◆ナイトメア〜引っ越し〜
異界アルバム参加作品です。
七月上旬の日曜日。
その日は、朝からとても暑い日だった。
盛夏を思わせる太陽の強い光がアスファルトをじりじりと焼きつけ、見るもの全てをゆらゆらと揺らす。遠くでは、気の早いアブラゼミが忙しなく鳴いていた。
湿気を含んだ蒸れた空気が体中にまとわりついて、全身に汗を噴き出させる。
そんな昼下がり。
「うわぁ、なんだかボロっちーね、このアパート」
私、坂田美鈴は、汗で滑りそうになる両手の大荷物を抱えなおしながら、新居アパートの玄関ポーチで建物全体を仰ぎ見た。
視線の先には、大分年季が入った、見るからにボロい集合住宅がそびえ立っている。
元はアイボリーだったのだろう。モルタルの壁は薄茶色にすすけていて、所々細かいひび割れが黒い蜘蛛の巣状に走っていた。サッシも、アルミ色のシンプルなもので、洒落っ気の欠片もない。
なんだか、がっかり。
もうちょっと、小綺麗なアパートを期待していたんだけどなぁ。
建設会社の現場監督をしている父の仕事の都合で、とある山あいの町に引っ越ししたのは高校二年生の夏休み直前。社宅として使われている、古ぼけた四階建てのアパートの302号室。ここが、父・母・娘の私。三人家族の新しい住まいだった。
「そう言いなさんな、3DKで月一万五千円だぞ。文句は言えないよ。まあ、今度の所も二、三年位だろうから、ガマンガマン」
大きめの荷物を抱えた父が、苦笑しながらアパートに入っていく。
ううっ、二、三年かぁ。
少なくても高校卒業までは、もう転校しなくてすむかぁ。
引っ越し自体は、色々な所に行けて楽しい面もある。だけど、せっかく仲良くなった友達とサヨナラするのは、何度引っ越しをしても慣れそうにない。
「そうそう。住めば都って言うでしょう?」
溜息を付く私の脇を、これまた大荷物を抱えた母が通り過ぎて行く。置いて行かれそうになった私は、慌てて二人の後を追った。
そりゃ、そうだけどさ。
どうせなら、綺麗なトコの方がいいじゃない?
ヒヤリ――。
建物の中に一歩足を踏み入れた瞬間、首筋を冷たい空気が撫でた。でもそれは一瞬のことで、すぐに外と同じ蒸れた空気が体中を包み込む。
「冷房?」
足を止めて、周りを見渡す。
人の気配のない、ちょっと薄暗さを感じる古びた玄関スペースには、何処をどう見ても、冷房器具なんて文明の利器は設置されていそうもない。
「どうしたの、美鈴?」
突然足を止めたのを不思議に思ったのか、母が声をかけたきた。
やっぱり、気のせいだね。
「う、ううん、何でも……」
『何でもないよ』と言おうとした私は、目の前の光景にぎょっとした。
先頭を行く父が、荷物を抱えたまま階段を上り始めたのだ。
「ちょっ、ちょっと、お父さん、確か部屋って302号室だよね!?」
「おう、そうだ」
振り返りもせずにそう答えをよこして、そのまま階段を上る父の、だだっ広い背中を呆然と見詰めること三秒。
「だって、エレベーターは!? ま、まさか、三階まで階段使うの!?」
私は、思わず声がワントーン跳ね上がった。
「四階建ての古アパートに、そんなモノないのさ。学校だって、エレベーターなんか付いてないだろうが?」
がはははっ。
体格と同じに豪快な父の笑い声が、コンクリートの階段室に虚しく響き渡る。
「ええ〜っ!?」
マジですか!?
この糞暑い中、三階まで何往復上り下りをしなければならないのか目算した私は、軽い目眩に襲われた。
自慢じゃないけど、私は文芸部。力仕事には向いてない。
『むうぅ』と、眉根に力がこもる。きっと、額には深い縦皺が出来ているに違いない。
そんな私の様子を見なくても分かるのか、「心配するな。会社の若いのが、手伝いに来てくれる事になってるから」と、笑いを含んだ父の声が飛んでくる。
「なんだ、そうならそうと、早く言ってよ〜」
はあああっ。
よけいな汗かいちゃったじゃない、もう。
そのお手伝いさんが、一刻も早く来てくれることを祈ろう。
そう心から願いつつ、私は両親の後に続いて階段を上り始めた。
こつん、こつん。
こつん、こつん、こつん――。
しんと静まりかえった階段室に、私たち家族の足音だけがうつろに響く。
少し薄暗くジメッとしたコンクリートの内階段は、まるで個性という物がない。
踏み板部分のコンクリートには長年の色々な汚れが染みついていて、濃いグレーの色彩の中に不気味な模様を浮かび上がらせている。
点が三つ並んでいると、顔に見えてくると言うけど、確かにそんな気がしてくるから不思議。
何度も塗り重ねて来たのだろう、妙にボテッと厚みを感じさせるクリーム色の壁は、外壁と一緒ですすけて黒い蜘蛛の巣状のヒビが走っていた。
行けども行けども、同じ風景。
行けども行けども、繰り返される、同じ風景。
こういうの、なんて言うんだっけ?
