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「何なんだ……これは……」
目の前にあったのは、売り地と書かれた看板と、雑草が伸び放題の空き地だった。何がある訳でもないし、誰がいる訳でもない。
しかし、僕の記憶では確かに、そこには以前人が住んでいたんだ。そしてその人を、僕は知っている。
「……かつてここには、赤地麻子さんとその夫の家が建っていたわ。あなたも勿論知ってるでしょ?」
「当たり前だ!麻子ばあちゃんにはガキの頃から世話になってるんだ!なのに……なんで」
「未来は変わった……ある事がきっかけで、赤地麻子さんの存在はこの世から消えたわ。けれど、その異変に気づく人は誰一人としていない。世界が変わった今、ここに何も無い事こそが当然になっているのよ」
「何も無いのが……当然……馬鹿な……」
そこにいたはずの人間が、いない事が当然となる。これが、未来が変わってしまうという恐怖。
まさかこんな馬鹿げた事が……有り得てしまうなんて。
「それに、変わったのはこれだけではないわ。世界はもっと残酷にその変化の兆しを見せているのよ」
藍川が僕に渡してきたのは、ワンセグ機能のついた携帯電話だった。そこには、民法のニュース番組が映されている。
『それでは次のニュースです。昨日領海侵犯を行ったと思われる船舶を、政府の判断の元、海上自衛隊が迎撃を行いました。相手国は強行姿勢を貫く中、政府はこれを迎え撃つ模様です。防衛戦争が展開されるのも時間の問題かと思われます』
「防衛戦争!?せ……戦争ってどういう事なんだ!」
「未来が変わり、日本の平和主義的考えは形を変えたわ。国を守る為なら戦争を惜しまない。平和は勝利の元にある。まさにかつて叫ばれていた、新左翼的思考に」
「…………」
何もかもが変わった世界。その変わりように、僕の頭は追いつけていない。人間、本当に絶望した時は喋れなくなってしまうというのは本当なんだな。
「これが未来が変わるという現実よ。一つの道を踏み外しただけで、その変貌は絶大。ある意味、必殺。そして変わってしまった世界は、その姿をもう一度取り戻す事は出来ない」
「…………」
「けれど絶望するにはまだ早いわ。戻す事は出来なくても、変えなおす事は可能。それが出来るのは、あなたとわたしだけなのよ」
「変え直す……僕が?」
「そうよ。あなたには世界が変わる以前の記憶が備わっている。そのような、世界が変わっても記憶が更新されない記憶をデュアルコア記憶と呼ぶの。数人に一人いるかいないかの貴重な記憶の持ち主。それがあなたなの」
「……そうか、だからあの時のポスターは僕には変わって見えた。そして、それに気づいた藍川は僕を雇った」
「……答え合わせをしている暇は無いわ。この会社に入った以上、あなたには未来を作り直す義務があるの」
「……分かった」
僕にしか出来ない仕事。これまで何の取り柄も無かった僕にそんな物があったなんて。
本当に、絶望するのにはまだ早かった。
「さあ四の五の言ってないで出発するわよ。早くわたしの手を掴みなさい」
「……何でだよ」
「過去に行く為よ。現代を変えるのに現代にいても仕方ないでしょ。それくらい分からないの?」
「あー……確かに言われてみれば」
「思考回路がミジンコ以下ね。情けないわ」
「僕は微生物じゃない!」
「あらそう。そんな事いいから早く手を貸しなさい」
「おっ……おう」
僕は、藍川の手をそっと握る。意外にも、温かい手だった。
「目を瞑っておきなさい」
「何でだ」
「時間酔いするからよ。タイムスリップを初めてする人間にはよくある事なの。目を閉じていないと強烈な吐き気を催すわ」
「吐き気って……オッケー分かったよ」
僕は余分に力を入れて目を瞑る。吐くのだけはごめんだからな。
「じゃあ……行くわよ」
「よし……うおわ!」
瞬間、僕の体の感覚は狂ったように消えた。残っているのは、藍川の手の感触のみ。音も臭いも……それ以外は何も無い。
目を開いて状況を確かめたくなるが、それでも僕は、頑なにそれを拒む。
そして、僕の時間感覚からすると数分経って、ようやく全ての感覚が戻ってくる。
「着いたわ。目を開けていいわよ」
「お……おう」
目を開くとそこには藍川がいた。あたり一面には水溜りが出来ており、雨の跡が残っている。
「さむっ!……どこだよここ」
「紛れも無く東京よ」
「東京?……東京ってこんなに寒かったか?」
「間違ってなどいないわ。場所も先程と全く変わらない場所よ。ただ、時代が多少異なっているだけ」
「多少?じゃあここはいつの時代の東京だって言うんだ?」
「そうね……ここは……」
藍川は腕時計を確認する。そして、ようやく僕はここで、自分が時間を越えた事を初めて思い知らされる事となる。
「一九六九年……一月一三日の東京よ」




