第7話 日常の朝とバトデイの庇護
昨夜の騒動から夜は明け、朝。
涼太はいつもの自室ではなく、居間に寝ていた。
昨夜の戦いの影響で涼太の部屋の窓は割れ、寒風にさらされることとなったので現在廊下の途中の居間に布団を敷いている。
そこには布団の中でうずくまり頑にも抵抗して起きようとはすまいとする涼太と、それを起こそうとする正座状態の美鳩の姿があった。
「もう朝です。起きて下さい、涼太様」
「……頼む。後、五分だけ……」
寝ぼけ眼で、美鳩の方を、向き一言。
そして再び目をつむり、眠りの世界へ入ろうとする涼太。そんな様子に溜息をつきつつも、美鳩は起こそうとする姿勢は変えない。
「もう八時は回っています。今起きないと朝食の時間を考慮すれば、走っても間に合いませんよ? いつもの例の如く、明日香様は既に家を出て学校に向かっていますし」
涼太の朝の寝起きの悪さを重々承知している明日香は、涼太を無理に起こそうとはしない。
一度だけ涼太を起こしにきて、起きればそのまま二人で登校し、起きなければ目覚ましに後を任すのが毎度のことである。
朝食だけは明日香が作り、机の上に置いていくので涼太はそれを一人で食べるのが週に2、3日が常々。
「…………」
美鳩のその言葉にも涼太は反応を示さない。もはや眠りの世界に旅立つ寸前のようである。
見かねた美鳩は、アクションを起こすことにした。
(まあ、起きない涼太様が悪いのですし、これも不可抗力と言えましょう)
正座の状態でいた美鳩はすり足で涼太の傍に行き、そして涼太の上に跨った。
いわゆる馬乗り状態になっているわけだが、眠気が優先してしまっている涼太はそんな美鳩の行動にもどこふく風。
そんな反応であるので美鳩は行動を続ける。
涼太の顔へと自分の顔を近づけ、そして両手を涼太の頬に添えた。
頬に何かの感触がある、と違和感を覚えた涼太は、うつろながらも半目で瞼をひらく。
目の前、まさに直前にあるのは、美鳩の整った綺麗な顔。そして自分の頬に添えられているのは美鳩の両手であると気づいた。
(……え? ちょっと、待ってくれ。これ、どういう状況?)
一瞬にして自分の顔が熱くなるのを感じた涼太。普通の高校生男子としては朝から刺激が強すぎるであろうその光景に、涼太の目は一発で覚めたのである。
そんな涼太の様子を知ってか知らずか、微笑を浮かべて涼太を見つめる美鳩。
ああ、やっぱり美鳩は笑うと本当に可愛いなと心の内に涼太は思うも、次の瞬間そんな思考も途切れる。
「何度言っても、起きない涼太様が悪いのですよ? ……失礼します」
一体何をするつもりなのかと思う間もなく、両頬に感じたのは衝撃。
バチン、といい音を立てて涼太の頬は揺れた。美鳩が両手で涼太の頬を叩いたのであった。
「いってぇぇー!! 何すんだよ、美鳩!」
流石に涼太もそれには怒る。もはや目は覚めていた、というのは涼太の主観ではあるが、実際はそうであったので、起きているのにわざわざ起こされた、という気分であった。
「いえ、起こすにはこうするのが一番だと思いまして。目はしっかりと覚めたでしょう?」
「確かに目は覚めたけど、さっき美鳩が馬乗り状態になって顔を近づけた時点で目は覚めてたんだが」
「……なるほど。思春期ですからね。それだけで起こすことも可能なのですね。では、その後にはキスが来る、とでも予想していたのですか?」
それを聞いた美鳩は、何か勝手に納得したように頷き、いつもの無表情ながらも意地悪な質問を涼太へと投げかけた。
ちなみに先ほどの微笑は涼太が叫んだ瞬間から消えていた。美鳩にとっては無表情でいるのが標準らしい。
涼太としては、確かにそれは一瞬考えてしまったことなのだが、素直にそう返すのも何か負けるような気がして躊躇い、誤魔化す。
「してないよ。とにかく、いいから上からどいてくれ。本当に学校に間に合わなくなる」
顔を真っ赤にして答える涼太のその言葉に説得力はないのだが、美鳩は素直に涼太の上から退いた。
涼太は布団から出て立ち上がり、それに伴い美鳩も立ち上がる。
台所に向かおうと涼太が障子に手をかけようとしたその時。
ヒリヒリと痛むその右頬に何故か再び感触が走った。
それは柔らかな感触。まだ、一度も感じたことのないような甘い感触が頬に伝わる。
これは一体なんなのだろうかと横目を走らせると、そこにあったのは美鳩の顔。
(……え?)