終わりの無い輪っか。
そうあれは確か、
『メビウスの輪』――。
――このまま三階に行き着かなかったりして……。
『このまま出口に辿り着けない』
そんな妄想に駆られた。
狭い階段の踊り場。
一メートルほどの高さのコンクリートの腰壁の上に付けられた、小さな引き違い窓。
そこから見える山あいの田舎町の、のどかな風景だけが、そのアングルを変えていく。
それだけが、唯一の変化。
日常の目印。
その目印が無くなったとき、そこはもう、別の世界――。
なんてね。
ホラー小説の読み過ぎだ、私。
建物北側にある廊下は直射日光は当たらないが、やはり暑い事には変わりがない。
階段室側から二部屋目の、302号と小さなプレートの貼られたグレーの扉の前。
がっちりした厳つい顔全体に、うっすらと汗を滲ませた父が、立ち止まって『ふう』と大きな溜息をつく。
「さすがに、しんどいな……」
父が本音をボソリと漏らしたのを、私は聞き逃さなかった。
「ほら、お父さんだって、エレベーターがあった方がいいでしょ?」
『してやったり』と言う表情を作り、からかいモードに入る。
これが、いつもの父娘のコミ二ケーション。母は、『又始まった』とあきれ顔だ。
「ははは、まあな。さてと、カギは……」
父はそう言うと、荷物を持ったままズボンのポケットに手を入れた。が、荷物のバランスを取るのに気を取られたのか、銀色のカギがポケットからスローモーションで落ちていく。
チャリン――。
人気の無い廊下に金属質の音が響き渡った。
父の足下。
コンクリートの床に、銀色の鍵が落ちている。
「おおっと、いかん……」
父が荷物を抱えたまま少しかがむ。
そして、カギへ右手を伸ばした次の瞬間。
『ぐきっ!』
嫌な音が父の身体から、恐らくは腰の辺りから上がったのを、私は確かに聞いた。
一瞬の空白。
次の瞬間「ううっ!」と言う父の呻き声と、その手から放り出された荷物が床に激突する音が、綺麗に重なった。
「お、お父さん、大丈夫!? どこ、どこが痛いのっ!?」
母が荷物を放りだして、父のもとへ飛びつくように駆け寄る。
「う……ううっ!?」
「腰!? 腰が痛いの!?」
脂汗を浮かべながら、顔面蒼白で唸っている父。必死に症状を聞き出そうとする母。そして私は、荷物を抱えたまま、金縛りにあったように棒立ちになってその様子をただ見ていた。
驚きと恐怖。
父の一大事だと言うのに、何も考えられない。
「美鈴っ! 部屋に電話があるから、救急車を呼んで!」
そ、そうだ、救急車!
母の叫び声に、私の呪縛が解ける。
母から鍵を受け取り、グレーのスチールドアの鍵穴にガチャガチャと乱暴に鍵を突っ込むと『カチン』と、古い割には軽快な音を響かせて鍵が開いた。
ぎぃいいぃっ……。
扉自体は年季が入っているためか、蝶番が鈍いきしみ音を上げて開く。
妙に薄暗い半畳程の広さの玄関が、私の目前に広がっている。ワックスなど掛けた事がないのかと思うほど、ツヤのない床板。玄関を上がってすぐ目の前に、これだけは妙に新しい木製のドアがある。
私は、急いで靴を脱いで上がると、そのドアを勢いよく開けた。
なに、この臭い!?
