第9話 カラオケタイムとドアの缶詰
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「ねえ、兄さん。今日は久々にカラオケに行かない?」
昼間の椿との対談も終わり、そしてだらだらと過ぎて行った本日の授業課程も修了し、辺りも真っ暗に成りつつある冬の放課後。
涼太の妹である明日香は涼太の教室の中に入り、そして帰宅の準備を終えて立ち上がり振り向いた涼太に、そう提案した。
「ん。ああ、明日香、待ってたのか。……カラオケか。明日香にしては珍しい提案だな。そうだな、行ってみようか。本日のメンバーは?」
「……えっと、誰も呼んでないんだけど、私と兄さんの二人だけじゃ流石につまらない、かな?」
「いや、別に二人でもいいんじゃないか? 二人でも、明日香がいれば俺は充分楽しめるし」
涼太がそう言うと、明日香は嬉しそうに笑う。
明日香としてはもう少し人数が居た方が楽しいかなという風にも考えてはいるが、涼太がそう言うのなら特に構わないし、何よりその言葉が素直に嬉しかったのである。
因みにまだ涼太の教室に残っているクラスメイト達は涼太と明日香の関係は知っているが、二人の容姿は全くと言って良いほどに似ていないので、何も知らない人が見たら恋人のようにも見えなくはない。
涼太が二年になった当初は明日香が頻繁に涼太のクラスを訪れていた為に、美少女新入生(明日香のことだが)をいきなりたぶらかした男であると、一時期涼太の名前が知れ渡ったこともある位だ。
パッとみでなくとも兄妹とは言えない程度には、涼太と明日香は似てはいない。
だが、その事実よりも明日香の容姿が少し人目を引くものであるということが一時の間皆の評判になったことに一因していた。
今のように腰ほどに伸びてはいないが、入学当時でも新入生には珍しく背中までに伸ばした髪であり、そして可愛らしい顔立ち。
パッチリとした瞳に、筋の通った小さな鼻。化粧を付けずとも綺麗な薄いピンク色をした唇に、曇りの無い綺麗な肌。
そしては明日香は笑った顔が魅力的な、可愛い女の子である。
明日香のクラスでも、彼女を恋愛対象として見ていた男子も多いことだろう。
涼太と明日香の関係が兄妹であるということが今度は知れ渡ってからは、どうやら明日香はフリーであるということで、明日香に対する告白が数回あったとのことだが、しかしそれはどれも断ったのだとか。
涼太はその理由を明日香に尋ねたことはあるが、毎回「兄さんには内緒」としか返って来なかったために途中から聞くのは止めたという経歴があったりもする。
「お、何々? お前ら、カラオケ行くのか? 俺も行くぜ! なあ明日香ちゃん、俺も加わっていいかな?」
「え? あ、うん。人数は多い方が楽しいと思うから、康平さんも歓迎するよ」
「……なるほど、康平が参加か。だったらもう少し人数を増やしてみるかな」
二人とも康平が参加することには案外とフランクである。
盛り上げ役として大いに役立ってくれる上に、康平と明日香との仲も涼太を通じて悪いものではないので、康平は気を楽にして楽しめるメンバーの内の一人なのだ。
しかし、康平は音痴である。その歌の下手さは聴くものの音感を狂わせてしまいそうになる程の、天下一級品だ。
お調子者でありながら余りの度を外したその変調な歌声は場を笑いの渦に包んでくれるのだが、三人という少人数では笑うにもその歌声を聴く頻度が余りにも増えてしまうので聞くに堪えない。
よって涼太や明日香としては、人数を増やしたいのである。
「まあ確かに人数が少ないのもつまらないしな。じゃあ、藤野さんを誘ってみないか?」
康平がそう言うと、涼太は首を傾げた。
「……は? 椿をか?」