どうやら、美鳩が涼太の頬に『キス』をしていたらしい、と涼太が気づいたのは、美鳩が顔を離してから三秒後。
いきなりの出来事であったために涼太の頭は混乱し始めた。
「……美鳩? え、えーっと、なん、どうして、そんなことを?いや、俺としてはかなり嬉しいのだけれどというかそうじゃなくて、」
「あ、あの……。わかりません。私にも……わかりません。どうして、なのでしょう。何故か、しなくてはならないというような概念にいきなり襲われて……本当に申し訳ありません、涼太様」
そこにあったのは自らの唇に手を当て、明らかに動揺をしている美鳩の姿。出会ってから数日だが、初めて慌てたような表情を見せる美鳩である。
頭を深々と下げ、謝罪の意を示す美鳩。先程のビンタでは謝らないのにここでは謝るということは、意識外に行動を起こしてしまったということだろうか。
自分でも何故そういうことをしてしまったのか、わかっていないらしい。
▽
――先程の場面から多少の時間が過ぎ、現在。涼太は今学校の中にいる。
美鳩が起こしてくれたおかげで、明日香が涼太をおいて先に行く時よりもまだマシな時間に登校を終えることが出来ていた。
学校であるために当然ながら姿を現すようなことは美鳩はしないわけで。
涼太が呼び出そうと思えばいつでも呼べるので美鳩は現在桜井家に残って掃除を請け負っているわけである。
「うーん。なんなんだろうな」
一人教室の左隅の席に座り、なんとなく不思議そうに、しかし名残惜しそうに涼太は自分の右頬に触れた。
今回美鳩のとった行動の理由、原因を少し考えてみたくなったのである。
(俺がそうして欲しいと潜在的に思ったことを美鳩が行動に移した、ってことなのかな)
それが一番可能性の高いことだと考えられた。
『アルカナは所持者の所有物で有り、心臓でもある』
最初現れた時に、美鳩はそう言っていた。
アルカナが所持者の心臓であるのなら、美鳩が死ぬときは、涼太が死ぬのと同じという事になるという意味が含まれているのだろう。
一蓮托生。良くも悪くも、涼太は美鳩と運命を共にしなければならない。
ならば、所持者の意思をくみ取り、またそれを行動に移してしまうのもアルカナの隠れた役割ではないのだろうか、と。
基本難しいことは考えない性質の涼太だが、言ってみるなら、頬であるとはいえ、なにせ人生初のキスというものであるからして、どうにも悶々としてしまうのは致し方のないことでもあった。
そんなことを考えていた折である。
「――よっ! 涼太! 今日はまだ早いほうじゃないか。つか、ホントに久々だな。確か九日ぶり、だったかな。今日は明日香ちゃんと一緒に来たのか?」
思考の中窓の方を向いていたのでその声は涼太にとっては若干不意打ち。
しかし聞き慣れた声であるので、冷静に返しながら涼太は振り返る。
「よう、康平。いや、今日は一人で登校してきたんだけどな」
「ふーん、そんな日もあるのか。明日香ちゃんと一緒に来ない日は、『すいません! 遅刻ですか!?』みたいな勢いなのにな、いつも。
まあ、そんなことはいい。明日香ちゃん、俺にくれよ」
そう言って愉快そうに笑う彼。フルネーム、神田康平。まあ確かに遅刻に関しては実際そうであるので、涼太は否定しない。
涼太と康平との仲は、高校の入学の時からである。入学式の際、偶然隣に座った者同士息が合った、という感じだろうか。
二年続けて同じクラスであったために、二人の仲は相当良い。ふざけた行動もお互い取り合うのが普通である。
「ふっ。お前が明日香を貰うなんて一億年と二千年位はやいわ! というか明日香は誰にも渡さん」
「はっ! そんなこと言ってる間にも明日香ちゃんは誰かと付き合ってるだろうさ。兄妹も家族も、いつかは離れなきゃならない時が来る存在なんだぜ?」
「まあな。そんなことは分かってる。だが取り敢えず、お前には渡さん」
「渡すとか貰うとか云々の前に、俺が奪って見せるぜ」
「いや、多分無理だろ、お前の容姿じゃ」
「涼太に言われたくは……というか、俺とお前、どっこいどっこいだろ?」
「そんなことは無い。康平の三割くらいは俺の方がマシだ!」
「――っ! ざっけんなクソ涼太! こうなったら、アレで白黒つけてやろうじゃねえか。男を決めんのは、見た目じゃないってことを教えてやるよ」
そう叫んで康平は自分の鞄に手を伸ばす。