ドアを開けた瞬間、鼻を突く強烈な悪臭に襲われた。
この暑さの中、窓を締め切っているせいか、室内には物がカビた時に発生する独特の嫌な臭いが充満している。
思わず息を詰めて部屋に入ると、そこはダイニングキッチンになっていた。
部屋は洋間で、広さは八畳ほど。
こげ茶色の、古めかしい市松模様をした木目の床板が目に入った。
右側の壁際に白い合板の簡素なキッチンセット。右奥の壁面が掃き出しの窓になっている。そこには、前の住人の物だろうか?床板と同系色のチェック柄をしたカーテンがびっちり引かれていた。
同じ暗い茶系の市松模様の床板にチェック柄のカーテンは、古くて薄暗い部屋の雰囲気をより陰鬱なものにしている。
「美鈴! 電話見つかったの!?」
母の切迫した声に、はっと我に返り、私はあまり空気を吸い込まないようにしながら、部屋の中をきょろきょろと電話を探して視線を巡らした。
「あ、あった!」
窓際のカーテンに半分隠れるようにして、床に直に置かれている白い電話機を見つけ、小走りに駆けより手を伸ばした。次の瞬間、『バチッ!』っと大きな音と共にかなり強めの静電気が指先に走り、思わず声を上げて手を引っ込める。
な、なに今の!?
「美鈴っ!?」
「あ、今電話する!」
母の叫び声に大声で返事をして、おそるおそる電話に手を伸ばす。
つん。右手の人差し指で、突いてみる。が、今度は大丈夫。私は急いで119番に電話をかけた。
救急車は、五分ほどで到着した。
玄関に横付けされた救急車の後部に、慌ただしくタンカに乗せられた父が運び込まれる。続いて、それに付きそう為に母が乗り込んだ。
「美鈴! 会社の石崎さんって言う人が、手伝いに来てくれる事になっているから、後のこと頼めるわね?」
幾分落ち着きを取り戻した母にそう言われ、私は小さくコクンと頷いた。
初対面の人と二人っきりは気が重い。でも、今は非常時だ。
一人娘としては、『両親の留守を守らなくては』
そう、思ったのだ。
救急車が見えなくなるまでその姿を目で追っていた私は、不意に周りの状況がおかしいことに気がついた。
日曜日の社宅の昼下がり。
当たり前と言えば当たり前だが、救急車が来たことで物見高い野次馬が集まっていた。
数人の主婦らしきグループが、私の方をチラチラ見ながらひそひそ話をしている。部屋からは出て来ないが、窓を開けて盗み見ている者もいる。その全員が、私と目が会うと、気まずげに視線を外して行ってしまのだ。
何だか、避けられてる?
そんな気がした。
「あの、坂田さんですよね? 坂田主任の所の確か、美鈴さん?」
不意に背後から名前を呼ばれ、私はドキリと驚いた。
まだ若そうな男性の声。
振り向くと、背の高い痩せぎすの青年が二人立っていた。一人は二十代後半くらい。もう一人は、私と同じくらいか、ちょっと上くらいに見える。
二人とも黒い短髪で、一重のスットした切れ長の目をしていて良く似ている。一目で血縁者と分かる風貌だ。格好も色こそ違えど、半袖Tシャツにジーパンと似たり寄ったりだった。
相手は私のことを知っているようだけど、どちらの顔にも見覚えがない。
「坂田ですけど。あの……?」
不安いっぱいで尋ねる私に、年かさの青年がニコリと人好きのする笑顔を浮かべて、自己紹介を始めた。
「自分は、坂田主任の部下になった石崎、石崎政志と言います。こっちが弟の、真次、今日は、主任の引っ越しの手伝いに来たんですが……」
政志さんは遠巻きの人だかりを見て眉をひそめると、声のトーンを落としてそのまま言葉を続けた。
「何が、あったんです?」
我が坂田家は、工事現場の監督などと言う父の職業柄転勤が多い。
転勤族も慣れればそれなりに知恵がつくもので、引っ越し荷物も必要最小限で普通の家庭よりも少ない。
故に、夕方の四時を回る頃には、石崎兄弟と言う頼もしい助っ人二人のお陰で、引っ越し荷物は新居の302号室に運び終えてしまった。今は、ダイニングキッチンで、運び込んだ白木のテーブルを三人で囲んで、私が買ってきた自販機のジュースで喉を潤している所だ。
「それにしても、ただのぎっくり腰でって言っちゃ何だけど、大事にならないで良かったね」
石崎兄・政志さんがニコニコ笑顔で話題を振ってくれる。
父が救急車で運ばれて三十分後には母から、『酷いぎっくり腰で念のため一週間入院』と電話連絡がきていた。母は、一度父の着替え一式を取りに来て石崎兄弟にお礼を言うと、『夜には帰れると思うから、留守番頼むわね』と言い残し、又病院に向かったのだ。
「はい。本当に良かったです」
政志さんの気さくな性格のお陰で、初対面の人間と話すのが苦手な私も、いつの間にか打ち解けていた。
「あ、そう言えば真次は、美鈴さんと同じ高校に通ってるんだよ」
政志さんの言葉に、私は少し驚いた。
「え? 真次さんも明野高校なんですか!?」
――凄い偶然。
中学なら学区が一緒ってありそうだけど、高校が一緒と言うのは、かなり確率が低いんじゃないだろうか?
