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Berliner Mauer 1944/1969

作者: 野狐

俺の部屋のドアがノックされたのは、十月の半ば、いよいよ冷え込んで秋も本格的に近づいて来た頃だった。

親しい友人も、付き合っている女性もない俺の部屋を訪ねてくるものはあまりいない。郵便配達の類だろうか、と訝しがりながらドアを開ける。

そこにいたのは四十も手前に見える中年の男。だが男の姿を目にした瞬間、俺は全身から血の気が引いていくのが分かった。

丈の長いブーツに黒色のズボン、グレーの詰襟。黒の制帽。胸には鉄十字。

男の服装はおおよそ二十年は前に滅びた集団、かつて“二十世紀最大の悪党”と呼ばれた者達の軍服だった。


Berliner Mauer 1944/1969


男は呆気に取られている俺には少しも気を向けず、背筋を伸ばして堂々と言った。

「クラウディア・ダナーさんのお宅はこちらかね?」

俺は男の言葉にぼんやりと思考を巡らせる。

その名前が出なければ、俺はこの男を頭のいかれたネオナチとして警察に付き出せただろう。しかしこの男は母の名を知っていて、母に会いに来たのだ。

例え精神病院から抜け出してきた狂人の類だとしても、母を訪ねて来たのなら放っておく訳にはいかない。

「クラウディアは俺の母だ。…とにかく入ってくれ。ここじゃ色々と都合が悪い」

「ん、そうか。なら失礼しよう」

男が部屋に入るのとほぼ同時にドアの鍵を閉める。こんな狂人と親し気に話しているのを見られたりすれば、俺までネオナチとして逮捕されかねない。

鍵を閉めたまま溜息を一つ吐き、母の言葉を思い出す。その理不尽にも思える言葉…いや、約束は俺をここに縛り付けている原因でもあった。

「クラウディアは母の名だと言ったな」

断りもせずリビングのソファに座っていた男が玄関から戻ってきた俺に言った。

「ああ、そうだ。クラウディア・ダナーは俺の母親だよ。それで…あんたは何者なんだ?精神病院から抜け出して来たのか?」

俺は男の目の前に座りながら返す。男は俺を見つめてニヤリと笑う。

「私は第三SS装甲師団所属、ブルクハルト・ダナー中佐」

そこでわざとらしく言葉を切り、テーブルへ頬杖をつく。

「──お前の親父だよ」

「何?」

頓狂な声を上げたまま固まる俺を眺めて父親だという男は鼻で笑った。

「信じられんだろうな。…そうだな、H・G・ウェルズの『タイムマシン』という小説があったろう。あれと似たようなものだ」

あの小説とは少し違うがね、と付け足して男は立ち上がり、部屋を歩き回りながら続ける。

「電磁波による空間転移だよ。一定領域に強力な磁場を発生させることで異なる空間・時間軸への転移を……」

「いい加減にしてくれ!これ以上絵空事を抜かすのなら警察を呼ぶぞ。だいたい何なんだあんたは!!ナチの扮装でいきなりやって来て俺の父親だと!?おまけにタイムマシン!?

全く面白い冗談だよ、凄く笑える。……いいか、夢を見るのは勝手だがな、頭のおかしい寸劇に俺を巻き込むのは止めてくれ!!」

怒りに任せて俺は一気にまくし立てた。久々に出した大声だった。

目の前の男に母を侮辱された様な気がして、冷静ではいられなかったのだ。母は父をとても愛していたから、こんな狂人に父親だと名乗らせておくのはどうしても許しておけなかっだ。

しんとした空間に俺の荒い息が響く。

男は俺に背を向けたまま帽子を取ると、振り返って言った。

「冗談に聞こえるかも知れないが、これは現実だ。少し落ち着いて話をしようじゃないか。クラウディアはどこへ?」

「……死んだよ。六年前に病気で死んだ」

そう冷徹に告げると、男は一瞬だけ顔を上げて小さな声で言った。

「……そうか。死んだ、か…」

そのまま大きく息を吐き出して、男は中空を見上げる。そうしてしばらく考え込むと、ゆっくりとソファに腰を掛けた。

少しずつ冷静さを取り戻していた俺も男の前へと腰を下ろし、ふと男の顔を眺めた。

ただ静かに何かを考え込んでいるような表情。

(凄く変わった人で、一緒にいると大変だったけど────)