「……? 何言ってんだ涼太。椿って誰だよ。藤野っていったら俺らのクラスの藤野庇護さんに決まってんだろうが。……いや、おい、ちょっと待て。呼び捨てにしてるってことはまさか、その椿ってやつ、お前の彼女なのか? おい涼太、正直に答えろ」
両者の認識の違いによって涼太が突発的に口走ってしまったその名前だが、確かに藤野と言われればその苗字を持つ者はこの涼太の学年には庇護しかいない。
真っ先に出てきた名前が椿だというのは、疑いのかけられようも有るだろう。
そして言われて初めて涼太も気が付いたことだが、知らぬうちに無意識に椿の事を呼び捨てにしていたのである。
涼太としては特に意味は無かったのだが、下の名の呼び捨てというのは親しき者でしかしないのが普通であるかもしれない。
よって康平は涼太に疑いの声をかけたのだが、それ以上にその言葉に反応している人物がいた。
涼太の隣りに控えていた明日香である。
「……ねえ、兄さん。椿って名前が最初に呼び捨てで出てくるなんて、いつからそんなに親しくなったのかな? どういうことなの? ……説明して欲しいんだけど」
明日香は涼太に対して明らかに作られたであろう笑顔を見せ、隣にいる康平など無きに等しき対応で押しのける。
何食わぬ顔でその場を引く康平だが、触らぬ神に祟り無しである。今の状態に明日香の行動に口を挟む勇気は、ない。
明日香の表情はにこやかな笑顔を見せてはいるが、その明日香の少し上がったは唇がぴくぴくと動いている様子を見るに、明らかに少なからずの怒りを含んでいることがわかる。
「いや、説明と言われても呼び捨ては元からというか、気付いてたらそう呼んでたわけで、そう、特に他意は無いんだが……」
「……ふーん。初対面の女子には中々馴染めない兄さんが、知らず知らずの内に呼び捨て、か。よほど馬が合ったみたいだね。良かったね、兄さん。あんなに可愛い女の子と仲良くなれて。椿さん、わ、私と違って胸もあるし、綺麗だものね。そのまま付き合っちゃえばいいと思うよ?」
ふんっだ、と今度は子供の様に拗ねた様子でそっぽを向いて、明日香は頬を膨らませる。
そんな明日香の様子に、涼太は困ったように頬を掻く。
この会話も昨日のもの似ている流れであるが、どうにも涼太が他の女の子と仲良くなると、明日香はそうやって怒り、拗ねる傾向があった。
涼太としては兄離れ出来ない妹が自分の兄を取られるのが嫌なのを暗に主張しているのだろうと解釈をしているのだが、
明日香がこんな様子であったから、毎度のそれを避けるために涼太が同級生の女子との会話を控えめにしてきた、という面もある。
(いや、胸は関係ないだろうに……)
頭を抱えたくなるような明日香の言動にそう涼太が思ったところで、どこからか携帯電話のメールの着信音らしきものが鳴り響いた。
音源を探すに、どうやら涼太の鞄の中で鳴っているようだ。因みにその着信音はアニメ版、Battle Daysのオープニングテーマである。
「おいおい、涼太。マナーモードにして無かったのかよ。さっきの授業で鳴ってたら絶対没収だったろうな。というかお前、着信音バトデイなのかよ!」
その場の流れを多少断ち切ってくれるかのような有り難いタイミングに訪れたメールに、ここぞとばかりに康平は話題転換に乗り出した。
涼太との付き合いも長いために、明日香がこうなった時はそうやって切り替えるのが大事だということを康平は学んできている。
「バトデイ? それって、兄さんがいつも見てるアニメのこと? ふーん……『そんなの』にハマっている内は、兄さんに彼女なんて出来そうにないよね」
いやがらせのようにそんな突き刺さる言葉を涼太に向けた明日香だが、実際本当に安心している節もある。
こんな子供の様な趣味を持っている内は、確かに女子に好かれることも少ないだろうなと明日香は推測し、一人で少し納得する。
