第1話 緊縛の布団ライフ
とてつもなく寒い2月頃の冬の朝。
目が覚めた時に布団から出たくないのは何故なのだろうか。
一般的な感覚でいうなら、その理由はただ一つ。
単純に寒いからだ。
だが彼は違った。寒いことを理由に布団から出ないのではない。
精神的に、いや、物理的に出られないのだ。
六畳一間の一般的な狭い部屋。そこに引かれた二枚重ねの布団と毛布の中で、彼は何かを待つようにただ目を開けていた。
彼の名前は桜井涼太。
今年で十七歳になった現役の高校二年生である。誕生日を迎えたのは今日からつい七日前。
ただ、学校で誕生日パーティーを開いてもらうなどという表立ったキャラでもないので、数人の友達から祝福の言葉を受けただけであったが。
「……本当、どうなってんだろうな……これ」
涼太は一人呟く。そう呟かずには居られない位に、彼を襲っている現状というものはおかしなものであった。
一週間もの間、運動すらしていない鈍りきった体で、彼は寝返りをうった。
暫くの間、殆ど動かされることの無かった涼太の体は、それだけの動作で悲鳴をあげている。
そんな中、襖をスッと開ける音がしたと思えば、制服姿の一人の少女が涼太の部屋の中に入ってきた。
そして心配そうな表情をしながら、彼女は涼太に語りかける。
「……兄さん、大丈夫? えっと、生きてるよね?」
彼女の声を聞いた涼太の顔はほころぶ。痛い体を動かし、涼太もう一度寝返りをうって彼女の方を向いた。
この少女がいる時間だけが、今の彼にとって最も安心出来る、まさに安息の時なのであった。
「ああ。大丈夫だし、生きてるよ。ただ体が少し軋んできているような感じはしてるけどな……」
苦笑いが、彼の表情に過ぎる。
涼太は彼女が来てくれることが嬉しい反面、自分のどうしようもないこの境遇に呆れを感じているのである。
「そっか……。でもまだ、大丈夫だよね。まだ兄さん生きてるもんね。上手く言えないけど、今を乗り切ればきっとちゃんとした未来が待ってるはずだから。ね?」
涼太を元気付ける為に、精一杯の笑顔で彼女は笑う。
実際、彼女の笑顔に涼太は元気付けられ、救われてきていた。
彼女の存在がなければ、涼太の心は今まで持たなかったかもしれない。
彼女の名前は桜井明日香。
現在十五歳の現役高校一年生。腰まで伸ばした黒髪。パッチリとした瞳に、筋の通った小さな鼻。
化粧を付けずとも綺麗な薄いピンク色をした唇に、曇りの無い綺麗な肌。笑った顔が魅力的な、可愛い女の子である。
彼女は桜井涼太の妹であり、今の境遇の彼にとって唯一の生きる身内でもある。
逆に言っても同じことだが、その明日香にとっても彼は唯一の身内であり、大切な家族なのである。
「一応だけど、メロンパン枕元に置いておくから、食べれるようになったら食べてね。それじゃあ、学校行ってくるね。兄さん」
そう言い残すと、明日香は立ち上がり部屋から出て行った。
靴を履く音が涼太の寝ている部屋にも聞こえてくる。
「行ってきまーす」
元気な声と共に明日香は学校へと向かっていく。今日の学校では、どんな事が起きるのかなと、胸の内に微かな期待と不安を込めながら。
(……良いもんなんだな。普通に、学校に通えるってことは)
普段の自分はそんな事考えたことも無かったな、と、部屋の窓から明日香の姿を見送った涼太は布団の中で独り思う。
つい数日前まで、つまりは七日前の誕生日までは涼太も普通に学校に通っていたのだ。妹の明日香と同じく、掛山高等学校という名前の進学校に。
ただし兄妹仲良く毎日登校、ということをしていたわけではない。
それはたまに朝の涼太の起床が遅い為、というか寝起きが異常に悪いことに起因している。
明日香が頑張って起こそうとしても涼太は中々起きない。そういった日は面倒なので明日香もいちいち涼太を起こす為に言葉を囁くことも当然しない。
