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「昨日の僕は……何故地図アプリという手段を思いつかなかったんだ!」
携帯電話に搭載された地図アプリを見ながら、僕は自転車に跨って路地を駆けていた。
昨日僕は、最短三〇分で帰る事の出来る道のりを、五時間もかけて帰るという、お坊さんもびっくりの苦行を果たしたのだ。あの時の僕は、幾ら戸惑っていたとはいえ、本当に馬鹿だった。いや……本当に……切実に。
「おっと……一時間も早く着いちまった。予定外だな」
セツナドライブのある、古びたビルの前で僕は自転車のブレーキを握る。
出勤時間は九時であるのだが、現在、午前八時。あまりにも早すぎる出社だ。
まあ、初めの内はこれくらい一生懸命な姿勢をとっておいた方が後々印象としては良い。決して狙っていた訳では無いのだが。
「早すぎるから、もしかしたら開いてないかもしれないな……まあとりあえず行っておくか」
僕はビルの端に自転車を止め、階段を上って三階へと向かう。
相変わらず、急な階段だ。ここに通う内に足がよく鍛えられそうだ。
「よいしょ……あれ?開いてるし」
意外にも、会社の扉は開いていた。出勤時間よりも、一時間も早く来たはずなのにだ。
意外というか、異常なまでの準備の良さに、思わず感嘆してしまう。
「……おはよーございまーす」
「おはよう喜多川君。どうやらしっかり時間厳守で来てくれたようね。まあ、これくらいは社会人としては常識のはずだから当たり前だと思うけど」
恐る恐る入ってみると、藍川さんは昨日と同じように最も奥にある席に座り、僕を出迎えてくれた。
「まあ当たり前といえば当たり前ですけど……早い出勤ですね」
「喜多川君がこの時間にここに来る事はあらかじめ分かっていたわ。そもそも、時間を守る事が出来ないと、時間を扱う職業なんて商売あがったりよ。まだ新人とはいえ、それくらい簡易に理解して貰わないと困るわ」
「はあ……すいません……」
彼女の言っている事にも一理ある。だが、これではまるで僕が遅刻をした人のようではないか。僕の中で、次々と不満が募っていく。
「……何か文句がありそうね。あるのなら言ってもいいのよ?」
「いえ……特にありません……」
「……若いのに堅物なのかしら?」
「いや……そこまでは……」
「頑固なお父さんに憧れを持っているのね……柔軟な考えを持てなくて残念だわ」
「そこまで蔑まれる様な事を僕はまだしてない!」
「自覚すらないなんて……これは相当に厄介な感じになりそうね。ちゃぶ台をひっくり返して怒鳴るだけの論理的思考の皆無な人間になると見たわ」
「昭和のお父さんを馬鹿にするな!……あっ!す、すいません!!」
思わず、突っ込みを入れてしまう。勢いが故に、相手が上司である事を忘れていた。なんて事だ……僕って奴は、本当に馬鹿だ。
「フフ……どうやら肩の力は抜けたようね。気にする事はないわ。こんな事で首を切るほど、わたしの気は下等生物のように短くはないわ」
「そ……そうっすか」
「それに、わたしに敬語を使う必要性は無いわ。年齢はあなたと変わらないし、変に敬語を使われて、周囲からあなたより年上扱いされる方がよっぽど気に食わないわ」
「は……はあ」
「じゃあ早速だけど、あなたの初仕事について説明させて貰うわね」
「説明って……おおっ!」
藍川がボタンを押すと、天井から突然白いスクリーンが僕の目の前を落下し、その先端が床ギリギリで留まる。
更に、それとセットでプロジェクターの光がスクリーンに投射され、スクリーンには図のような物と活字の羅列が表示される。
「ここはカラクリ屋敷か何かかよ……」
「そうね……今度隠し扉と抜け穴を作っておこうかしら?」
「会社としての本来の主旨が失われようとしている!」
「いいじゃない。バラエティ性に富んでいて。良い営業文句になりそうだわ。毎日社員が手裏剣を投げ合っていて、明るい職場じゃない」
「その背景には血みどろの画しか僕には浮かばない!」
「まあいいわ。冗談はさておき、とりあえず適当に席に着きなさい」
「あ、ああ……」
僕は藍川の指示通り、近くにあった椅子を手に取り、それに座る。
「では、説明を始めるわね。今回あなたには少し前の過去に行って貰うわ」
「……はい?」
藍川のぶっ飛んだ発言に、僕は思わず愕然としてしまう。本気で言っているのだろうか?
「信じられないといった表情ね。まあ無理も無いわ初めてなのだから。けれど……今回の仕事は決して、あなたにとって他人事では済まされないものになると思うわ」
「他人事では済まされない?どういう事だ?」
「そうね……全部スライドで見せようと思ってたけど、実物を見せた方が実感が湧くかもしれないわね。未来を変えられるという恐怖が」
「未来を……変えられる?」
「着いてきなさい。と言っても、あなたの方がゆかりのある場所かもしれないわね」
僕の先頭に立ち、藍川はオフィスの扉を開く。僕にとっての、未来を変えられる恐怖。それが一体何の事なのかは分からない。けれどそれは、僕にゆかりのあるものらしい。
踏み込むのには少なからず恐怖心があったが、それと同時に僕には、その未来が一体何なのかという好奇心もあった。……いいだろう、その変えられた未来の恐怖とやらを見てやろうじゃないか。
先延ばしにしたところで、僕がその未来を見る事を、避ける事は出来そうにないのだから。