さて、ここで問題が起こる。今朝の事態と同じく、明日香のした発言は、とある眼鏡少女の琴線に触れ、再び一悶着有ったのであるが……。
ここではその様子を手短に流して割愛しよう。
帰り支度を終えた様子の一人の少女、藤野庇護が座席から立ち上がり、今朝と同じくまた吠えた。
「そ、『そんなの』って何ですか! バトデイを馬鹿にしないで下さいっ!」
▽
「で、結局このメンバーでカラオケなのか?」
「……なによ。文句があるのかしら?」
「いや、俺が誘ったんだからそれは無い。寧ろ新鮮で良いと思う、のだが」
「……兄さんのバカ」
カラオケのワンボックスの中、一言涼太が呟くと、それに反応したのは椿。そして小さな声でぶつぶつと呟く明日香。
一つの長椅子に、明日香、涼太、椿の順に腰かけているのが今の状態だ。
最終的に今回カラオケに行くことになったのは、涼太、明日香、椿の三人だけであった。
あれだけ行く気が有り気だった康平は、突然の緊急のバイトの呼び出しで来れずじまいになってしまった。
その上に、誘うつもりであった藤野庇護は先ほどの発言の後にハッとした顔つきになり、教室から飛び出て帰ってしまったために、人数が涼太と明日香の二人に。
そこで先ほど入った涼太へのメールの確認をしたところ、それは椿からのメール。
昼食の時間帯に落合った屋上で、涼太と椿は互いの連絡先を得るためにアドレス交換をしていたので、そういった連絡手段が可能になっていた。
内容は『護衛の際の詳細を話すのと、護衛そのものを行うために本日は同伴して帰宅をしましょう』といったもの。
涼太はそれに了解メールを送り、さらに本日のカラオケに誘うことにしたのである。
案外とすんなりと了承してくれたので涼太としては少し驚いたのだが、来てくれるのならそれに越したことはないので、校門前で合流。
明日香と椿と涼太の三人でそれから最寄りのカラオケ店まで歩いて行き到着し、今に至る。
頬を膨らませて兄をののしる言葉を小さく呟き続けて何かと不機嫌な明日香だが、それは椿がこの場に来ていることに対してそういった調子になっているわけでは無い。
カラオケのメンバーは多少はいる方が明日香は好きなので、椿が来てくれたこと自体は嬉しいのだ。
では何に対しての愚痴なのかと言うと、『涼太が自分以外の女子とメアドを交換し、そして呼び出している』という事実に対して、明日香の涼太への独占欲が中々それを許容できないのだった。
「兄さんのバカ」
「ああもう、何度も言うな! 悪かった。俺が悪かった。今回のカラオケ代は俺が全部払うから。それで許してくれ。そんで、楽しもうぜ」
「あら、それなら当然私の分も払ってくれるわよね? 兄妹仲良く歌うっていう場所に私を放り込んで気まずい状況を作り出しておいて、それで私にも払わせる気なのかしら?」
不敵な笑みを浮かべて、言葉で痛い所を思いっきり突く椿。
こちらはこの状況を少し楽しんでいるようにも見えるが、口上での発言は地味にキツイ。
確かに普段のカラオケの雰囲気とはまた異質な空間がそこには作りだされている。
……主に明日香の不機嫌オーラが原因なのだが。普段ならその緩和役になる康平がいるはずのなのだが今回はそれが居ない。
案外と居てくれないと困る存在なのだなと涼太が思うのは、今回のような場面である。
「当然俺が払います。はい」
昨日の美鳩の服代で大分吹き飛んだ財布の中身を内心気にしつつも、この場で答え得る返答はこれしかない。
冷や汗をかかんばかりの勢いの涼太の様子に、椿と明日香は二人とも、くすっと笑った。
それをきっかけにしてか、その場の緊張感が少し緩んだように感じられた。