私は、はす向かいに座る真次くんの顔を覗き込んだ。
視線が一瞬かち合う。でも、「ああ」と頷いて見せただけで、彼は興味がなさそうに視線を天井の方にスッと外してしまった。それ以上話すそぶりはない。
無愛想だなぁ……。
同じ兄弟でも、偉い違いだ。
私のちょっと棘がある視線に気付いたのか、政志さんが苦笑した。
「学年も同じだし、二クラスしか無いから、もしかしたら同じクラスになるかもね。明日は一緒に学校に行くといいよ。朝迎えに寄らせるから」
石崎兄弟は、このアパートの上の階の405号室に、母親と三人で住んでいるのだと言う。
「あ、はい。方向音痴なんで助かります」
「美鈴ちゃん、方向音痴なんだ?」
「はい、かなり。地図通りに曲がっているはずなのに、気がつくと同じ所をぐるぐる回っていたりとか、よくあるんです」
思わず笑顔がヒクヒクと引きつる。
「それは、筋金入りだね」
「本当、自分でもそう思います」
――お父さんのケガで始まった引っ越し第一日目だったけど、そんなに悪い日でもなかったかな。
和やかな空気に包まれながら、心の中でそう思った時だった。
パシン!
天井で大きな音がした。
三人が一斉に、視線を集中させる。
音がしたのはキッチンの天井。私たちは、流し台の丁度真上辺り、木目の天井板を凝視した。
何? 今の音。
私は、又音がするのではないかと、耳を澄ました。
「……家鳴りかな。このアパートもかなり古いからね、あちこちガタが来ているし」
政志さんが、天井を見詰めながら目を細める。その声音は何処か『腑に落ちないと』言うニュアンスが含まれていた。彼自身も、あの音の正体が掴めない、そんな感じだ。
「家鳴り、ですか?」
私には、初めて耳にする単語だった。
「ああ、多分。でも……」
「でも?」
「いや、何でもないよ。そんなに気にしなくても大丈夫。いくら古くても、建物が崩れるなんてことはないからね」
――それはちょっと、笑えないかも。
私は、年季の入ったアパートの外観を思い浮かべて、思わず笑顔が引きつってしまった。
「じゃ、俺たちは、これで」
しばらく他愛のない話しに花を咲かせた後、キリが良いところで政志さんが腰を上げた。それに次いで真次くんも立ち上がる。
「あ、今日は、ありがとうございました!」
私はガタンと椅子を鳴らして慌てて立ち上がって、ペコリと頭を下げた。
「どういたしまして。何か困ったことがあったら、家は上の階だから気兼ねなくおいでね。俺は仕事で夜遅くならないと家に帰らないけど、たぶん真次は暇だから」
「あ、兄貴!」
政志さんがニコニコ、含みの有る笑いを浮かべているのに対して、今まで無愛想だった真次くんが表情を動かした。少し顔を赤くして、怒ったような顔をしている。
へえ、ムキになったりするんだ。
根暗って訳じゃないのね。
私は、彼の意外な面を発見して、少し嬉しくなった。
これから数年間はご近所さんで同じ学校に通うんだから、付き合いやすい方がありがたい。
「あの、もしさ……」
「え?」
帰り際、玄関で靴を履き終えた真次くんが、言いにくそうに口を開いた。
「もし何かあったら、遠慮しないで来いよな」
ぶっきらぼうに、ボソリと呟く。
「うん、ありがとう。そうする」
なんだ、けっこういいヤツじゃない。
私と一緒で、初対面の相手とはなかなか打ち解けられない性格なのかもしれない。 真次くんとは、何だか仲良くなれそうな気がする。
「あのさ」
「はい?」
「俺は先に、戻ってるぞー」
尚も何か言いたそうに玄関に佇む真次くんに、政志さんが幾分からかいを込めた声をかけた。そのまま手をヒラヒラ振りながら、階段室の方へ歩いて行ってしまう。
「坂田さん家って、何教?」
「はい!?」
何を言い出すのか、『まさかいきなり告白でもないよね?』と、内心ドキドキしていた私は、予想外の真次くんの質問に、素っ頓狂な声を上げてしまった。
なに?
真次君って、宗教の人なの?