俺はまた、母の言葉を思い出していた。母が遺してからずっと俺の心に巣食っているあの言葉──。

不意に視線を感じて意識を男へと戻す。

「失礼した。クラウディアがいない以上、私の素性を証明することはできんからな。信じないというのならば私はここを引き払うだけだ」

言って、立ち上がろうとする男。

このまま行かせてしまえばいい。そうすればこれ以上関わらなくて済む。だが──。

「待て」

俺の言葉で、帽子を被り直していた男の動きが止まる。

「証拠を見せてくれ。あんたが俺の親父だと証明できたら、話を聞いてやってもいい」

男は俺を真っ直ぐに見つめると、少し笑って言った。

「ユルゲン・ダナー。お前の名だ。クラウディアは生まれる前からお前の名を決めていた」

本当は証拠なんてどうでも良かった。ただ、この男の話は聞くに値するものだと自分を納得させる要素が欲しかった。

実際、俺の名前なんて少し調べればすぐに分かるだろう。証拠としては不十分極まりない。

だが、俺は少しだけこの男の話を聞いてみたいと思ったのだ。母を名前で呼ぶ、この不可思議な男の話を。

「……分かった。話してみろ」

俺の言葉を聞くと、男は座り直しながら話し出した。

「先程も言ったように、私は時空間転移によってここへ来た。原理は大分違うが、タイムマシンと同じようなものだ」

原理の説明は必要かね、という男の問いに俺は黙って首を振る。俺はあまり頭のいい方ではない。原理を聞いたところでおそらく理解出来ないだろう。

「数ヶ月前……いや、二十五年前か? アメリカも似たような実験をしていたよ。どうやら失敗したらしいがな」

鼻で笑うと、ちらとカレンダーへ目をやる。

「私がいたのは一九四四年……計画通りなら今は一九六九年、十月十四日だろう?」

「ああ。ついでに言うと午後六時過ぎだ」

「ふむ、どうやら成功のようだな。私の任務は今日から十六日までの三日間に渡ってこの時代を調査し、帰還することだ」

そこまで話し終えると、男はじっと俺の顔を眺める。

「ここまでで何か分からない事は?」

別にない、と言いかけて口をつぐむ。未だに男の話を全て信じることは出来ないが、一つだけはっきりさせておきたいことがある。

「あんたは……本当に俺の親父なのか?」

「やはり信じられんか?」

言って、男はからからと笑う。

「……俺は、どうしてもあんたが親父だとは思えないんだ」

「いきなり現れた男に親父だと言われちゃ混乱するのも無理はないさ。私のことは単なる同居人だと思えばいい。それともなんだ、“父さん”とでも呼びたいのか?」

冗談じゃない。意地でも父さんなどと呼んでやるものか。そもそもまだきちんとした証拠が──。

そこまで考えたところで、俺はふとある事に気付く。

「…………あんた、ここへ住む気か?」

「無論。ここは私の家だ。お前が生まれる前からな」

男…いや、ブルクハルトはそう言い放つと、上着を脱ぎ捨ててソファに横たわる。

「今日は疲れたな。本格的な調査は明日にしよう」

 そのまま眠りにつこうとするブルクハルトへ向かって俺は言った。

「…ブルクハルト。ここにいるのはいいだろう。だが、俺は絶対にお前を親父だなんて思わないし、“父さん”とも呼ばない。絶対にだ」

 俺の言葉に、ブルクハルトはニヤリと笑って返す。

「好きにするといいさ」




◆◆◆




「調査に行くぞ」

ヤケ酒をあおったまま寝ていた俺は、やけに甲高いブルクハルトの声で目を覚ました。

きっちりと襟元を正した服装で直立しているその姿を見ると、押し殺していた憂鬱が再び襲い掛かって来る。

「……何で俺を巻き込むんだ。一人で行けよ」

「私はこの時代には不慣れだ。案内がいる」

調査に行く、ということは外出するつもりか。あんな格好で外に出たりすれば扇動罪で警察沙汰だ。下手をすれば俺まで芋ズル式に逮捕されかねない。

「外に出るんなら、服を着替えろ」

寝起きのはっきりしない頭で言う。

「私は士官だぞ。私服で任務などできん」

厄介なことになりそうなので、理由の説明はあまりしたくない。外出すると言っている以上、いずれは分かることだが問題は先送りにしたほうがいい。

少なくともこんな状況で第三帝国の歴史を教えてやれるほどの根性は俺にはなかった。

「いいから早く。そこのクロゼットになんかあるから」

「…なんということだ。鉄十字は私の誇りだというのに」

文句を垂れながらも、ブルクハルトはクロゼットのドアを開ける。

俺は服を探している彼の後ろ姿をぼんやりと眺めていた。アイツは今日、自分の国と軍が辿った残酷な運命を目にすることになるのだろう。