「ま、私の分のカラオケ代に関しては冗談だとして。来てしまったからには楽しまないといけないわね。私はカラオケに来ることなんて最近は滅多にないから、少しは楽しみでもあったわ。だから、明日香さんも楽しみましょう?」
身体を少し前に乗り出し、涼太を挟んでその横に居る明日香の方へとそう呼びかける椿。
そんな椿の友好的な姿勢に、明日香もハッとし、自らの行動を振り返って反省をした。
「……そうだよね。折角来たんだから、楽しまないとダメだよね。ごめんなさい、藤野さん。私、兄さんのこととなると、周りのことを気にすることが出来なくなっちゃうみたいで……」
「ええ。知ってるわ。昨日もそうだったから。……それに、私の制服の学年章を見てわかると思うけれど、貴女も私も同じ学年同士なのだから、私に『さん』付けなんて要らないわ。それに、下の名前で呼んでもらって構わないから」
「じゃあ、そうさせてもうね?そっか。私と同学年だったんだ。それだったら遠慮する必要なんてないかな?私のことも、呼び捨てで構わないから。よろしくね、椿」
「ええ。よろしく、明日香」
この様子から、事は円満に片付きそうだったので、それを見た涼太はひとまず、一安心したのであった。
場も多少は和んだところで、さて一曲目でも入れようかというところで、最初に動き出したのは椿だった。
「それでは、私が一曲目を入れてみても良いかしら?」
「ああ、寧ろどんどん入れていってくれ。なんたって今日は三人しか居ないしな」
「じゃあ、遠慮なく歌わせてらうわね」
そう言って薄く笑みを浮かべる椿。いつものうすら笑みの表情ともまた少し違って、涼太にはその椿の表情は楽しそうに見えた。
「それじゃあ私は、椿の次に曲を入れよっと」
明日香からは先程の拗ねたような様子は溶けたように消えていて、寧ろ楽しそうにそう言った。
このカラオケボックスには曲を入れるためのタッチパネル式の電子リモコンが、2つある。椿が今持つ1つと、明日香が今し方に取った1つ。
一部屋に2つというスタイルをこのカラオケ屋は取っているようで、人数が三人だけであってもリモコンの数は変動しないようだ。
そのため、曲の入りは若干円滑になる。三人なら尚更だ。
「……そうね。一曲目はこれでいってみようかしら」
そう呟き、転送ボタンをピッと電子リモコン備え付けのペンで押す椿。
椿が一曲目に、一体どんな曲を入れたのかと気になる涼太と明日香の二人は、左隅の奥に置かれた画面の方へと視線を向けた。
一瞬右上に表示される曲のタイトルの一部分が出た後、曲のタイトルとアーティストの名前が表示される画面へと切り替わる。
そこに表示された曲名は――。
「……するぅざふぁいやー、あんどふれいむす? 曲名が英語で書かれてるし、アーティスト名も英語だから洋楽なのかな? 兄さん、この曲知ってる?」
そう明日香が自分の直ぐ左隣にいる涼太に尋ねるたが、涼太は明日香の方へと視線は向けていない。
その時涼太は心底驚いたかのような表情で、マイクを持って立ち上がった椿の方へと注目を向けていた。
「……ドラフォ、だと!?」
そんな涼太の驚愕の表情を認めると、椿は愉快そうに笑みを浮かべ、そしてこの曲のドラムやギターの激しい前奏が流れている間に椿はそれに答えた。
「ええ、そうよ。意外かしら? 私は案外と、こういったハードな曲が好きなのよ。……このバンドの、たまにネタにされている、ネットに上がっている一部のライブ映像で、外れてしまうことのあるチューニング音も含めて、だけれど」
椿のその言葉に、涼太も思わず笑う。確かにそのアーティストの過去のライブ映像には、CD音源で聴いた曲とは程遠い音を醸し出していたものが少ないからず存在している。
しかし本番中にどんな失敗があっても楽しそうに笑い、そしてそんな状況のライブでさえも、全力で切り抜けていく姿があるが故に、そこで寧ろ惚れ込んでいくファンも稀にいるらしい。