思わず身構える。
そんな私の心の内を知ってか知らずか、真次くんが真剣な眼差しをむけてくる。
「あ、仏教だけど……、宗派は、なんだっけかな?」
答える言葉も、しどろもどろになってしまう。
「何かあったら、その宗派の念仏を唱えな」
はい!?
念仏って、ナムアミダブツとか言うあれ?
いったい何の話しだろうと一生懸命考えを巡らせるが、納得出来る答えに行き着かない。
「じゃあ、明日」
クエスチョンマークが脳内に飛び交う私などお構いなしに、真次くんはそのまま、きびすを返してすたすた歩いて行ってしまった。
「何なのよ、一体?」
やっぱり、変だあの人。あまりお近付きになるのは、よそう。
乙女心と何とやらで真次くんへの評価をころころ変えた末、私は、そう心に決めた。
「さあ、学校の物だけでも整理しなくっちゃ!」
気持ちを切り替えて玄関のドアを閉めた時、私の耳に電話のコール音が届いた。
プルルル。
「お母さんかな?」
小走りに部屋に戻り、床に所狭しと置かれた段ボール箱を避けながら、電話に向かう。
窓際の白木のサイドボードの上。置いてある受話器を無造作に掴んだ瞬間、
バシン!!
「きゃっ!?」
さっき真次くん達と一緒に聞いたのとは比べ物にならないほど大きな音が響き渡って、私は思わず叫んで飛び上がった。
ドキドキと鼓動が跳ね回る。
「何? 家鳴りって、こんなに大きな音がするの?」
父の転勤で、アパートから一戸建てまで色々な家に住んだ経験があるけど、今までこんな音は聞いたことがない。
『もしもし、美鈴? もしもし?』
聞こえてくる母の声に、はっと我に返って受話器を耳に当てた。
「あ、もしもし、お母さん?」
『どうしたの? 何かあった?』
心配げな母の声に私は「ううん、何もないよ」と答えを返す。
『何だかね、今日は帰れそうにないのよ』
「ええっ? 何、お父さん悪いの?」
母の言葉に父の病状が悪化したのかと、心配になった。
『うん。急に高熱が出ちゃって、今日は付き添いして下さいって言うのよ』
「そうなんだ……」
『まあ、生きるの死ぬのって問題じゃ無いから心配しないで。それより、一人で大丈夫?』
いや、大丈夫じゃないけど……。
いい年して、留守番が嫌だなんていえないよね。
新しい部屋での、最初の日。本音では一人で過ごすのは嫌だったが、場合が場合だ。
「大丈夫だよ、お母さん。もう高校生なんだから、心配しないで。うん。明日、転校手続きの書類を持って行けばいいんだよね?」
『学校の場所は、書類の中に地図があるからそれを見て……って、大丈夫かしら。あんた方向音痴だから』
「大丈夫だって! 心配しないでって! 自分の娘を信用してよー」
痛いところを突かれてブーたれると、母がクスクス笑いを漏らした。
『じゃあ、頼むわね。何かあったら電話してね』
「うん。わかった」
引っ越し第一日目。
こうして私は新居での、一人の夜を過ごすことになった。
心に一抹の不安を抱えて――。
「よし! これで明日の準備は万端だぁ」
制服。上履き。書類。筆記用具が入った鞄。
明日の準備が整った頃、窓の外は薄暗くなっていた。腕時計を確認すると七時を少し回った所だった。
「お腹空いたなー」
さすがに動き詰めで、お腹の虫がぐうぐう不平を言っている。
格好良く自炊と行きたい所だけど、まだ荷物の整理が終わってないので調理器具も出ていない。それに食材の買い出しにも行ってないから、冷蔵庫も空っぽだった。
「近所にコンビニか、スーパーあるかな?」
悲しいかな、近所にどんな店があるかもまだ分からない。頼れるのは、あの石崎兄弟だけだ。
「電話で聞くくらいなら、いいよね?」
さすがに、空きっ腹には勝てない。私は、電話帳にメモしておいた石崎家に電話することにした。
サイドボード上の電話に手を伸ばそうとして、私は少しためらった。チラリと、流し台上の天井に視線を走らせる。
何だか、嫌な感じがした。
電話と家鳴り。関係があるとは思えないが、妙に気になった。
話じゃなくて、直接行って聞いちゃおうか?
そういう考えが浮かんだが、丁度今は夕飯時。顔を出せば、『上がって食べて行きなさい』って言われそうだ。それが分かっていて顔を出すのも、気が引けた。
こういうとき携帯電話があれば、便利なのよ!
今度こそ、買って貰うぞ。
あらぬ方に、思考が行き始めたとき、
プルル!