自分の祖国が戦勝国によって二つに分けられているという現実。ナチスが二十世紀最大の悪として扱われているという現実。

ブルクハルト・ダナーという男は、その現実を真正面から受け止められるのか。俺は底意地の悪い楽しみを抱きながらそれを傍観しようとしていた。

「これで文句はあるまい。行くぞ」

なんだかんだで外へ出る頃には日もすっかり昇りきっていた。

涼しくなってきた風を浴びながら石畳の裏通りを歩く。

「ほう、ベルリンは変わっておらんな。私が居た頃とほとんど同じじゃあないか」

「二十五年しか経ってないんだ。無理もない」

ブルクハルトの居た一九四四年がどうだったのかは知らないが、この辺りはほとんど変わっていないらしい。

俺のアパートも戦前から建っていたというし、この週辺は戦争の被害も少なかったのだろう。

「ところで、どこへ行きたいんだ?」

「本屋だよ。歴史書が必要だ。我々の戦争の行方を調べねばならん」

ブルクハルトはそう言って俺の方へ向き直る。

「戦争は終わったんだろう? 結果を知らねばなるまい。案内してくれ」

好奇心と罪悪感がないまぜになったような感情を抱きながら俺は歩き出す。

もしこの男がそこまで楽観的ではないにせよ、第三帝国の輝かしい未来というものを少なからず夢想していたのだとすれば、この現実はとてつもなく残酷なものだと思った。

「着いたぞ」

「ほう、ここか。確か私が居た頃は自転車屋だったんだがな」

本屋の前でも相変わらずブルクハルトは騒いでいた。それはひょっとすると不安を押しつぶそうとする空元気だったのかもしれない。

俺は何の気なしに店の前のスタンドに積まれている新聞を手に取った。一面には先月発足したばかりの連邦議会の様子が記されている。

「そうだ、新聞もいる。デア・アングリフはあるか?」

後ろから覗きこんでいたブルクハルトが言う。

店先のスタンドのどこにもそんな名前の新聞は見当たらない。

「そんな新聞、聞いたことないぞ」

「なら適当に二、三紙買ってくれ。私は本を探してくる」

そう言い残して、ブルクハルトはガラス戸の向こうへ消えていく。

「いよいよ未来を知る時間、か」

俺は新聞スタンドの前で一人呟いた。


俺がディ・ヴェルトと南ドイツ新聞、それにビルトを抱えて店内に入ると、ブルクハルトと店主が何事か話していた。

「第三帝国の歴史書を探しているんだが、何かないかね」

「第三……? ああ、ナチスね。それならコイツだ」

眼鏡の店主は壁際の棚から一冊の本を取り出す。

「『第三帝国の興亡』。これは凄く詳しいよ。賞も取ってる」

「…興亡、か。うん、それを貰おう」

「はいはい。全部で五巻あるけど、いっぺんに買ってくかい?」

「無論」

求めていた世界とは異なる未来。その欠片に触れた一瞬、ブルクハルトはとても悲しそうに目を伏せていた。

だが、この残酷な現実はまだその全体を見せてはいない。彼が手にしている五冊の歴史書は、これよりももっと大きく重い現実を突き付けるだろう。

「ええと、五冊で百二十五マルクだね」

「何だと!? またインフレしたのか!?」

「なにを言ってるんだい?」

…どうやら、重たい現実に直面しているらしい。騒ぎが大きくなる前に収めておいたほうがいいだろう。

「これも一緒に頼む。支払いは俺が」

「ああ、そう。じゃあ百三十マルクね」

二人の会話に割り込み、残り少ない財布から二百マルク紙幣を抜き出して店主へ手渡す。

「はい、七十マルク」

「どうも」

俺は釣り銭と本をひったくり、固まったままのブルクハルトをその場に残して店を後にした。


「いいか、私の居た頃はワーゲンが千二百マルクだったんだぞ。百三十マルクもあれば新品のMPが二丁は買える」

「俺だって驚きだよ。あんた、六十マルクも持ってなかったのか……とりあえずはツケといてやるから、後で返せよ」

顔を真っ赤にして釈明するブルクハルトの隣を歩きながら俺はぼやいた。

どうやらブルクハルトのいた時代と現代では貨幣価値が大幅にずれているらしい。そのおかげで俺は少なくない出費を強いられることになってしまった。

部屋に居座るだけならまだしも、金銭までたかられてはたまらない。

うんざりしながら隣を見やると、ブルクハルトは未だにぶつくさと呟きながらディ・ヴェルトを読みふけっていた。

意外なことに、ドイツが負けたことを知っても思ったほど落胆はしていないようだった。母の死を聞いた時もそうだ。この男にとって、それらは全て些細なことなのかもしれない。

