階段教室
柊は、首都高速湾岸線を走るタクシーの車内から窓外の景色を眺めていて、ふと脳裏を掠めるように思い浮かんできて、
「事件は会議室で起きてるんじゃない。現場で起きてるんだ」
と、ドラマのセリフを口走った。
「踊る大走査線ですね」
タクシーの運転手が、話しかけてきた。
「運転手さん、知ってるの?」
「毎週、欠かさず見てましたからね。確か、湾岸警察署の刑事でしたよね」
「ああ」
「……もしかして、お客さんも、刑事さん?」
運転手が、バックミラーに映る柊をチラリと窺った。
「シッ」
柊が、口を閉じて、その口に人差し指を当てた。
「ここだけの話に、しておいてよ」
「はい、もちろんです」
「フッフフフフ」
柊が、声を殺して喉の奥で笑った。
目的地に到着して、運転手はタクシーを停め、メーターの支払ボタンを押して、合計ボタンを押し、料金を告げた。
柊は、財布から万札を一枚取りだして、運転手に手渡した。
「おつりです」
と、運転手が差し出すと、
「チップだよ」
「え?……でも、しかし。こんなには……」
「楽しかったタクシー旅への謝礼金。だからさ、取っといて」
と、柊が気障ったらしい軽口をたたいた。
「は……。ありがとうございます」
運転者は返事のしようもないのか、ただ礼を述べただけだった。
「ありがとう」
と言って、太っ腹な柊はタクシーを降りて、建物の正面玄関の方へと意気揚々と歩いて行った。
廊下を行き、ドアを開けると、階段教室の3分の1程度の座席を埋めた大学生が、クスクスと笑っていた。
不審に思った柊は、その目線を前方に移して
「あッ」
と声を漏らして、プッと吹きだした。が、すぐに真顔になって、目の前にある空席に座った。
座席に背を向けて、黒板に問題を解くための数学的計算手順を書いていた昊星が、こちらに向き直った。すると、学生達の笑いも消え真顔になった。
「同じ計算をするんだったら、やり方を工夫して、より良い計算方法を見つけようというのが、アルゴリズムだ」
アルゴリズムとは、ある特定の問題を解いたり、課題を解決したりするための計算手順や処理手順のこと。算法ともいう。これを図式化したものがフローチャートであり、コンピューターで処理するための具体的な手順を記述したものがプログラムである。
アラビア数字の”188”を、ローマ数字で表すと、”CL×××ⅤⅠⅠⅠ”となる。
アラビア数字を用いる筆算法を意味する英語で、アラビアの数学者フワーリズミーが語源。今日の数学では、問題を解くための演算の手順を表したものをいう。2数の大小の比較、位置の入替え、指示から指示への移行などの補助的操作も含む。
数学的計算手順がビッシリと書かれた黒板を背にして講義を続ける、昊星。
その内容を熱心に聞いている、学生達。その学生達を見廻しながら話をしている昊星の眼が、ある一点に来て、動きが止まった。
視線の先には、コックリコックリと船を漕いで居眠りしている柊がいた。
「そこの君ッ」
昊星が、マイクに向かって怒鳴った。
だが、柊は座ったまま身体を前後に揺らしていた。
「そこで船を漕いでいる君だよッ」
昊星が、またもマイクに向かって怒鳴った。
その声で、柊が漸く目を覚ました。
「俺?」
と、柊は辺りをキョロキョロ見廻した。
「そう。君だよ、君」
昊星が柊を指差すと、学生達が一斉に振り返った。
「君は学生か?」
学生達が一斉に、昊星を見た。
「え?……ええ、まあ」
「そうは見えんが」
「見た目はそうでも、中身は学生」
「並みか?」
まるでテニスを観戦している観客のように頭を右に左にと交互に振りながら、二人の会話を聞いている学生達が、ドッと笑った。
「学生なら学生らしく、僕の講義内容について聞こうじゃないか」
と、昊星に言われて
「アルゴリズム」
と、柊が答えた。その言葉だけが、頭の中に残っていたに過ぎないのだが……。
「では、アルゴリズムとは?」
柊がしどろもどろに答えていると、キンコンカンと救われたように終業のベルが鳴った。胸を撫で下ろして、ホ~ッと吐息をつく柊であった。
学生達が教室から全員出て行ったのを見届けて、徐に立ち上がって
「ケッケッケッケ」
と、柊は笑いながら階段を下りていった。
黒板の文字を消していた昊星が、振り向いて
「楽しいことでもあったのかね?」
と、言った。
「ああ、あった」
と柊が返して、昊星の背中に張られた貼紙を剥がした。
貼紙には、
【数学の面白さ楽しさ 天才数学者の顔】と書かれた文字の下に、『へのへのもへじ』の漫画チックな下手糞な似顔絵が描かれ、【気をつけろ、こんな顔になるぞ】と書かれてあった。
「そんなに笑うほど、これが楽しいことなのか?」
腹を抱えて笑っている柊に、昊星が咎めるように言った。
「ああ、楽しいことだね」
更に声を高めてゲラゲラ笑って、
「久し振りだな。一年振りか?」
と、言うと
「誰だね?君は?」
昊星が、マジな表情で言った。
「俺だよ、俺」
「俺?……そう言われてもな」
柊が、ムッとした顔をして
「忘れたのかよ、平良柊だッ。天才なら顔と名前ぐらい覚えとけ!」
腹立たしげに怒鳴った。
「わかってるよ。さっきのお返しに、からかってみただけさ」
「ってなお前!」
「元気そうだな」
「おまえもな」
「よくここがわかったな」
昊星が言って、柊が雑誌を見せた。
「あ~あ。それね」
「表紙を見て変ったと思ったが、やっぱり、相変らずだな」
「表紙を飾るから、教授らしくと言われて、仕方なくさ。急用か?」
雑誌の表紙をポンポンと叩いて、柊が言った。
「これを見てたら、急に会いたくなってな」
「そうなのか」
味も素っ気もない返事をして、昊星は教室を出て行った。