突然電話が鳴って、私は、ビクリとした。
プルルル。
また、お母さん?
つん。
電話機を指で突っつくが、異常なし。
「あはは。バカみたい。何してるんだ私ったら」
きっと、あのせいだ。
石崎弟、真次くんの『念仏を唱えろ』という言葉。
あんな意味ありげなことを言われたから、神経質になってるんだ。きっと、からかわれたんだ。
私は、苦笑して受話器を手に取った。
だが、
「もしもし」
ブツン――。
私が問い掛けるのと同時に、電話は切れてしまった。
「もう、もうちょっと、粘ってよ! 根性ないなぁ!」
空きっ腹な事もあり、少しイライラしていた私は、自分が出るのが遅いのを棚に上げてぷりぷり怒った。
プルルル。
すると、また電話が鳴った。今度は迷わずすぐに出る。
「もしもし?」
「……」
返事がない。
「もしもーし?」
もう一度問いかけてみるが、やはり返事がない。
何これ?
イタズラ電話?
むぅっとして受話器を置きかけたとき、今度は『ピンポーン』と玄関のチャイムが鳴り響いた。
もう一度耳に受話器を当ててみたが、やはり何も聞こえない。
もしかして、故障なのかな?
私は諦めて電話を切った。
ピンポーン! ピンポーン!
「あ、はいはい」
誰だろう?
「家に電話しても出ないからって、坂田のお袋さんから俺の家に電話があったんだ」
目の前の人影。
石崎真次くんは少し心配そうな瞳で、ボソリとそう言った。
「え? お母さんが? 家に電話したって?」
「ああ。何度電話しても、呼び出すばかりで、全然出ないって心配してた」
じゃあ、さっきの電話がそうなのかな?
でも、それじゃ時間が合わないか。
何度もって?
「坂田さん? 大丈夫か?」
考え込んで無言になった私は、訝しげな真悟くんの声に、ハッと我に返った。
「あ、うん。大丈夫。わざわざごめんね。こっちから病院に電話してみる。ありがとね」
礼を言って部屋に戻ろうとして私は、そう言えば近くの店を聞くんだったと思い出した。
「あ、ここの近所に、コンビニか何かあるかな? あれば教えて貰いたいんだけど」
「コンビニが、あるにはあるけど……」
真次くんが、言いにくそうに語尾を濁した。
「けど?」
「歩きだと、片道三十分はかかるよ?」
近くのコンビニが、徒歩で三十分!?
どんだけ田舎なんだ!?
驚きで思わず点目になっていると、真次くんがクスリと口の端を上げた。笑うと、取っ付きにくい印象が少し柔らかくなる。
「夕飯の買い出しだろう? それで呼びに来たんだ、家のお袋が夕飯食べに来いってさ」
空腹は最上のソースだっていうけど、それを割り引いても石崎家の夕飯はとても美味しかった。
「明日の朝もいらっしゃい」との母上の、ありがたいお誘いに「はい」と笑顔で答えて、私は石崎家を後にした。おまけに、ご丁寧に部屋の前まで真次くんが送ってくれた。至れり尽くせりとはこのことだ。
「今日は、ありがとう。本当は腹ぺこだったから、助かっちゃった」
自分の部屋の前。満腹で機嫌がいい私は、ニコニコ笑顔で真次くんにお礼を言った。
でも真次君は、「ああ……」と曖昧に頷いて外をじっと見ている。眉をひそめ、キュッと口を引き結んだその表情は、決して楽しいモノを見ているふうではない。
何? 外に何かあるわけ?
