表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/21

第2話 野菜と魔力とアルカナと



 ――翌日。


 布団の中で目を覚ました涼太を迎えたのは、真冬とは思えない程心地の良い朝日と、妹の晴れやかな笑顔であった。


「あ……おはよう。明日香」


「おはよう、兄さん。調子はどう?」


「ああ、うん。大丈夫。ただ眠気はかなりきてるかも。一週間の間中一回も眠ることすら許されなかったからな……。あ、そういや俺、布団から出られるようになったよ。試練がどうのこうのと、わけが解らなかったけど」


「わかってる。昨日風呂場の前で倒れてた兄さんをまた布団まで運んだのは私だもの。試練が問題なく終わって、本当に良かった」


 明日香のその言葉を聞き、涼太は怪訝な表情を浮かべた。


「あ……えっと。何か、何でも知ってますって感じだな……。というか気絶してた俺をよく運べたな」


 『試練』というものを知っていたことよりも、自分を一人でここまでどうやって運んだのかということの方が涼太としては気になったりもする。


 気絶状態の人間を運ぶにはかなりの力が必要になる。だからこそ殺人事件が起きたときには分割して重さを軽減するために人間の体をバラバラにされているということが少なくもない。


 それを華奢な明日香が一人でやり遂げたというのは驚きであった。まあ、脇に腕を通して肩へとかけて引きずれば、無理ということも無くはないのだが……。


「あ、うん。私の力だけだと少しキツかったから、私のアルカナの力を使って私は兄さんを運んだの」


 と、明日香は平然と返す。


 涼太は明日香の言葉に、またも閉口してしまうこととなった。


「まだ兄さんはアルカナがどんなものか分かってないと思うけど……取りあえず今からご飯にしよ? 一週間も何も食べれなかったんだもん。お腹空いてるよね? 今どんな物が食べたい気分?」


 唐突な話題変更に多少は驚くも、取りあえず涼太は答えた。


「何というか……。何でか解らないけど、野菜が食べたい気分。野菜炒めが良いかな」


 普段涼太は野菜系統はそれ程食べたがらないのだが、何故かいつもより野菜を食べたいという感情が涼太の心に表れていた。本人としても、少し不思議な感覚であるのだが。


「野菜、か。なる程了解。じゃあ早速作ってくるから、少し待っててね? あ、机の上に置いてあるタロットには絶対触れないように。今アルカナ使おうとしたら、また気絶しちゃうと思うから」


 そう言い残してパタパタと明日香は台所へと去っていった。


 一般人が聞いたとしたら、正直頭が沸いているのでは無いかと思うほど理解不能な発言が明日香の口から飛んでいたが、涼太は全てを鵜呑みにすることにした。


 涼太は全幅の信頼を明日香に寄せている。彼女が言ったことなら、どんなことでも信じてしまえる自信が涼太にはある。


 アルカナが何なのか、というのはよく解らないが、取りあえずタロットカードに起因するものなのだろうということは涼太も知っていた。


 布団から出た涼太は立ち上がり、机の上に置いてある二枚のタロットを鑑賞することにしてみた。


 触らなければ問題はないらしいので、どんなものだったか見てみようかなと思ったためである。


 二枚の内の一枚は、昨夜自分の目の前に現れた少女が、絵柄となっているカードだった。


 名称は『Hermit(ハーミット)』と記載されている。


 自らを『隠者』と昨夜の少女は名乗っていたことから、Hermitというのは日本語訳で隠者なのだということがわかる。


 もう一枚目のカードには『Strength(ストレングス)』と記載されていた。英語の成績は余り芳しくない涼太だが、何となくの意味は知っている。


(強さ、とか、力っていう意味だったかな? 確か)