そのため、常に大量の目覚ましが涼太の枕元には置かれていたのであった。
何回も目覚ましを止めた所でようやく起床。
そして妹の明日香はとっくに学校に着いている時間帯に、遅刻寸前の中に滑り込むべく猛ダッシュで登校をする。
そんな日が週にニ・三回はあったので毎朝明日香と登校する、ということは無かったのである。
彼にとってはありふれた朝。
それが、ある日を境に訪れなくなってしまったのだ。
誕生日を終えた次の日。明朝の出来事だった。
何の脈絡もなく、突然、涼太は布団から出られなくなっていた。
精神的に、ということではない。
もしかしたら、いや普通に考えれば、精神に由来していると考えるのが理なのかも知れないが、涼太の体感的には、全くもって物理的に布団から出られくなっていたのである。
寝返りをうつことぐらいは出来るが、それ以外に何かをすることも出来ない。腕を布団から出すことも、足を布団から出すことも出来ない状態。
文字通り、まさに手も足も出なくなっていたのだった。
何かをするには妹である明日香の力を借りる他ない。
勉強をするにもページをめくってもらい、朗読してもらい……。しいては本を読むにもゲームをするにも自力では出来ない。
まだ年も若く、身体に一切の障害がないと思っていた筈の自分が、こういった境遇に陥いっていることが、涼太にとっては辛かった。
さらに不思議なことに、その日を境に涼太は物が食べれなくなってしまった。
そして同時に一切の排せつも行われなくなった。さらには眠ることさえも出来なくなったのだ。
それ故に今日までの間。
『眠れないのは怖いと思うから、私は兄さんの側にずっといるよ』
そう言って、部屋に小さな机と小型のテレビを持ってきて明日香は付きっきりで涼太の側に居てくれたのである。
その間、休日を挟んでいたので実質明日香が学校を休んだのは一日だけだったが、それでも涼太にとっては涙が出そうな位に嬉しいことだった。
ただし、涙さえも涼太は流せなくなっていたが。
明日香は涼太を医者には見せていない。涼太もまた医者に見せることを嫌がった。
明日香曰わく、『取りあえず様子を見てみるべきだよ』
涼太曰わく、『俺ヒッキー扱いにされそう』
よって今の所まだ医者に見せてはいない。
だがこの症状は明らかに異常であり不可思議なものだ。
そして物は食べれないが故か、涼太の空腹感は徐々に増幅していった。
食べようにも、涼太が口を開いて食しようとすれば涼太の意志に反して口が強く閉まってしまうのである。
その上、六日間もの間水も何も食べていない状況と思える程の空腹感も生じてはいないという、さらに不思議な状況だった。
ただし寝返りをうつと痛いようなので、確実に涼太の体は弱ってはいるようだが。
そんな状態であるものだから、明日香が学校に行ってしまうと、涼太は余りにも暇になってしまう。さて、そんな説明のしようがない理由での欠席に、どのように彼らが切り抜けているのかというと。
現在涼太の学校は、新型感染ウイルスによって7日間の学年閉鎖中である。
現在の涼太にとっては欠席日数的にかなり都合の良い状態なのだが、それ故に友人が訪れることも無い。
涼太自身も新型ウイルスに掛かっている、ということになっているからだ。
目が覚めているのに布団から出てこれなくなった涼太を見た明日香が、学校にそういった連絡したからである。
そのおかげで学年閉鎖が確定したのだというから、かなりの幸運だ。まさに不幸中の幸い。そのお蔭で、現在の涼太の原因不明の病状の報告も、そお期間の間はうまく免れたのだ。
ただし当然のごとく、涼太の家には友人が訪れることも無かった。
『誰が好き好んで、そこまで感染力の強い新型ウイルスにかかりに行くか』、ということである。