ライブ命であるバンドからすれば、会場での盛り上がりこそが全てということもある。映像だけでは計れない、会場での熱を含めて人気だと言えるのだろう。
とにかく、この曲自体とその世界的アーティストが作り出している曲がとても素晴らしい曲であることに変わりはない。
(なんか、兄さんもこのアーティストを知ってるみたいだけど、……ドラフォ? 何の略なんだろう? ……ドラ……フォ、はっ! も、もしかして、ドラ〇・マ〇フォイ!? ……そんなわけないか)
涼太と椿が共通の価値観で分かり合う中、詳細を知らない明日香は一人とんでもない方向に思考を走らせてしまっていた。
曲の歌詞が流れ始め、激しいロックな音楽と共に奏でられた椿の歌声は、案外と上手くも下手でもなく至って平坦であった。
けれども楽しんで歌っているのは椿の様子でわかり、その場の雰囲気を上げていくのに一役買ったと言える。
実際、余りに上手すぎる人に歌われると、その次の人が萎縮してしまうということも良くある話であるので、別段巧みに歌う技術が無くとも普通にオーライとも言える。
曲の演奏が終わり、「ふう」、と一息ついて椿はマイクを下ろした。
「……そう言えば採点を入れるのを忘れてたわね。まあ、正直良い点数など取れた試しが無いのだけれど」
「あはは……。私もそんなに良い点数が取れたことは無いかな。でもまあ、カラオケの醍醐味ということで採点は入れていこうかな」
「そうね。それで段々と自分の歌が上手くなっていくのを見て取れるというのは、面白いものね。そうしましょう」
昨日の今日での出会いではあるが、会話も普通の流れになってきているようなので、涼太と同じく、明日香も椿とは大分打ち解けたようである。
その様子を端から認めて、頷くような素振りを見せながらその会話に入る込む涼太。
「……だがしかし採点というのは本当に恐ろしい。これ、機種はBAMだろ? 精密採点によって打ちひしがれるあの恐怖! 場合によっては場が凍るぜ……。まあ、康平が歌うと点数がぶっ飛び過ぎて逆に面白いってのもあるけどな」
「確かに。兄さんそれでいつも大爆笑だものね。……あ、さっき私が入れた曲が入ったみたい。じゃあ二番手は桜井涼太が妹、桜井明日香が行かせて頂きます!」
そう言ってマイクを持って立ち上がる明日香。微妙にテンションが上がっているようで、言動が普段よりハキハキとしている。
さて何の曲を入れたのかと涼太と椿は画面の方へと視線を向ける。
そこにテロップで流れた曲のタイトルは『Shining Blaze』。
涼太は特に反応を見せなかったが、一方の椿はそこで大きく反応を見せた。ガタッという擬音語が出そうな勢いで立ち上がると、椿もう一本のマイクを手にとった。
「この曲、私も歌っても良いかしら?」
「うん、勿論! ……でもこの曲を知っているってことはまさか椿もあの名作を読んでたりするの?」
「ええ、そうね。その小説は読んだわ。これはそれのテーマ曲みたいな感じなのよね。直接的な繋がりが有るかは知れないけれど、これだけは答えられるわ。私はミオ派よ」
「ホント!? 知ってる人に会ったのは初めてだから、凄く嬉しいかも! 因みに私もミオ派なの!」
そう言って共通するものを互いに知った二人は握手を交わした。この瞬間、涼太には伝わらない何かが明日香と椿の二人に通じたらしい。
因みにミオというのはその小説の準ヒロインに当たる役回りのキャラであるらしいのだが。
(……? ああ、成る程。なんか知らないけど、二人が読んでた小説のテーマ曲なのか。普段から本を読まない俺にはわからんけど、何にせよ二人の仲が良くなってるみたいだからまあ良っか。……場合によっては明日香の代金分を払わずに済むかも知れないしな!)
