男にしようと剣術を教えた、豪快で豪傑な乙女姉さんのような女性で、彼女の周りには常に人が集まり、頼られるリーダー的存在だった。
幼い頃から数学に秀でていた昊星は、いつも教室の片隅で、友も作らず一人で、ひたすら数学と格闘していた。昊星にとっては、数学の問題が解けていく喜びは何にも代えがたいものであったが、他者にとっての彼は、ただの数学オタクでしかなかった。集団の中からはみだす者は、何がしかのターゲットにされてしまうのは言うまでもない。
数学に没頭していた昊星は、そのターゲットにされても然程気にはならなかったが、しかし、そこはやはり普通の子供と同じ。時には、辛さのあまり、隠れて涙することもあった。その涙をいち早くキャッチしたのが、両親ではなく同じ学校に通う姉の百合であった。
百合は昊星のために、それをやめさせようと何度も何度も掛け合った。だが、それは一時のその場凌ぎに過ぎにしかならなかった。そこで百合は考えた。昊星自身にその身を守らせようと。百合は、身を守るための術をその身をもって教えたのである。
昊星からその話を聞いた柊は、
「姉さんって、そんなものなのか?」
と、尋ねるように言った。
「他は知らないが、姉貴はそうだった」
と、昊星が返答した。
「だったらすげえよな。興味をそそられたぜ。すぐにでも会ってみてえな」
なんて事を言いながら、柊は、当然のように駐車場へと歩いて行った。
「どうなんだ?会えるのか?」
と言って、柊は横にいる昊星を窺った。だが、当然そこにいると思っていた昊星は居ず、辺りをキョロキョロと見廻した。
昊星は、何も言わずに黙ったまま真っ直ぐに門の方へとスタスタと歩いて行っていた。
「車じゃねえのかよ」
追っかけてきた柊が、言った。
「車なんて必要ないさ、自宅は大学のすぐそばだから。ウォーキングは運動にもなるし、健康にもいい。一石二鳥さ」
「だったらそう言えよ」
「聞かなかったからな」
「きかなかったからってな」
昊星は、何も答えずにウォーキングスタイルで大股早足歩きで先へ先へと前進していった。
「待てよ」
柊は、そんな昊星を小走りで後を追った。