結局の所この数日間というもの、涼太は明日香以外の人物と会っていない。
だが、それ程寂しい訳でも無かった。
唯一の家族である、明日香が側に居てくれたから。
今の自分の不思議な状況をしっかりと受け入れてくれたから。
明日香も初めは多少は疑いもしたが、最終的には自分の言っていることを信じてくれた。
そして自分は精神的に病んだ事が理由で布団から出られなくなったり食事をとれなくなったわけでは無いということもだ。
大体、涼太が精神的に病む理由など本人にすら無かった。
「これだけ何もせずにいるなら、なんか悟りでも開けそうだな」
現実、一切の食べ物も口にしていない上に一つの場所からでることさえしていない。
人間暇な状況な状況に陥れば、大抵の場合は思考に入る。
いわゆる妄想や瞑想といわれるものだ。
そういった境地に陥ったとき、初めて人は悟りを開くとは言われている。だがあまりに暇すぎると、意識に反して眠気が襲ってくるものだ。
しかし今の涼太にはその睡眠すらも許されない。
自分の意志で体でもない、それ以外の何かが全力でそれを拒否していた。
時の感覚すら無く、ただ横に見える時計の針の音を聞きながら過ごす。
静寂に包まれた部屋にチクタクと音が鳴り響く。それ以外のことはなにもない。
――そんな彼の世界の中、それとは違う音が、ようやく鳴り響いた。
家の玄関の開く音だった。
「ただいまー」
そう言って靴を脱ぐ音が聞こえてきた。そのまま真っ直ぐ自分の部屋に近づいて来る音が聞こえる。
トン、と。静かに襖は開かれた。
「お疲れ、兄さん。まだ生きてるよね?」
厚着の制服姿のまま正座をし、たった今帰ってきた明日香は涼太に尋ねた。
生きてるよねという言葉は、今の彼らにとっての挨拶のようなものだった。
「ああ。生きてるよ、明日香。まだ大丈夫だ」
そして涼太もそう答えるのが今の彼らの日常。
この瞬間の彼らの間には、どこか異界めいた奇妙さが感じられる。
涼太の無事な姿を確認した明日香は、料理をするために台所へ向かった。
基本的にこの家で料理を作るのは明日香の仕事となっている。ただし今の状況においては一人分の料理しか作らないのだが。
「兄さん、今日何か変わったことはあった?」
小さな机と作った料理を運んできた明日香は、気になることを尋ねた。
「いや、特に何も起きなかったよ。腹が減るわけでもないし眠りに付けるわけでもない。昨日や一昨日とも何も変わってないさ。……ただ、な」
「うん」
「悟りでも開くかのような感覚になったのはあるかな。あんまりにも暇なものだったから」
そういって涼太は笑う。
正直な感想だった。
「だったら、そのまま悟りを開いちゃえばいいかもね。そしたら今の不思議な状態から回復出来たりして」
冗談を交えた口調で明日香もそれに答える。本当にそうだったら良いのに、と心で思いもしたがそれは口には出せなかった。
「さてと、今から私、お風呂行ってくるから。何かあったら呼んでね」
先程の会話から暫く時間が経ち、話も終わった頃。
そう言って明日香が立ち上がろうとした時、ふわりとスカートが僅かに広がった。
「……今日の色は黒なんだな。お前には白が似合うと思うけど」
丁度良い場所に寝転がっている涼太の視線に明日香のスカートの中がジャストミートした。
そして本人も知らぬ間に素直な感想が涼太の口からぼそりとこぼれていた。
「似合う似合わないの問題じゃないよ。冬は黒!夏は白って私は決めてるの。……ちなみに今私のパンツを見たのが兄さん以外だったら半殺しにしてるから。良かったね、私の兄妹で」
冷ややかな口調でそう告げる明日香。その言葉に言いようもない恐さが含まれていた。涼太はその時、心底自分が明日香の兄であったことに感謝したのだった。
そういえば、と、部屋から出ようとしていた明日香が呟いた。