私は、一抹の不安を覚えながら、真次君が見ているモノを探そうと外に視線を巡らした。すると真次君は唐突に「あれ、あそこ見て」と、ある一点を指さした。
「え? 何、どこ?」
「ほら、あそこの電柱。街灯が付いているだろう?」
「え?」
私は訳も分からず、真次くんが指さす先に視線を送った。
でも、何も見えない。
暗闇の中。ポツンと電柱に付けられた街灯の薄ぼんやりとした明かりが、アスファルトに、青白い丸い光を落としているだけだ。
「?」
顔にクエスチョンマークを浮かべた私の様子を見て、真次くんが口の端を上げた。
「あのさ、今日俺が言ったこと、忘れて」
「え?」
「念仏云々ってやつさ」
「ああ、あれ……」
一応、気にしてはいてくれたんだ。
「じゃ、明日。七時くらいに朝飯だから」
少し照れたように、真次くんが言う。
「あ、はい。お邪魔させて頂きます」
私は、ペコリと頭を下げた。
「じゃ、おやすみ」
「おやすみなさい」
なんだ、結構いい人みたい。
私は、帰って行く真次くんの後ろ姿を、少し彼を見直しながら見送った。
一人の部屋は、シーンと静まり返っている。
テレビでも見られれば気も紛れるけど、まだ冷蔵庫意外の電化製品はみんな梱包したままなので、どうしようもない。
「ふう。しゃーない。お風呂にするかぁ」
ダイニングキッチンにあふれかえった段ボールの群を溜息を付いて見渡すと、私は、部屋から扉一枚ですぐ隣にあるお風呂場に向かった。
ガラリ。
木製の引き戸を開けると、正面に洋式トイレがあり左壁面に洗面台。
トイレは何度か使ったので、これは確認済み。でもまだお風呂は見ていない。
右手壁側がお風呂になっていて、曇りガラスの向こうに白い湯船が見える。
カチャリ。
内開きのドアを開けると、目の前に広がるのは真新しいユニットバス。内部は綺麗に掃除されていて、清潔感があった。
へえ。
水回りは全部、今風にリフォームしてあるんだ。
お風呂も古くて汚いものをイメージしていた私は、『ラッキー♪』と、早速湯船にお湯を入れ始めた。
「ふう。今日は、疲れたなぁ……」
湯船の中で今日の出来事を思い出して、思わず溜息が漏れた。一度に色々な事が有りすぎた。
「お父さん、早く良くなるといいなぁ」
私は、父の腰から聞こえた『ぐきっ』と言うあの音を思い出して、眉をしかめた。
痛そうな音だったなぁ。
それに、石崎兄弟。
クスリ、と思わず口の端が上がる。
無愛想かと思えば優しかったり、急に変な事を言い出したり。
真次君って、やっぱり変。
気持ち良く湯船につかりながらそんな事を考えていたら、昼間の疲れがどっと出たのだろうか。
私は、猛烈な睡魔に襲われた。
あれ、眠い……なぁ。
すうっと、意識が遠のく。
あれ?
ちょっとヤバイかな?
出なくちゃ……。
ぴちゃり。
「ひゃっ!?」
良い気持ちで爆睡していた私は、頬に冷たい水の感触を感じて、ぱっと飛び起きた。
「あ、え?」
周りをきょろきょろと見渡す。
一瞬、何処にいるのか分からずギョッとしたが、すぐに新居のお風呂だと思い出した。
どれくらい眠っていたのか、湯船のお湯は少し温かい水になっていた。
「ひゃ。眠っちゃったんだー」
ゾクゾクと背筋に悪寒が走った。
うわっ。風邪引いちゃう!
私は、湯船にお湯を入れるためにお湯の蛇口をひねった。
きゅっきゅっ!
でも、お湯が出てこない。
「あれ?」
もう一度、蛇口を締めて、ひねる。
でも、お湯は出ない。
「あれぇ? なんだ?」
今度は水の方をひねる。
でも、やはり何も出てこない。
断水?
はあ。
仕方がない。さっさと体を洗って、温かくして眠っちゃおう。
そう思って立ち上がろうとしたとき、蛇口から『ごぼごぼっ』と水が上がってくる音が聞こえた。
あれ? 出るのかな?
ゴボッ――。
ゴボッ。
ゴボゴボゴボッ。
ゴボリ。
視線の先。
蛇口から何か黒いものが盛り上がって来るのが見えた。
「なに? 何か詰まって……」
何気なしに右手で触ろうとした瞬間。
ズルリ――と、何かが出てきた。
え!?