それに呼応するかのように涼太も自らの鞄に手をかけた。そして開けた鞄の中から取り出した物。
それは一つの手の平サイズの箱であった。
そこからお互いに束になったモノを取り出す。今流行りのカードゲーム、【Battle Days】。略して『バトデイ』である。
「いいだろう。そうさ、男を決めんのはバトルだ! 頭のよさでも顔の良さでもねぇ。熱い戦いに勝ち残る強さ! これだ! お前に俺の力を見せてやるよ、康平」
お互いかなりの大音量でこんな会話をしているわけだが、二人のこういった光景を見慣れているクラスメイト達はもはや何も言わない。
ただしクラス内にもいるバトデイのファンがその勝負見たさに3、4人寄ってくる時もある。
が、本日は連日と同じく出欠入り混じりのコールド(風邪)祭である為に、今朝寄ってきた者はいなかった。
ただ、実は少し遠巻きに眺めている人がいる状態ではあるのだが。
お互いカードの束、所謂デッキからカード数枚引き、そして宣言した。
「「バトル!」」
と同時に、バシン!と乾いた音が教室内に響く。
いつの間にやら教室に入ってきていた担任教師が二人の頭をファイルで叩いた音であった。
「いてっ!」と苦痛の声を挙げる二人だが、こんな状況ももはや二人は慣れていると言っても良い。
はあ、と溜息を吐く若き担任教諭。
彼は度の入っていない眼鏡をたまに付けることから由来して、『ダテちゃん』の愛称で生徒から呼ばれている。
慕われていることもさもありなん、面倒見の良い先生である。
「なーにが『バトル!』だ。お前ら何回言ったら反省するんだ。ガキじゃあるまいし、この年になってまで、そんなのにハマるのは止せ。カードゲームとかよ、もうお前ら、ほぼ受験生だろうに……」
そんな風に呆れた素振りを見せる担任。
確かに二人は高校二年で、現在二月であるからして、もう受験の準備に取り掛かっても良いころである。
そんな時期に差し掛かっているにも関わらず学校に来てカードゲームをやるという行動を、教師としては咎めないわけにもいかないだろう。
勝負が始まる途中で止められたが故に言い返したいものはあるが、正論であるので反論は出来そうにもない。
その為涼太と康平はおとなしく引き下がろうとしたのだが、
予想外の方向から、事件は起きた。
「そ、『そんなの』って、なんですか! ば、バトデイを馬鹿にしないで下さい!」
なんと、先ほどから彼らの様子を遠巻きに見ていた一人の女子が席から立ち上がり、それに対して声をあげたのである。
なんとか絞り出したような声だが、それは皆に、はっきりと聞こえた。
彼女の普段大人しい様子というのを鑑みると、それは彼女にとっては強い意志表示であることが分かる。
本日登校してきた生徒はクラスの総人数の半分程度であるが、皆が皆、彼女のその様子には目を疑い、振り返っていた。
勿論、当の本人である涼太と康平も驚きの表情で彼女の方を見ていた。
「……えっと、……あー、藤野? うん、まあ、俺が悪かった。いや、決してそのカードゲーム自体を馬鹿にしたわけではなくてな?勉強に関係の無いことはするなと言いたかった訳で…………」
この状況で何気に一番テンパっていたのは、担任たるダテちゃんであった。
そんな状況下に『キーンコーンカーンコーン』と間抜けにも鳴り響く毎度の鐘。
この時ばかりは誰もがこの鐘の音に少しばかりの感謝を覚えたに違いない。
緊張のあまりか、顔を真っ赤にした状態で自分の席にそのまま座る彼女。
座ってからは『ああ! やってしまったぁ』とでも言いたそうな感じで机に顔を伏せていたが、耳まで真っ赤になっていたので相当な恥ずかしさを覚えたのだろうな、
と周りの者達は心の内に思ってしまうのであった。
朝のホームルームが終わる。今回の報告は、昨日ようやく解除となった学級閉鎖のことについての内容であった。
現在半数ほどの生徒がこのクラスは登校しているが、半数を切ればまた学級閉鎖になる可能性があるので注意して置くようにとのこと。
担任のダテちゃんは退出の際、先ほどの少女、藤野の方をチラリと見てから何となくすまなそうな表情で教室を出て行った。
全く担任は悪くはないのだが、今回のことには少し罪悪感があったようで。
担任が退出すると、涼太と康平は直ぐ様先ほどの女子の席へと向かう。
あれ程の発言をされて気にならない方がおかしい。
まず彼女に口火を切ったのは康平だった。