「ねぇ、兄さん。もし私が……。どんな理由があったにしろ、誰かに殺されたりしたら、どうする?」
不安そうな顔で明日香は涼太に尋ねた。この質問にどんな意味があるのだろうか、と考える間もなく涼太は即答する。
「そいつを死ぬ寸前まで半殺しにしてから、その後法廷に突き出すだろうな」
実際に明日香が死んだわけでもないのに、涼太は顔に怒りの表情を浮かべた。想像するだけでも強い憎しみが沸いてきていた。それほどまでに、明日香の存在は彼にとって大きいのだ。
「流石は兄さん。そうやって直ぐに判断出来る所はカッコいいと思うよ。……うん。そうやって言ってもらえるのは凄く嬉しい」
でもね、と明日香は付け加えて静かに言った。
「兄さんが死んだ場合は、私は迷いなくそいつを殺すから」
そう言い放つ彼女の言葉には、余りにも冷たい意味が込められていた。
それがどんな理由であれ、そしてどんな状況であったとしてもその者を殺すという明確な殺意。
しかし、ただ一人の兄という存在に向けられた愛情がそこには含まれている。
「はは……。そうならないように、気をつけるとするよ」
躊躇うことなしにスッパリと断言されたその明日香の言葉に、嬉しさ半分恐さ半分で涼太は答える。
絶対に事故になんかあうことは出来ないな、と涼太は内心本気で思った。
その後明日香は襖を閉め、風呂場へと向かって行った。
最後に明日香と一緒に風呂に入ったのはいつだったかなー等という間抜けなことを考えながら、涼太は再び寝返りを打とうとした。
が、その瞬間。一つの異変が訪れていた。
涼太が動かした腕が、今までテコでも動かなかった布団を払いのけたのだった。
(なん、だ? 身体の『枷』が、なくなってる。今なら、布団から、出られる!?)
瞬間的に涼太はそう考えた。腕が布団をどかせるならば、と次に足を動かす。
すると今まで絶対布団から外へと出なかった足をいとも簡単に出すことが出来るようになっていた。
意気込んで体全体を転がるように動かし、そして涼太は布団を押しのけ、その中から脱出した。
そうしてようやく。涼太の七日間の布団ライフが、今この瞬間をもって終わりを告げたのだった。
「――よっし。一週間ぶりの、布団の外だ。ああ! 身体が動くってだけで、こんなにも嬉しいとは!」
体にくるまった布団から顔を出すと、涼太は小さく手に握り拳をつくり、喜びを噛み締めた。
しかしその感情は、目の前に突如と現れた存在を目の当たりにした瞬間、別の感情へと切り替わった。
「お疲れさまです。涼太様」
そこに居たのは、一人の少女。
外見からして、年齢は明日香と変わらないくらいだろうか。
長い黒髪にフードを被っていた。フードに隠れて顔はよく見えないが、いきなりのことに困惑している涼太としては見る気にもなれない。
彼女は落ち着いた様子で俯いたまま、静かにその場に正座していた。
「え。だ、誰だお前」
忌々しくも自らをそこに縛り付け、出られなくしていた布団から逃れることが出来たことに対する喜びよりも、
目の前の少女に対する驚愕と恐怖の方が、今の涼太には勝っている状態だった。
故に涼太の口から出たのは疑問の声。
それを聞き、少女は顔を上げ、涼太の目を見据えて答えた。
「私は隠者のアルカナ。序列で数えるならば9番目に位置する存在です。……貴方は試練を終えました。よって私は、この瞬間をもって貴方の所有物となります」
「ア、アルカナ……? 所有物……?」
涼太の頭は混乱した。目の前で正座をして居座っているこの少女の言っている言葉の半分も解らない。
というか全部解らなかった。
「はい。私は貴方の所有物です。それでありながら貴方の心臓であるとも言えます。……詳しい説明は後にしましょう。まずは結果報告を致します」
突然の結果報告とは、一体何なのか。
