第三話 空を飛んだ少年は異世界でも空を飛ぶ
太陽の光も届かないような深い森の中を、一人の少年が歩いている。
学生服という、なんとも場にそぐわない服装をした少年は、困り果てた顔をしながらも足を止めることはない。
「……うーん、もう結構歩いたと思うんだけどなぁ」
若干の疲労を見せながらも、少年は止まらない。既に五時間近くノンストップで歩き続けているのだが……どうやら体力は人一倍あるらしい。
「お腹空いたなぁ……何か入ってるかな?」
腰に下げた袋に腕を突っ込み、ガサゴソと漁る。少しして引っ張り出したのは、丸いパンだった。
「うわ、固そうだ。まあ、腹の足しになればいいや。いただきまーす」
ガチン!
「痛いっ!? よ、予想以上に固かった……ロキのやつ、碌な物を入れてないな。流石は悪戯の神様だ」
涙目で悶絶する様はなんとも滑稽である。
少年の名前は楠エージ。
授業中に居眠りしようとした結果、紐無しバンジーをして生涯に幕を閉じた男である。
そんな彼は悪戯の神様であるロキに“気に入られて”異世界に転生したのだが……未だに誰にも会うことなく森を彷徨っていた。
「この地図、本当に合ってるのかな?」
地図を見て口を尖らせるエージ。地図自体には何の問題も無いし、彼は転生直後にいた場所から真っ直ぐ一番近くの街へと向かっているため、進んでいる内に着くはずなのだ。
強いて言うならば、間違っているのは彼の認識だ。
エージは地図の縮尺というものを知らない。義務教育の過程で習ったはずなのだが、彼はすっかり忘れている。
故に、地図上ではそれほど離れて見えない二点が、実際にはとても遠いことも分かっていない。
つまり……彼は、今いる「イメンサス大森林」の広大さも知らないのだ。
「固いし味無いし……これって本当にパンなの?」
ボリボリ……いや、ガリガリという音を立てながら丸パンを食べるエージ。何だかんだ言って食べている辺り、空腹が固さに勝利したらしい。
まだ、知らないことがある。
それは、このイメンサス大森林がノアの住民に恐れられているということ。親が子を叱る際に「イメンサスに連れて行くぞ」という言葉が使われるほどに、人々に恐れられているということ。
それだけ……そこに棲む魔物たちが凶悪であるということを、エージは知らない。
無知の塊である彼は暢気なものだったが、ピクニック気分もそこで終わることになる。
ガササッ!
「! ……何かいる」
耳に届いた茂みを掻き分ける音に反応し、少し身構える。野生の勘かは分からないが、彼の頭の中に一つの単語が浮かんでいた。
「魔物」
それはファンタジーではお決まりの存在。
エージは浮き立つような気分になりながらも、警戒心を強くする。
すると。
ピョン。
一羽のウサギが茂みから現れた。
「……な、なんだ。ただのウサギじゃないか……」
はあ、と溜息を漏らして肩の力を抜いたエージは、改めてウサギを注視した。
「か、かわいい……」
真っ白でモフモフの毛に覆われたウサギの体躯は、ボールのように丸かった。ピョンピョンと跳ねるその姿はゴムボールを連想させる。
エージはウサギに近づいて行く。ウサギの赤い目はジッと彼を見つめていた。
ピョン。
ウサギがその場で垂直に跳んだ。
ピョンピョン。
「うおお……これは、これは撫でたい! モフらずにはいられない!」
ウサギ相手に鼻息を荒くするエージが一歩足を踏み出した時。
ピョンピョンピョン……ドパンッ!
垂直跳びを続けていたウサギが、何かが破裂したような音を残していなくなった。
それは一瞬のこと。
ヒュンッ!!
「………………へ?」
エージはウサギが消えた直後に、顔面すれすれを何か白い物が掠めていったのを認識した。
先ほどまでウサギがいた場所には、小さなクレーターがあった。それは大地が強い力で穿たれた証明。
ミシミシッ……ズゥゥゥン!!