「えーっと、藤野庇護さん? さっきの発言、もしかして、庇護さんもバトデイやってんの?」
「え、あ、その……はい。……実は、やってます」
こちらに顔をむけず、俯きながら答える庇護。
藤野庇護は元々大人しい性格で、男子と会話する様子は殆ど見られない。
しかし、眼鏡越しでも分かるパッチリとした目をしており、肩ほどにまで伸びるスラリとしたストレートな髪。胸も中々。
更に天然的な行動がチラホラなことから、実は男子からは陰で相当な人気があったりする。
コアな情報源によると、本当は天然茶髪であるのだが風紀を気にして黒色に染めてるのだとか。
しかし、いつも彼女と一緒にいる友人の、瀬野荘香という少女が、庇護を狙う男子をわざとらしくも阻むという蛮行を行うが故に、男子が近寄り難いのが現状であった。
しかし本日。その彼女の友人は新型ウイルスにかかった為かこの場にいない。
そのためノーガードで康平が話しかけることが可能なのである。
「へー意外だな。いつもは誰とバトルしてるの?」
「えっと、その、いつもは、妹と……。私の友達でBattle Daysやってる人、いないから……」
そしてその発言をした後に、ハッとした表情になって庇護は口を塞いだ。
なんともわざとらしい行動だが、恐らく彼女は天然でやっているのだろうから恐ろしい。
(どうしよう……! 椿との約束、破っちゃった……。私に妹がいるってこと、言っちゃいけないって、椿に言われてたのに……!)
どうにも困った表情になっているので、康平はどうしたものかと涼太の方を振り向く。
だが涼太はクラスの女子との会話が実は不得意であり、なんと切り返せば良いのか分からない。
この場で無難そうな言葉を探そうと考え、そしてこれを聞こう、と思った。
「その、庇護さんって、妹さんがいたんだな。なんて名前なの?」
が、涼太のその発言はどうやら爆弾だったようで、
「え!? う、ううん。いないよ?『椿』って名前の妹なんて!…………あっ! ……そ、その……そうだ、えっと、妄想の中の妹! というか。あ、あはは……」
そう言った瞬間、爆発したかのように庇護の顔は赤くなった。
両手で顔を覆い、恥ずかしさを紛らわそうとするが、やはりこれもまた恥ずかしい。
(な、何言ってるの、私!? ……言い訳にしたって、これじゃあヒド過ぎるよ……。結局名前も言っちゃったし……。もう、やだ、どうしよう! ……でも、椿に嫌われる位だったら、痛い子だって見られる方が、マシ、だよね……?)
庇護が自らの発言に後悔し悶々としている中。
涼太は先ほどの言葉の中につい最近聞いたばかりの名前が混じっていることに気付いた。
椿。それが庇護の妹の名だと言う。庇護の苗字は藤野。繋ぎ合わせてみれば、『藤野椿』。
その少女に出逢ったのはつい昨日の事であり、名を聞いたのも昨夜のことである。
さて言われてみれば顔立ちがどことなく似ていないこともない。庇護の髪の色は黒だが、旋毛の辺りはすこし茶味がかかっている。
どうやら庇護が髪を黒に染めている説は本当らしく、そして昨日会った椿の髪の色も茶色であった。
彼女らが姉妹であることは間違いなそうである。
どうにもこれ以上の詮索をするのもよろしくなさそうな雰囲気を庇護がだしているために、涼太はこの場でそのことについての追及は止めることにした。
その後は、今度バトデイを三人でやってみようというような話の流れを康平が作り、そして一息の休憩と準備を行う時間を終えるチャイムが鳴り響いた。
授業の半分くらいは聞き流しつつ、時は昼になった。弁当を食べる、昼食の時間である。この時刻になって、涼太はとある行動を始めることにした。
「……なあ、康平。悪いんだけど今日の昼は用があるからさ、みんなと食べててくれないか?」
「え? ああ、わかった。珍しいな、涼太が昼に用だなんて。成績の悪さが災いして、ダテちゃんの強制進路相談にでも捕まっちまったのか?」
まあそんなところ、と曖昧に返事をすると、涼太は教室を出ていく。
それに続くように、何故か庇護まで教室を出ていった。
それに気付いた涼太は階段を上るところで振り向いて、庇護に尋ねてみることにした。
いや、わざわざ聞く必要もないのだが、普段は彼女に話しかけられるような状況にないので、可愛い子には話しかけてみたい、という心情が涼太には働いたのかもしれない。
それが、ちょっとした騒動の幕開けになるだなんてことは、考えることはなく。