「貴方は七日間の『試練』を終えました。精神的異常は見られずいたって正常。妹という存在に支えられたという外的補佐はあったものの、それは貴方の持つ人脈の一部と判断しました。そして七日間を過ぎた先程の瞬間をもって、『七日間その場を動くことを禁ずる』隠者の試練を終えた貴方を、私の所有者と認めました」
隠者と名乗る彼女の言葉を聞き、涼太は一つ納得した事象があった。
いや、正直に言えばこの少女も頭がおかしいし、それを納得してしまおうとしている自分自身もどうかしているのかもしれないが、それをどうこう言うのは今この場では論外であろう。
要するに今まで自分を布団から出られなくしていたのは彼女だということだ。
布団から出られないというのは、霊的・術的な何かでなければ納得出来ない出来事であったから。
「……君はいつからここにいた?」
出来るだけ落ち着き払った声で涼太は尋ねる。内心、心臓が大きく脈打つほど緊張しているのだが。
目の前に居る少女は霊的存在なのかそれとも現実に存在している人間なのか。この質問は、それを問うものであった。
「いつから、と聞かれれば応答は難しいのですが……そうですね。この部屋に存在を現したのは先程貴方が布団を出た瞬間が初めてです。ですが私が貴方と共に存在していたのは、貴方が生まれてから――ずっと、ということになりますね。直接私が涼太様自身とお会いするのは今が初めてですけれど」
今の彼女の返答からするに、やはり彼女は現実に存在する普通の人間ではないようだ。
だが彼女の存在ははっきりとしすぎている。
涼太の目の前には確かに先程までは存在していなかった人間の少女が居るのだ。そこに大きな矛盾がある。
涼太の中にある警戒心はまだ全く拭い去れていない。
大体存在自体が怪しいのだ。この少女は。
「俺が生まれた時から存在はしている。それなのに俺と会うのは初めて、と。何だか今まで俺の中に眠っていたかのような口振りじゃないか」
「そうです。その通りです。私は貴方の中に眠っていた――その表現が正確ですね。……私が現れたのが突然でしたから、まだ貴方は混乱しているでしょう。それに貴方の力も今日は少ない」
いきなり女の子が枕元に正座をして現れたと思ったら、試練がどうのと所持者がどうのこうのと。
混乱しない方がおかしい状況といえるだろう。
「大事をとって、私はカードに戻らせて頂きます。私が具現化したことで貴方は疲れているはずですから。……今日はゆっくりとお休み下さい、涼太様」
そういきなり告げると、
彼女の姿は霧に隠れたのかのようにして、フッとその場から消えた。
そして彼女が先程まで存在していたその場には、一枚のカードが残っていた。
形状は縦長。中央に彼女の姿をしたデザインが描かれており、カードの上部には『Hermit』と記載がされていた。
世にも奇妙なこの現象。
しかし意外なことにもそれを目の当たりにした張本人の涼太は余り動じていなかった。
存在が目の前から消えたことで、幽霊的な存在だったのではないか、と考えることが出来たからだ。
昔から涼太は霊感が強かった。
未知の存在よりは今に至るまで見続けてきた幽霊という名の存在である方がよほど納得がいくのである。
「……じゃあ、なんだ。七日間、俺はあの幽霊みたいな何かに、金縛りにあってたってこと……か? いや、まあ、さっきの彼女の話を聞くに、それも違うんだろうけど……ああ! もう、わかんねぇ。こういうときは、落ち着け、俺。深呼吸だ」
そう呟き、長く息を吐いて吸う。
その深呼吸で少し心の落ち着いた涼太は、先程の彼女が中に住んでいると思われるカードを手に取り、明日香のいる風呂場へと向かうことにした。
だが、涼太が立ち上がって直ぐに。彼の体を違和感が包み込んだ。
(……っ!? な、んだ……?)