黒い糸状の固まり。
ズル、ズル、ズルズル、ズルズル――ズルリ。
止めどなく出てくる『それ』は、水面に到達すると、ぶわっと一斉に広がった。
髪だ。
黒くて長い髪の毛。
それが、うねうねと水面で踊っている。
ゆっくりと、
そして確実に、
私の体に纏わり付いていく――。
「あ……」
声が出ない。
叫び出したいのに、声が出ない。
ヤ。
イヤ。
首を振りたくても、動かない。
やがて、水面の髪が私の目の前で一つに固まり出した。
すうっと、音もなく一ヶ所に集まる髪の毛。
だんだん、だんだんと、厚みを増していく。
「う……、あっ……」
声にならない悲鳴が喉の奥に張り付く。
でも止まらない。
髪はどんどん厚みを増していく。
何が起ころうとしているか予感した私は、パニックに陥った。
ダメ。
ニゲナクテハ、ダメ。
酷く緩慢な思考の中で、私がそう思ったとき、不意に集まる髪の動きが止まった。
すうううぅううぅううっ。
音も無く、
黒い固まりが水面から盛り上がる。
「ひっ!?」
五センチ。
それが、人の頭頂部だと、私には分かってしまった。
十センチ。
青白い額が見える。
ヤ。
弓形の細い眉。
イヤ。
そして――。
髪の隙間から覗く二つの赤い眼が私を見た。
クスクス。
クスッ。
白い。
白い女が、
私の鼻先で嗤っていた。
『何かあったら、念仏を唱えろ』
薄れ行く意識の中で、私は、真次くんの声を聞いた気がした。
「美鈴!」
自分を呼ぶ、聞き慣れた声。
「美鈴っ!」
強く、体を揺さぶられて、私はゆっくり目を開けた。
そこには、見慣れた母の顔。
心配げに歪められた母の顔にゆっくりと視線を這わせると、私は掠れる声を絞り出した。
「……お母さん?」
「お母さんじゃないわよ! 何やってるの! お風呂で溺れかけるなんてっ!」
心配のあまり逆切れして怒る母に、ぎゅっと抱きしめられる。フワリとした温もりを感じて、私は自分が生きていることを実感した。
冷えた頬を、温かいもの伝い落ちる。
翌朝。
私は、お風呂で溺れかけているところを発見された。
約束の時間になっても食事に現れない私を呼びに来た真次くんが、いくらインターホンを押しても部屋から出てこないことに異変を感じて、管理人に連絡して鍵を開けてくれたのだ。
なみなみと張られた浴槽の水に、後少しで溺れそうな体勢で私は浮いていたそうだ。
もし真次くんが機転を効かせてくれなければ、恐らく私は、今頃この世にはいなかっただろう。
そのあと、私は四十度の高熱を出して肺炎をおこしかけ、病院に入院した。
三日三晩苦しんだ後、熱は嘘のように下がった。
「ごめん……」
熱が下がったことを聞いた真次くんが、病室に見舞いに来て第一声そう言って、すまなそうに頭を下げた。
「なんで謝るの?」
私は、妙に穏やかな気持ちでいた。『憑き物が落ちた』とは、もしかしたらこんな感じを言うのかも知れない。
「大丈夫だと思ったんだ。あの時、坂田さんは何も見えない様子だったから、問題無いと思った。俺の考えが甘かったよ」
私には、真次くんの言っていることが理解出来た。
『あの時』とは、真次くんが部屋まで送ってくれた時、電柱を指さした時のことだ。
「あの時、石崎くんには、何が見えたの?」
私の質問に、真次くんの瞳に迷いの影が揺れる。話そうかどうか迷っている、そんな風に見えた。
私がその瞳を真っ直ぐ見詰めると、少し眉根を寄せた真次君は、意を決したように静かに口を開いた。
「俺には、形として見える訳じゃないんだ。ただ、黒い影のように見える」
「……幽霊なの?」
「たぶん」
そっか。
真次君、霊感小僧だったんだ。
「ありがとう」
「え?」
お礼を言う私を、真次君のキョトンとした瞳が見詰める。
「石崎君、私に『念仏を唱えろ』って教えてくれたでしょう? たぶん、そのお陰で助かったんだと思うから」
そう言うと、真次くんは少し照れたような笑顔を浮かべて鼻の頭をポリポリと掻いた。
クスクス。
不意に聞こえた楽しげな子供の笑い声に、二人が一緒に隣のベットの上に視線を走らせる。でもそこには人の気配は無く、キチンと整えられた空きベットがあるだけだ。
私の心の奥に芽生えた、真次君に対する不可解な感情を見透かしたのか否か。目に見えない異界の住人の笑いのツボを刺激してしまったらしい。
真次君と二人、思わず顔を見合わせた。
「笑われちゃった」
「ああ、今のは俺にも聞こえた」
笑顔で言う私に、真次くんが苦笑で答える。
結局、あの部屋で過去に何があったのか、真相は分からなかった。
ただ、あの302号室の住人には、病人やけが人がかなり多いと言うことだった。
部屋に何かあるのか、それとは別に原因があるのか。
誰も、知るものはいない。
建築関係の仕事をしている父は、意外とそう言う『げんかつぎ』を重用視する人間だったため、 私達一家は、あの後すぐに空いた別の部屋に移った。
私の霊感も一過性のものだったのか、あれ以来、怖い思いをする事はなくなっている。
築四十年。
長い時の流れの中で、様々な思いが染みついた建物。
そこには、何かが住み付いているのかも知れない――。
―おわり―
拙作に、最後までお付き合い下さって、ありがとうございました。
少しでも、ヒンヤリして頂けたなら嬉しいです。