「おい」

記事に目を落としたままブルクハルトが問う。

「ベルリンの壁、というのはどれだ」

あれだよ、と俺が古ぼけた時計屋の後ろに見えるコンクリート壁を指さすと、ブルクハルトは鼻で笑いながら言った。

「フン、田舎土人の露助らしい雑な作りだ。美的センスの欠片もない」

「美しさなんてあるわけないさ。あれはただの壁だ」

ただの壁。ドイツの敗戦と、分割を意味するただの壁。

それは俺にとっては何の意味も持たないが、ブルクハルトにしてみれば敗戦と屈辱の象徴だ。

「…要するに、我々は負けたというわけだ。その結果東はソヴィエトの土人に、西は脳筋のアメ公に併合されたと」

「随分と理解が速いじゃないか。それに、思ったほどショックも受けていないようだな」

驚くほど冷淡に、俺は皮肉を告げていた。

心のどこかでは苛立ちを感じていたのかもしれない。母を失い、国を失い、自らの誇りさえも失ったのに、嗚咽も慟哭もしないこの男に。

ただ冷徹に、恐ろしいほど客観的に事実を受け入れる。それがこのブルクハルトという男の本質なのだ。

「覚悟はしてたさ。毎日毎日、ベルリンにまで爆弾が降ってくるんだ。いくら我々といえどあそこから立て直すのは難しかったろうな」

また。

ただ事実のみを受け入れる。ただ事実のみを語る。

そこに“ブルクハルト・ダナー”という男自身の感情は一切存在しない。「悲しい」とも「残念」とも口にしない。

「……────」

そう気付いた瞬間、俺の隣で饒舌に話し続けるブルクハルトの言葉はとても空虚なものに聞こえた。


「寝室を借りるぞ」

部屋に帰り着いての第一声はそれだった。

「ふざけるな。居候風情が部屋を勝手に使うんじゃない」

「この時代の状況を色々と纏めねばならん。書斎がいる」

ブルクハルトは俺の手から本を奪い取ると、悠々と寝室へ向かう。

恐らくはあの本を読んでも何も感じずに、ただそれを淡々と受け入れるのだろう。何一つの想いも抱かずに。

あの男はきっとああして人を殺してきたのだ。なんの感情も持たずに、ただ一人の軍人として、殺してきたのだ。

俺はやはり、そんな男を父とは認められなかった。

「……お前、本当に親衛隊に向いてるんだな」

俺はぽつりとこぼす。

「何が言いたい?」

「理解できないなら、いいさ」

ブルクハルトは首を傾げながら寝室のドアを後ろ手に閉めた。

俺はあの男が何を考え、何を思ってここまで生きてきたのか知らない。それは向こうも同じことだ。

親父と息子。それは世間にしてみればとても近い関係に見えるだろう。同じ性を持ち、同じ家で暮らす。

だが、俺とあの男との間には決して相容れない“壁”があるのだ。

それはきっと、ベルリンの壁よりも固く、大きいものだろう。乗り超えることなど絶対に出来はしない。

俺は一人で静かに笑った。