足に、頭に。
何か重石のようなものがまとわりついているかのような錯覚を覚えたのである。症状としては、貧血に似ている。しかし、そうではない。それとは違った感覚が、涼太の中で渦巻いていた。
(まあ七日間も動かなかったんだ。多少体が重く感じるのは当然のことなのかもな)
そう思い直し、重い足取りながらも風呂場へと向かう。
しかし、途中で体に力が入らなくなってしまった。
(何だこの感覚……これは、体の異常じゃ……ない……もっと心にくるような、精神的な何か……か……?)
そこまで考えたところで、涼太の意識はぷつりと途切れた。
風呂場へ後五歩でたどり着くその場所に、ドン、と。
涼太の体は物音をたてて横たわることになった。
その涼太が倒れた音は、風呂場にいた明日香の下に届いた。
大きな物音に異変を感じた明日香は直ぐさま風呂を飛び出し、タオルを体に巻いて風呂場の扉を開けた。
そこには意識を失い、床に横たわる兄の姿。
「え……? に、兄さん? 兄さん!」
明日香の心の臓が大きく脈を打った。ドクンドクンと、大きな音を立て始める。
明日香はしゃがみ込み、まずは涼太の意識確認をすることにした。
どんな状況であれ真っ先にする必要のあることだ。
大好きな兄が倒れこんでいるのを見て冷静で居られるわけはないのだが、重要なのは迅速に対応することだ、と明日香は頭に意識を持って行く。
「兄さん! 私の声が聞こえる? 聞こえたら返事をして!」
明日香は涼太の耳元で叫んでみた。これで反応しないようならかなり深刻な事態である。
反応があることを祈り、明日香は涼太の口元に耳を近づけてみた。
すると、
『あむっ』
「ぃ、ひ、ひゃあぁぁん!!」
突然のことに明日香は悲鳴をあげてしまう。一体何が起きたのか。
それは単純なことで、涼太が明日香の耳を甘噛みしたのであった。
意識の有無は分からないが、しかしこれは、まさに寝ぼけているような症状。ということは。
(いきなり耳を噛まれるなんて……び、びっくりしたけど……、これはこれで悪くはないかも……。じゃなくて! 良かった……。兄さんは寝てるだけみたい)
涼太の無事を確認し、心底安心し胸を撫で下ろす明日香。
バスタオル一枚で座り込み胸に手を当てる少女の姿はいささか扇情的ではあるが、
今ここにいる唯一の人間は気絶しているように眠っているので問題はない。
安心したところで、ふと、明日香は涼太の手元を見てみた。すると涼太の手に一枚のカードがあることに気付いた。
明日香はそのカードに触れ、詳細を確認することにしてみた。
(『Hermit』隠者のアルカナか……。やっぱり兄さんが布団から出られなかったのはアルカナの影響だったっていうことかな)
この自己解釈が正しいだろうと明日香は確信する。
何故ならば、彼女自身も同じような体験を、『試練』を行ったことがあるから。
明日香は風呂場へ一度戻ると、着替えの下から一枚のカードを取り出し、そして一言、小さく言葉を呟いた。
「力、正位置。……うん、兄さんの身体も、軽い軽い。こういう時には、役に立つんだよね。――アルカナは」
――これが、彼とアルカナとの邂逅。
その日々の幕開けの序章の、その初日の出来事であった。
この、『隠者のアルカナ』との出会いがどんな運命をもたらしていくのか。彼はまだ、何も知らない。
アルカナを使った現代バトルファンタジーとなります。世界観は、作者の別作である「魔法使いの主様っ! http://ncode.syosetu.com/n7483z/ 」という小説ともリンクする内容になっております。
ただ、こちらも単品でも読めるようになっておりますので、読まずとも特に問題ありません。現代ファンタジー×異世界ファンタジー(和風)な感じの小説に興味がありましたら、こちらも是非!