 恐らくこれは明日香の所有しているアルカナを示すタロットなのだろう。その位のことは今の涼太にも理解することが出来た。


 アルカナというものがどんなものなのかはよくわからないが、とにかく普通のものじゃないという位の認識は涼太の中に刻まれた。


 それから二十分程して、料理を運んできた明日香が襖を開けて部屋へと入ってきた。


 二回に分けて運んできたが、一つ目のはお盆の上には二人分の白いご飯と味噌汁、二つ目のお盆の上には溢れんばかりの『大量の野菜炒め』が乗っていた。


 野菜炒めに肉類も少し入れるのが明日香流だが、現在涼太の目の前に置かれた野菜炒めは野菜と肉の割合は9対1。


 しかもかなりの大皿。二人分のカレーが入る位の大きさだ。


 有り得ないほど大量の野菜炒めである。


 野菜が食べてみたいと言ったのは涼太自身であったが、流石にこれほどまでに大量の野菜を食べることになるとは微塵も思っていなかった涼太は、驚愕の表情を見せていた。


 対する明日香はご機嫌なようで、表情は明るい。自分の作った料理を久々に兄に食べて貰えることが嬉しいのだろう。


「美味しそうでしょ? 頑張って食べてね、兄さん」


 笑顔で明日香はそう言うが、とてもじゃないが誰が見たって食べきれるとは到底思えない。


「あ、ああ」


 半引き笑いを浮かべる涼太。何故こんなに、野菜を、と。


 だがとにかく食べるしかないので、涼太は箸で料理をつつき始めた。そして明日香も自分の分の食事を食べ始める。


 野菜炒めの攻略から数十分が経過した頃、涼太の腹は食事前と比べて1.5倍以上に膨れ上がっていた 。


 皿の上の野菜炒めも4分の3程消え去っていた。だがしかし。これ以上食べるのは無理だろうと涼太は判断した。


「明日香……ごめん。もう食えないや……」


「あはは。うん。逆に良くそこまで頑張って食べたよ。兄さん偉い!」


 そう言って愉快そうに明日香は笑う。


 からかわれてるような気分もしたが、涼太は自分は頑張ったのだという満足感を明日香のその言葉で感じていた。


(……しかし……何でこんなに野菜炒めを作ったんだろう……)


 という疑問はやはり拭えないが。


「さてと。一杯野菜を食べたところで、早速兄さんにアルカナを使ってみてもらうことにしようかな」


 そう言って明日香はタロットが乗っている机に近づき、『Hermit』――隠者のアルカナのタロットを手に取り、そしてそれを涼太へと手渡した。


 だが涼太がタロットを手にした瞬間、手元のタロットの中央に描かれた隠者の少女の絵柄が消えてしまった。


「え……? 明日香、タロットから絵が消えたんだけど」


 と、涼太が疑問を明日香に投げかけると同時に、涼太は隣りに誰かが居るような気配を感じた。


「おはようございます、涼太様。明日香様のご助力で、力も回復なされたようですね」


 涼太が驚き横を振り向くと、そこには昨夜現れた少女が綺麗な正座で鎮座していた。


 昨日はフードに隠れてチラリと見えただけの彼女の顔が、自分の真横にいるために涼太はハッキリと見ることが出来た。


「お、おはよう……。さ、昨夜ぶりだな」


 いきなりの登場に驚き、多少緊張しながら涼太は答えた。そしてついでに別の新しい緊張がまたそこで涼太の中に生まれた。


 男女共通に言えることだが、どうでもいい相手には基本的に余り緊張などしないものだ。


 いや、初対面の相手なら畏まってしまうのは仕方のないことかもしれないが、気になる相手の場合はいつまでたっても中々オープンに話せないことがある。


 アルカナという存在に対する不信感というよりかは、余りにも自分の好み過ぎる、綺麗で可愛い女性に対する緊張の方が、涼太にとっては強かったのである。


「ええ、そうですね。昨夜ぶりです。……さて、取り敢えず何よりも先にアルカナ所持者のルールについてお伝えしたいのですが、よろしいでしょうか。涼太様の命にも関わることですので」


 真っ直ぐな瞳で彼女は涼太へと問い掛けた。フードの下に見える彼女の顔はかなり整っており、可愛らしい顔立ちをしていた。


 髪は黒く、しかし目は青く、日本人に近い顔立ち。大きな瞳に知的な物腰。涼太の主観で言えば、直球ストライクど真ん中の、紛れもない美少女に相当する容姿だ。


 涼太は彼女の容姿をみて、一瞬ドキッとし、照準を彼女の青い瞳からそらすと、明日香へと問い掛けた。


「えーと、明日香。この人が説明するらしいけど、それでいいか?」


「うん。いいよ。私が説明するよりかはアルカナに説明して貰った方がいいと思うし。人型のアルカナ……なら、どこまで知ってるかも気になるし。……でも兄さん? 鼻の下伸ばすのは止めた方がいいと思うよ? みっともないから」