それはあの男を愛していた母に対する冷笑であり、ごく僅かでもあの男を父と認め、ここに居座らせている自分への自嘲でもあった。




◆◆◆




どさり、と本をテーブルへ置きながら俺を一瞥する。

「何をやってる?」

「別になにも」

そうか、と返事を返してブルクハルトは俺の隣へ座った。

ごく普通の、日常の動作。もはや自分の信じていた日常は崩壊しているのに、何一つ変わらずに日常を生きる男。

俺はそれがたまらなく気に入らなかった。

なぜ、何とも思わない? なぜ、なんの反応も示さない?

別段、暴れたり泣き叫んだりして欲しい訳ではなかった。ただ、「残念だ」と。「悲しい」と。言って欲しかった。

もしかすると俺は、俺と男の間にある“壁”を壊したがっていたのかもしれない。

心の内でこの男を自分と同じだと思いたがっていたのかもしれない。

ナチスの将校ではなく一人の人間、“ブルクハルト・ダナー”という個人と向き合いたかったのかもしれない。

だが男の強固で一切の隙の無い心には俺が入り込む隙間などなく──。

「おい」

ブルクハルトの呼び声が、俺を思考の渦から引き戻した。

「ベルリンの壁に案内してくれ。帰る前に、やっておきたい事がある」

いつも同じ。要件しか言わない。決して歩み寄ろうとはしない。

そしてそれは、俺も同じだ。

「別に構わないが、下手なことはするなよ。撃ち殺されても文句は言えん」


誰もいない裏通りを進んでいく。

「何をするつもりなんだ? まさか記念撮影って訳じゃないだろう?」

「なあに、ちょっとした戦果報告だ」

歩み寄っているようで近づいていない、おざなりの会話。

お互いの領域には決して足を踏み入れない。相手を知ろうとはしない。

そんな距離を保ちながら、俺達は歩く。

「ほう、近くで見ると存外に高いな」

「間違っても乗り越えようなんて思うんじゃないぞ。いくら西側とはいえ、何でも許される訳じゃないんだ」

そこまで馬鹿じゃないさ、と言いながらブルクハルトは大振りのナイフを取り出す。

「別にこの壁をどうこうしようなんて思っちゃいない。……ただ、一矢報いてやらねば気が済まんのだよ」

言うが早いか、そのナイフを壁へと突き刺す。

「露助の阿呆が、人の国にこんなものを作りおって。私のベルリンをなんだと思っているんだ」

叩きつけるようにナイフを振るい、コンクリートの壁を一心不乱に削り続ける。

「ああ、畜生……全部、なくなってしまった。私の闘争。私の仲間。私の故郷。全部、失ってしまった」

ナイフの刃先が、細かく震えていた。ブルクハルトはその手で必死に壁へ文字を刻んでいく。

ブルクハルト・ダナー──感情を持たぬ冷徹な男──は泣いていた。

全てを失った悲しみに、泣いていた。

何故だ。何故泣いている? なぜ涙を流せている?