そんな折りに涼太は涼太で、色々と駄目な傾向の思考を巡らせていたのであるが、それは涼太のみぞ知る、である。
流れる音楽に合わせて歌い出す二人の歌は、巧な技術はないこそすれ、その気持ちの入れ込みようが伝わってくるようなものであった。
二人とも余程その小説に思い入れがあるようだ。歌い終わった後の採点は、75点。
お世辞にも良いとは言えない数字ではあるが、椿も明日香も満足そうな表情であったから、どうやら歌の上手さは二の次のようである。
因みに明日香もそれ程歌は上手くない。カラオケは楽しむものだと思っているため、点数が低くても特に気にはしないのだが、それでも毎回採点機能を入れるのは止めない。
そんなこんなで楽しい時間はあっという間に過ぎていき、時計の針は入室してから二時間半を過ぎてしまっていた。
「ありゃ、もうこんなに時間過ぎてたのか……。後歌えるのは30分だけだな」
ふいに部屋の片隅に設置されている時計を見て、涼太はそう呟いた。
「あれ? ホントだ。なんか今日は時間が過ぎるの凄く速いね。やっぱり楽しいと時間は直ぐに過ぎていくものなのかな?」
「そうかもしれないわね。少なくとも、私としてはここ最近で今一番楽しんでるかもしれないわ」
何気なく明日香の言葉にそう相槌を打つ椿。言葉の端から見える刺等、もはや微塵も感じられない。
普段こういった照れくさく感じるような発言はしない椿だが、彼女にしては珍しく、素直に感情が表に出ていた。
カラオケという、音楽に想いという言霊を乗せて歌うこの空間が、椿を普段抑えている恥ずかしさというものを少し融かしているのかもしれない。
「椿もそう思ってくれてるなら、今日ここに呼んだのは正解だったってことかな。いや、良かった良かった。ところですまない。今すぐお手洗いに行きたいのだが」
涼太としては正直なところこれが急務であった。カラオケというの歌っている以上、喉に潤いを持たせるものが無ければ喉がやられ、せき込むような事態になってしまうのも稀ではない。
前々回のカラオケの折に、涼太はドリンク無しで三時間歌うという挑戦をしてみたのだが、やはり喉が腫れてしまいそうな位に痛くなったので途中で断念。
そんな状態になるのを避けるために以降はドリンクバーを取ることにしたのだが、当然喉に潤いを持たせ続ける為には尿意というものも出てくるわけで。
取り敢えず暫く我慢していたわけだが、今になって相当に来始めたというわけであった。
「次の曲は……私の曲だね。うん、わかった。兄さん行ってきていいよ」
「了解」
さながら急ぎ足で部屋を出ていく涼太。案外とトイレの場所はその部屋から遠いということもあり、少し気が焦る。
さて少し長めの廊下を通り抜けて、いざお手洗いの前に着いたと思えば、ドアノブを回そうとして、だがしかし、それが回らない。
(え……? ちょっと待て、ここのお手洗いって、ドアノブに鍵がかかっているタイプじゃなかっただろ?)
ここのカラオケのお手洗いはドアを開けると、四、五個当たりの便器と個室があるスタイルのものなのだが、最初の入る扉自体に鍵がかかっているというのおかしなものだ。
第一、何度かこのカラオケ店に来た事のある涼太の記憶としては、このドアは施錠することは機能的に無理だったはずである。
(ということは……)
誰かが故意に他者の侵入を防いでいる、ということになるのだろうか。
清掃員の類であるならわざわざこういった様式の場所で人が入れないようにすることはあり得ない。あるとするなら、それとは全く関係のない人であるか。
何にせよ、とにかく入れないと涼太としてはとても困ったものである。誰かがドアの反対側でドアノブを抑えているのだとしたら、どうにかして開けてもらわなければならない。
もう一度ドアノブを回して無理だったら、他の階層のトイレにでも行こう。そう思いながら苦虫を磨り潰したような表情でドアノブを思い切り回す涼太。
しかし今度は素直に回り、扉は簡単に開いた。
(……あれ。 どうなってるんだ、これ?)