 何故か先程と比べて不機嫌な口調の明日香に怪訝な表情を浮かべつつ、涼太はアルカナの少女に説明をするようにと促すことにした。


「それでは、アルカナを所有する上で重要なことを伝えさせて頂きます。基本的なルールですので、知っておく必要があるものを三つだけ伝えさせて頂きます」


 その言葉に涼太が頷くと、彼女は人差し指をピンと立てて詳しい説明を始める。


「まず一つ目。アルカナの力を宿すカードを使用するためには、コストが必要です。このコストが払えない場合はアルカナを扱えず、場合によっては昨日の涼太様のように気絶することがあります」


 そして、と彼女は二本目の指を立てた。


「二つ目です。アルカナを宿すカードは、一人で複数所持することが可能です。カードを複数所持するための条件は、基本的には【所持者を殺すこと】です。ですが、アルカナを元々所持していない一般人が所持者を殺したとしてもカードを奪い取られることは有りません。因みに所持するカードが破かれた場合は、所持者自身も死にます」


 ……ここまで大丈夫でしょうか?と彼女は涼太に尋ねた。疑問は多々あるが、大体の部分は理解出来たので涼太は頷くと、彼女は三本目の指を涼太の前で立てた。


「では、三つ目。アルカナは全部で22種類有りますが、現在全てのアルカナがこの世に存在しているわけではありません。そして、その時点で存在している全てのアルカナを所持することに成功した者は、全てのアルカナを消費する対価無しに、思うままに使用することが出来るようになります」

 

 全て存在しているわけでは無いという事は、かなり少ない可能性もあれば、20枚を超えるカードが存在してる可能性もあるという事だろうか。 


「因みに、アルカナを発現していなかった昨日までの涼太様のような状態の人は、数から除外して考えられます。……これで大まかな基本ルールの説明は区切りとしますが、何か疑問があれば私の知識にある限りは、いつでも応えます」


 彼女がそう言ったので涼太は直ぐさま疑問をぶつける。


「つまり、その、俺や明日香のようなアルカナ所持者は、他の所持者に命を狙われる危険性があるってことなのか?」


 涼太が不安気にその少女に尋ねると彼女は真摯な目で涼太を見つめ、答えた。


「……ええ。その通りです。アルカナ所持者を全員殺し、現存する全てのカードさえ集めてしまえば、一切の負担も無しに、神に匹敵する力を使えるわけですから」


 その言葉に涼太は愕然とした。涼太は今まで生きてきて誰かに恨まれるようなことをした覚えもなければ、殴り合いの喧嘩も殆どしたこともない。


 平穏無事な生活を求めそれを保って生きてきたのに、それがアルカナの所持者というものになったというだけで崩れ落ちることが確定したのである。


 涼太の心は、不安という方向へ大きく揺れ動いた。

 

 そんな不安そうな顔をした兄を見た明日香は、涼太の近くへ寄り、そして自分の手を涼太の手を乗せて言う。


「大丈夫だよ? 兄さん。命を狙われることはそれ程ないから。それに、もし狙われたとしても、アルカナを上手く使えば生き残ることは出来るし。現に今、所持者である私が生きているのが証拠だよ。ね?」


 そう言って明日香は涼太の手を包み込むように抱え、笑顔を彼に見せた。それを見た涼太の心には安心感が生まれた。


 明日香の言うとおり、確かに所持者である明日香が今も生きている。そのことは事実であるのだから、涼太にとって大きな不安解消となった。


 そして何より、心の寄代である妹の笑顔が彼の心を落ち着かせたのであった。


「ああ。そうだな。そんなに不安に思うことも、ないよな。ありがとう、明日香。大分落ち着けたよ」


 そう言って涼太も明日香へと微笑みを見せる。明日香はその様子を見て嬉しそうに目を細めた。


「……それに、涼太様には私が居ますから。涼太様が力の源である野菜を食べ続けている限りは私の【隠者】の能力を行使出来ますので。私の能力を使えば死ぬような事態になることは殆ど無いかと思われます」


