糸車・3
頭が痛い。
どういうことなの。
百合子はひとりごち、目の前にいる狭霧を見つめた。
「イザヤは簡単にいうと"巨大な脳"。日本国民すべての人間のデータを保存し、遺物から守るもの」
「・・・」
「たとえ、国民すべてが遺物に殺されたとしても、データがある限り、イザヤが生きている限り死なない。…でも、そこに意思は存在しない。意思のない人間は、人間じゃないわ」
彼女は百合子に背をむけたまま、じっとパソコン群を見据えている。
腰までの長く艶やかな髪が照明に反射して、ちらりと光った。
「わたしは、イザヤを破壊する」
「!!」
「人の生は尊い。その人が何を考えて、何を思って生きていたのか。それは、その人を知るひとしか知らないわ。でもね、人間ってそういうことなのよ。その人を永遠に覚えていることは出来ない。いずれ、消える。でも、そういうことなの。生きる、ということは。いずれ消えてしまうから尊いの」
「…社長…」
再び百合子に向き直り、その白い頬をゆるめながら呟く。
「真君は、必死に生きようとしている。最初は、死んでも構わないとそう言っていたようだけど…。"薬"が切れた今、副作用で若干の精神不安定はあるだろうけど、初めて彼は彼として生きられる」
「…では…」
「イザヤを破壊することを望んでくれるのならば、協力は惜しまないわ。そう、琳君と真君に伝えてちょうだい」
百合子は、思わず頭を下げてしまった。
――この人のところで働けていて、幸せだ。
そう心中で呟く。
「ありがとうございます…社長」
「いやね、顔を上げて。これは、エ霞君の提案なんだから」
「え…?」
「利益になっても、不利益にはならない…。イザヤを破壊したって、国は大きな声で言えない。でっちあげた罪を被せたとしても、わたしたちがいなくなれば遺物は人を殺し続ける。まあ、小賢しい案だろうけど、ないよりはマシよね?」
おかしそうに笑って、ちらりとカーテンの端を見つめる。
そこに、エ霞が影のように立っていた。
「い、つのまに…」
驚く百合子に、エ霞はばつが悪そうに笑って、もじゃもじゃの頭を掻く。
「こうするしか、他になかったのさ。真を守るには、イザヤを破壊するしかない」
「…そういうこと。さあ、これから忙しくなるわよ。何てたって、相手は『裏』だからね」
「あの…社長。このこと、ほかの幹部には…」
「内緒よ、勿論。だって、怒られるもの」
おかしなところで子供っぽい狭霧を百合子が呆然と見つめた。
それでもと気を取り直して、彼女に問う。
「ですが、…隠すのは難しいかと…」
「まあ、そうだけど…。でも、先にやったもの勝ちよ!それに、幹部さんたちはわたしに甘いから、大丈夫」
「…はぁ」
それもそうか、と思惟する。
確かに、これまでも突拍子もない案を社長が出したとしても、利益不利益に関わらず、幹部たちは彼女の案に乗ったのだ。
幹部達は、彼女に甘い。
10代に見える彼女に、本気で怒ることができるものはいないのだろう。
「エ霞くん。百合子さん。もう下がってもいいわよ。これからやることがあるから」
「…はい。社長、本当にありがとうございます」
もう一度頭を下げて、社長室を後にする。
「・・・」
彼女はひとつため息を吐き出して、『裏』がある方角を睨みつけた。
とうとう、時が来た。
「…決して、許しはしない…」
少女の外見とは見紛う、低く憎しみに染められた声。
「観世水、高峯…」
「へぇ。この色男がねえ」
「ちょっと蝶子さん、なにじろじろ見てるんすか。失礼ですよ!」
蝶子は無遠慮に琳をじろじろと見つめている。
あれから一晩たっても、五室や執行部隊は襲っては来ない。
しかし、いつ襲ってきてもおかしくはないのだ。
屋上で見張っているエ霞、そしてエントランスで見張っている睡蓮は、ここにはいない。
琳に宛がわれた部屋のなかに、真と籬、はてには蝶子と道成寺が詰めていた。
「何か…?」
「いえ、なんでもないわ。見てただけ」
きっぱりと言い放つと、琳はわずかに苦笑いする。
代わりに道成寺が頭を下げることになった。
「いえ、お気になさらないでください。私は目がほとんど見えていませんので、人の視線と言うものはほとんど感覚でしか分かりませんから」
「兄さんは、せんせいなんです」
ベッドの端にすわっている真は、誇らしげに笑う。
「へええ、先生をしてらっしゃるんですか。でも、え?目が見えないのに?」
「ええ。生徒には秘密にしている事ですが。余計な事を言って、彼らに気を使われても困りますから。それに、黒板に書くような授業はしていません。殆ど、スクールカウンセラーのようなものですね。副担は持っていますが」
「すっげー!かっこいー!」
わめく道成寺に、蝶子は無言の手刀を頭に入れた。