俺の中を動揺が駆け巡る。

この男は事実しか受け入れない。事実しか話さない。感情の一切を持たない冷徹な軍人。

その、はずなのに。

男は泣いている。泣きながら、文字を刻み続ける。

────ああ、そうか。

この男は、とても弱くて、脆い人間なのだ。

悲劇的な事実を、ただ受け入れることしかできない哀れな人間だったのだ。

受け入れた事実を乗り越えることも、忘れることもできなくて、ただそれを心の奥に溜め込むことしかできなかった人間なのだ。

感情を抱いていないのではなく、感情を出すことができなかっただけ。国家の滅亡も、自国の敗戦も、母の死も、悲しんでいない筈はなかったのだ。

ただそれを表に出せず、溜め込んでいただけ。

その事実に気付いてしまった俺には、この目の前の軍人がたまらなく不器用で小さな存在のように思えた。

嗚咽を続けるその背中は、一声掛けただけで崩れ落ちてしまいそうなほどに脆く見えて、俺は何も言えずにじっと立ち尽くしていることしかできなかった。

「……すまない。先に、帰らせてくれ。少し一人になりたい」

ブルクハルトが頭を抱えながら言った。

腕に隠れて、表情をうかがい知ることはできなかったが、きっと泣いているのだろう。

俺の差し出した鍵を受け取り、ブルクハルトは通りの奥へと消えていく。

後に残された俺は、一人で壁を眺める。

あの男が壁に何と彫り込んだのか、確かめようと思ったのだ。涙を流しながら怨敵の象徴へと彫り込んだ言葉を。

だが、それを知るのはとても恐ろしくて、悲しいことのような気がして。

結局俺は、その言葉を見ることができなかった。


部屋の中には、軍服姿のブルクハルトが一人で座っていた。日はもう沈みかけていたが、電灯は点けていなかった。

「帰るのか」


「ああ。もうじき日暮れだ。……最後に情けない様子を見せてしまったな」

幾分落ち着いたのか、ブルクハルトはいつもの調子で話していた。

事実しか語らない会話。

でも、その会話にいつもの距離感はもうない。

俺はようやくこの男が一人で背負って、抑え込んでいたものの大きさに気付いたのだ。

そして、この男が冷徹な軍人などではなく、一人のか弱い人間であることにも。

俺の入り込むことのできなかった、強固で隙のない心。もう、そこに壁はないのだ。

だから俺は、この男と話してみたいと思った。知ってみたいと思った。

目の前の人一倍脆く、弱い男が何を思ってここへ来たのかを。

(覚悟はしてたさ。毎日毎日、ベルリンにまで爆弾が降ってくるんだ。いくら我々といえどあそこから立て直すのは難しかったろうな)

男は自分たちの望んだ未来が訪れないことを、薄々感じていたのかもしれない。

何故、そんな未来へ来ようとしたのだろう? 不確実で不安な未来へ行くことをこの男に決めさせたのは、他人から命じられた任務だけではなかったはずだ。

「本当は」

俺の心を見透かしたかのように、ブルクハルトが口を開く。

「……本当は、任務なんてどうでも良かった。…私はただ、クラウディアに訊いてみたかっただけなんだよ。“幸せか?”って……。

もし私が死んでいたとしても、アイツは幸せでいられたのか、笑っていられたのか、それを確かめたかっただけなんだ」

寂しそうにそう言い放つと、自嘲気味に笑う。

「結局、それを知ることはできなかったが」

悲しそうに、笑う。

簡単な話だ。凄く、簡単な話。

この男は、母に会いに来ただけだったのだ。

いつ死ぬか分からない自分。そんな自分に付き従ってくれた伴侶の幸せを、確かめたかっただけなのだ。

それだけの理由で、不安と悲しみしかない未来へやって来たのだ。

でも、訪れた未来に母は居なかった。既に亡くなっていた。

会ったこともない息子とたった二人で、母のいない未来を、全てを失った未来を歩かなければならなかったのだ。

愛した人の居ない未来を、愛した人の忘れ形見と歩く。

それはどれだけ悲しかったのだろう。

でも、その感情は決して表に出せなかった。出すことができなかった。

心の中に押し潰して閉じ込めた感情。それはきっと、この男にとって未来永劫枷となるのだろう。

(ねぇ、ユルゲン)