とは、不思議に思いつつも、好都合であるので直ぐに便器の方へと涼太は向かう。
事を済ませつつ、周りを少し見回してみたが、そこには涼太意外に誰もいない。
その後も個室の方を確認してみたが、中には誰もいなかった。はてさて、一体先ほどの現象は何だったのかと少し寒気を覚えた涼太。
だが、この世に不思議なことはあるものだと幼き頃から体感し、つい最近もアルカナという奇異な存在に出逢ったばかりであるので、それと比べれば気にするほどの事でもないかもしれない。
そう考えた涼太はそれ以上の詮索はせずに、手を洗い備え付きのペーパーで拭いた後にドアノブに手を触れ、回そうとした。
が、ドアノブは回らず、開かない。
(ちょっ、またか! どうなってんだこのドアノブ。単純に潰れてるのか? 後で従業員に知らせるべきだな。……というか、どうしよう。出れないじゃないか)
その後、何回も回してみるが、全くドアノブはびくともしない。
扉に勢いよく突っ込んで脱出するという手もあるが、流石にそれは大げさな器物損壊に成り得るので、できればことは穏便にすませたい。
仕方なく涼太は声を出して従業員を呼ぶことにした。が、何度声を出しても人が通る気配すらない。
ここは三階であるし、窓から出るわけにもいかない。仕方なし、気分よく歌っているだろう様子の所で悪いのだが、携帯で明日香に連絡を取り。
そして従業員を呼び出して貰おうと考えた涼太は自信のポケットに手を伸ばして携帯電話を取り出してメールを打ち込もうとするが、そこである事実に気付く。
(……おいおい、まさかの、圏外かよ……)
軽く絶望であった。
だがこのままこのお手洗いの中に居続けるわけにもいかない。
暫く時間が経ちさえすれば人が訪れるかもしないし、何より声を出して呼び続けていれば、流石に誰か気付くはずだろう。
何もしないでいるよりはその方が余程効率的だろう。
そう考えた涼太は、それを実行するに至った。しかしそれでも――体感的な測量ではあるが――数分、数十分という時が過ぎても人が訪れる気配がない。
腕時計で時刻を確認しようにも、今日は身に着けてきてはいない。携帯電話の時刻を信用するにも、時刻表示は既に退室予定だった時間をオーバーしていた。
(いや、これはおかしい。確実にこれはおかしい。大体、今日は人も店員も結構居たはずなのに気付かないのは変だし、なにより明日香が俺が戻って来ないのを心配して、探しに来ないのが一番おかしい……)
明日香が来るというのが前提の違和感である。
涼太としては、この事態の異常さの何よりも、これだけ時間が過ぎても明日香がここを調べにこないという事実が堪らなく不安であった。
段々と心も表情もかなりの不安の色に包まれつつあった涼太は、声では無く、ドアをぶっ叩いて音を出す作戦に変えた。
それで無理ならもうこのドアはぶち壊してやろうという思考にまで至っていた。
全力では無いものの、握り拳を作った右手で思い切り扉を叩いた。だが、そこで尋常で無い違和感とその異常さに改めて気づくことになる。
(嘘、だろ……? 音が、鳴らない!)
さらには扉にぶつけた己の拳にもなんの衝撃も感じ得なかった。物理法則を無視した異常な空間。
もはやここは単なる人に打破できる空間では無いことが確定した。こうなればそういう事態に対処出来るであろう最後の砦を呼ぶしかない。
男子トイレに女子を連れ込んでいる――などという状況を見られて社会的な意味で体面を潰すかもしれないというくだらない心配をする必要もなくなったわけだ。
そうなれば、やることは一つしかない。
「――よし。……来い、美鳩!」
左手にタロットカードを持ち、前に掲げて美鳩を呼ぶ。
涼太にしかわからない感覚だが、一瞬カードの中に美鳩が戻ったのが感じ取れた。
それと共に、美鳩は涼太の前にその姿を現す。
今の美鳩の服装は、昨日のデパートで買ったらしき美鳩専用の服。藍色の毛網のパーカーに、ロングのスカート。
靴を履き、マフラーも身に着けていることから、どうやら外出中だったようだ。
「――さて。どうなされたのですか? 涼太様」
凛とした振る舞い。
緩やかに音を奏でる、美しい鈴の音のような落ち着いた声。
美鳩のその姿を認めたことで。
不安に駆られ始めていた涼太の動揺は、ようやく少しの収まりを見せるのであった。