後方で起きた大きな音と振動に、エージはゆっくりと振り向いた。直径一メートルを超えるだろう幹を持つ大木が、真ん中からへし折れて横倒しになっている。
その木の向こうには、木屑にまみれたボールのようなウサギがいた。
「………………あれぇ?」
ドパンッ!!
「ぷぎゃっ!?」
冷や汗を流したエージが首を傾げ、音を置き去りにして迫ったウサギに蹴り飛ばされた。
……そう、これがイメンサス大森林。
知らず知らずの内に彼がやって来ていたのは、「深緑の魔境」と呼ばれるイメンサス大森林の、その深部。
奥に進むにつれて魔物の危険度が上がっていくイメンサス大森林の、限りなくど真ん中に近い場所であった。
『バレットラビィ』
ウサギの魔物。まん丸で愛らしい見た目とは裏腹に、性格は攻撃的で残忍。全身がバネのようになっていて、音速を超えて移動することが可能。イメンサス大森林の深部に生息。
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「うぅ、こわいよぉ……」
一人、薄暗い森の中を彷徨う少女……いや、幼女がいる。
夕焼けのように赤い髪を揺らしながら、幼女は怯えていた。
時折周囲から聞こえてくる物音にビクビクしつつ、幼女は辺りを観察する。
「な、何もいない、よね?」
実際には多くの魔物が幼女の周りをウロウロしているのだが……幼女はそれに気づかないし、また魔物たちも幼女に手を出そうとはしない。
一帯の魔物は皆、幼女を囲むようにしている。
一つの獲物を狙って互いに牽制しあっているのか、はたまた可愛らしい幼女を見守っているのか。
それとも……幼女を格上の存在だと認識し、迂闊に動けないでいるのか。
「助けてアンジェ……」
小さく呟いた声に返ってきたのは。
「ぷべっ! ぐほぉっ! ずべらっしゃああああああ!!?」
「キャーーーーー!?」
奇妙な声を伴って跳ねてくる、何やら黒い塊だった。
「か、灰燼となれ! 『クリムゾンフレア』!」
涙目になった幼女は黒い何かに手を突き出し、そう叫んだ。
黒い塊は幼女をその目に捉えて、すぐに危険なことが待ち受けていると直感し。
ドゴォン!!!
「ふえええぇぇぇ……」
猛烈な爆風に飛ばされて上方へと消えていった。
言葉の通り相当数の大木を灰へと変えた幼女は、呆然とした様子で口を開いた。
「な、なんだったの……?」
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「ふええええええええええええええああああああああああああああ!」
楠エージは現在、生前を合わせて二度目の空中浮遊を楽しんでいた。表情筋を限界まで稼働させて、思う存分満喫しているらしい。
ただ、異世界であるノアにも重力はある。そこら辺は地球と変わらず……まあ、要するにその後の展開も地球の時と変わらないので。
「ぎゃあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!」
紐無しバンジーに興じることになるのだ。
今回も何が起きたのかは殆ど理解できていないエージだったが、前回よりも意識ははっきりとしている。自身が落下しているのも分かっているのである。
そのため、彼は目に入った存在を、ほんの少しだけ認識できていた。
エージは思った。
……なんか、馬鹿でかいゴリラがいる!?
ゴチィンッ!!!!!!!
高速で落下してきたエージはゴリラ(?)と頭をぶつけ合った。頑強そうなゴリラ(仮)は脳天に受けた衝撃で気絶し、エージはギャグ漫画のようなたんこぶを作って転げ回る。
「ぐおお……い、痛い……!」
「お、おい。お前……」
と、そこで悶えるたんこぶに声をかける人物が。
エージが歪んだ顔を上げると、目の前には困惑した様子の金髪の女性がいた。片腕を庇いながら、強気そうな眼を揺らしている。
これが楠エージにとって初めての人との邂逅であった。
ここまで読んで「はっ、つまんね」と思われた方々。是非とも後二話くらい我慢していただけると幸いです。そこら辺から吹っ切れますから(作者が)。
次回の更新は17日の18時です。