けれど、俺は知っている。

(私ね……いつかお父さんが帰って来るんじゃないか、ってたまに思うのよ)

この男が一番知りたがっていたことを。

(あなたは会ったことがないから、分からないかも知れないけど)

母が、この男が居ない未来をどう生きて、どう思っていたのかを。

(いつかあの人が帰ってきたら、こう言ってあげて)

幸せだったかどうかを。

「……母さんは、亡くなる前に言ってた。何時かあんたが家に帰ってきたら、こう伝えて欲しいって」

(凄く変わった人で、一緒にいると大変だったけど────)

「幸せだった。少ししか一緒にいられなかったけど、その間は凄く楽しかったから、私だけになっても幸せでいられた……」

ブルクハルトは一瞬だけ目を見開いて、それから笑った。

凄く嬉しそうに涙を流して、泣きながら笑った。

 溢れ出す感情を押し潰さずに、素直に笑っていた。

「……そうか。そうか。ああ……良かったなぁ。本当に、良かった……これで、私はいつでも……」

ブルクハルトは涙を拭って立ち上がり、俺に手を差し伸べる。

「ありがとう…本当にありがとう。もっと話していたいが、もう時間だ」

「……ああ」

俺はぎこちなく手を握り返す。固く握り締められた右手は、不思議と痛くはなかった。

ブルクハルトはゆっくりと玄関ドアへ向かっていく。どうやって帰るのかはわからなかったが、あのドアを出ればもう彼は戻って来ないと俺は直感していた。

「ああ、そうだ。お前は……いや、何でもない」

ドアノブに手を掛けたまま立ち止まって振り返り、何かを言いかけて中断する。でも、俺にはブルクハルトがなにを言いたかったのか分かっていた。

だから、これだけは言っておきたかった。

「……俺は、俺は絶対にお前を親父だなんて思わないし、“父さん”とも呼ばない……でも、それでも…あんたに会えて良かった」

俺の言葉を背中で受け止め、ブルクハルトは静かに言う。

「私もだ。…我が息子」

それを最後に、ドアの閉まる音がして──。


ベルリンの壁を前に、俺は落書きを探していた。片手には、小型のナイフを持って。

「ああ、これだな」

あの男が最後に残した落書き。そこに書かれていた文字を眺め、俺は少し笑う。

全く、馬鹿な男だと思う。どうしようもなく弱くて脆くて不器用な男。

だがそれは俺も同じだ。

心の奥ではそう呼びたがっていたはずなのに、くだらない意地のせいで最後まで言えなかった呼び方。

「……俺も、あんたに負けず劣らずの不器用者だな」

そう言って、俺は壁へ文字を刻んでいく。

男が書き残した文字の下。

「でも、仕方ないよな。俺達はそういう血統なんだろ?……親父」

文字を書き終えた俺は壁を一瞬だけ眺めて、歩き出す。

あんなに高く思えた壁も、改めて見るととても小さく見えた。




人気の無い裏通りに面した高い壁に、小さな落書きが残されている。

そこにはこう刻まれていた。


Sind Sie glücklich?(君は幸せだったかい?)


es ist natürlich!(当たり前だろ!)



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― 新着の感想 ―
[良い点] 短い話ですがしっかりとした構成で尚且つ キャラクターもはっきりしていて良いですね。 読みやすく、読み終わった後に残る感情が心地よい [気になる点] ブルクハルトの本性に息子が気が付くくだ…
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