 彼らの真横で仲睦まじい兄妹の様子を見ていた少女が自分を主張するかの如く口を挟んだ。


 少女は、何となく自分が蔑ろにされてるような気がしたのかもしれない。


「……そうか。俺にもアルカナは使えるんだった。えーと……」


 少女のことを呼ぼうとして、そこで名前を聞いてないことに気付いた涼太は言葉を詰まらせる。その涼太の意志を汲み取った彼女は、直ぐさま彼に進言した。


「私のことは何とお呼びになっても構いません。元々私には名前など有りませんから」


 そう聞くと、涼太は顎に手を当て、数瞬考えるような仕草をした。


 アルカナの所持者であると知られる事を極力避けるために、【隠者】ということに直接繋がるような名前で呼ぶのは止めた方が良いだろう、と涼太は思う。


 だがそれとなく解りづらい名前も良くないだろう。


 結局数十秒の間考えたのちに、涼太はその名前を伝えるべく口を開いた。――それは、不思議と頭に浮かんだ言葉。


 けれど彼にとっては、綺麗な音の響きのする名であった。


美鳩ミハト、でどうかな。ハーミットをもじって作ってみた名前なんだけど」


「ミハト……ですか。はい。それで構いません。有り難くその名前を頂戴致します。それではこれから私のことは美鳩とお呼び下さい」


 作業的で感情のこもりそうもない淡白な言葉で美鳩は返答したが、その言葉とその表情には、明らかな喜びの感情が垣間見られた。


 自分に名前が出来たということが、もしかしたら素直に嬉しかったのかもしれないな、と言葉には出さなかったが涼太は心の内にそう思った。


「えーっと、それじゃあ美鳩。改めて聞きたいんだが、俺の使えるアルカナの能力について教えてくれないか?」


 涼太がそう訊ねると、美鳩は考えるような仕草をし、涼太の目の前に座る明日香へと一瞥くれてから涼太へと言葉を返す。


「通常、他のアルカナ所持者に能力を知られるのは好ましくないことなのですが……明日香様にならば、能力が知られたとしても問題なさそうですね。むしろ知って貰った方が涼太様の生存率が上がりそうです。では、私のアルカナ、【隠者】の能力について、説明いたしましょう」


 いまだに涼太の手を握っている明日香を横目に見た後、美鳩は説明を始めた。


「アルカナには、様々な意味があり、正位置と逆位置というものが存在します。例えば正位置が『死』の意味のアルカナの逆位置の意味が『再生』であるように、一つのカードには2つの意味と、その力が存在します」

 

 カードに記載された名称がそのまま読める状態なら正位置、絵柄も逆さになり、記載された名称が逆さになっている状態なら逆位置という区分らしい。

 

「涼太様の所持するこの私、隠者の場合は、正位置の能力は『集中力の増加』。逆位置の能力は『存在の希薄化』となります」


 それを聞いた明日香は心底安心したような表情を見せた。涼太のアルカナが危険な能力では無かったことに安堵したのだろう。


「2つの能力……か。何か、本当にファンタジーな内容だな……。集中力の増加ってのはわかるが、存在の希薄化ってのはどういう事なんだ?」


 涼太のその問いに、美鳩は少し考えるような素振りをしてから答えた。


「……説明するよりも、実際にやってみた方が早いかも知れません。涼太様、試しにカードを使ってみてください」


「どうやれば使えるんだ?」


「カードを手に持ち、『隠者』と言ってから、『逆位置』と宣言してみてください。そうすれば、存在の希薄化の能力が使えます」


 それを聞いて早速実践してみようと涼太は意気込む。


 自分の手を包んでくれていた明日香の小さな手を離してもらい、先程から手に持っていた隠者のアルカナのカードを目前に掲げた。


 特にこの行為には意味は無いのだが、ようするに気分の問題だろう。


 そして涼太は、静かに宣言した。


「……隠者。逆位置」



 涼太は美鳩に言われた通りにそう宣言したのだが涼太自身には、変化が起きたような感覚は一切訪れなかった。



 しばらく経っても何の脈絡もないので不思議に思い、涼太は美鳩へ問いかけてみた。



「……なぁ、美鳩。何も変化が起きたように感じないんだが……」



「はい。私も変化は何も感じていません。私は貴方の従者であり、貴方の力を持つ者ですから。ですが、明日香様は変化に気付いている筈です」



 美鳩がそう言うので涼太は目の前に座る明日香の方へと視線を向けてきた。



 すると、確かに明日香の表情には変化が起きていた。



「兄さんが……消えた?」



 驚愕の顔を浮かべ明日香はその場に静止していたのだ。



 しかもこの様子を見るに、涼太の声すら聞こえてないようだ。取りあえず、確認の為に明日香に涼太は話しかけてみた。



「明日香、俺の声、聞こえてるか?聞こえてるなら返事してみてくれ」



 しかし尋ねてから暫く経っても明日香が返答する様子は無い。



 自分自身に変化が起きたようには感じなかったが、どうやら明日香には涼太の存在が認識出来なくっているようだった。



 この状態で触れてみたらどうなるのだろうかと思い、好奇心や青年心に動かされた涼太は明日香の胸の方へ手を伸ばしてみた。



(……俺の存在が分からないなら、胸くらい触ってみても気付かないんじゃないか?)



 瞬間的に邪な考えが涼太の頭を横切った。当然それは相手が妹であっても犯罪である。しかし、躊躇うことなく涼太はその手を明日香の胸元へと伸ばした。



 明日香は高校一年。年頃の体には多少は興味が沸くものである。例え、それが自らの妹であったとしてもだ。ただ、こんなことを実際にやるのは涼太だけかもしれないが。



 それを見た美鳩は「やめた方がいいと思います」と直ぐに一言呟いたが、時既に遅し。涼太の手は明日香の若干薄めの胸へと触れてしまっていた。


 柔らかな感触が涼太の手のひらを伝わった。現在明日香はまだ制服に着替えていない為、寝間着姿のまま。それ故に明日香はブラジャーを付けていなかったのである。


 それを見越して涼太は行動を起こした訳だが。


 一揉み、二揉みと確かな柔らかな感触を涼太は感じた。


 もうこれは、兄として最低の行為であるからして、世の中の兄は決して真似をしてはならない。了承が無ければ当然叩かれるだろう。しかし涼太という人間は意味もなくチャレンジャーだった。


(この能力があれば、大抵の事は何でも出来るんじゃないのか?)


 涼太もそう思ってしまう程に、隠者の逆位置の能力は強力であった。目の前にいても認識出来ず、さらに声を出してもそれすら認識されない。


 まさに『存在が希薄化している』と言えるだろう。いや、希薄化の限度も超えてしまっているかもしれないが……。


 ニ、三回揉めたことで満足したので、そろそろ自分の手を離そうかと涼太が思ったその矢先、ガシッと力強く涼太の手首は掴まれた。


 勿論彼の手を掴んだのは、涼太の目の前に座る他でもない明日香である。


「……兄さん……一体、何の真似なの……?」


 そこには怒りと羞恥で顔を真っ赤にした明日香がいた。突然の事態に驚き、涼太は冷や汗を垂らし始めた。


「……えっと、その……触ってもバレないのか確認しようと思ってだな。というか、今、俺の声聞こえてるのか?」


「うん。聞こえてる。ついでに姿も見えてるよ? ……さっき私の胸を触った、最っ低な兄さんの手首を掴んだ瞬間からね」


「……それが私の能力の弱点です。涼太様」


 一部始終を冷ややかな目で見守っていた美鳩が口を開いた。


 それを聞いた明日香は納得したように頷く。


「今の状況から考えると、『他人の肌に直接触れられている場合』は、存在の希薄化の能力の効力は無くなるってことね。つまり、今兄さんの手首を掴んでいる間なら簡単に殴れるってことだよね」


 にっこりと笑顔で、しかし明らかな怒りを内面に込めながら明日香は言い放った。


 それに対して涼太は笑って答えた。その顔には悪気もへったくれも存在しているようには見えない。


「……世の中に星の数程の女性がいたとしても、明日香程俺の為に尽くしてくれる可愛い女の子は、絶対いないだろうな」


 屈託の無い笑みを浮かべて、涼太は明日香への感謝の言葉を言った。


 しかし当然、そんな言葉をいきなり出されたくらいで簡単に懐柔される程明日香は馬鹿では無いのである。


「そうだね。私みたいな女の子は、兄さんの前には今後絶対現れないと思う。でもそんな女の子に酷いことをしたからには、制裁を受けるのも、これまた当然のことだよね?」


 そう言って明日香はもう片方の拳を思いっ切り振り上げた。明日香が狙うは涼太の頭一直線である。


 このままでは正直本気でヤバいと思った涼太は、美鳩の方を振り向き、助けを求めたが、美鳩は素知らぬ顔。


 そのまま全力で振り下ろされたその拳は涼太の右頬を貫き、そして涼太はその痛みに悶絶した。


 自分の従者であるにも関わらず助けに動かなかった美鳩を見て、涼太は人間としての人徳の大切さを強く感じたのであった。





評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