003
「ああ~!いっぱい買い物しちゃったよ」
「はあ……そうっすね……」
一時間くらい居たのだろうか、雑踏から抜け出した僕は既に疲れきっていた。
それに比べて、麻子さんは全くそのような素振りを見せようとしない。その溌剌っぷりは、呆れを通り越して、尊敬に値するほどだ。
年をとっても元気な理由が、何となく分かった気がする。
「あれ?そういえばお兄ちゃんはどこ行ったんだろ?」
そう言って、麻子さんは首を傾げてみせる。
「えっ?店の前で待ってるって……」
「でもいないよ?」
麻子さんの言う通り、そこには浩二さんの姿はどこにも無かった。
あれから一時間も経ったんだ。もしかしたら、近場にいるかもしれない。
「探してみよっか?そんなに離れた所にはいないと思うし」
「そうだね。お兄ちゃん靴が好きだからもしかしたら見て回ってるのかも」
「へえ、靴好きなんだ」
「うん。だから家にはお兄ちゃん専用の靴箱があるんだよ。多分今日家に帰ってきたのも、お気に入りの靴を取りに帰って来たんじゃないのかなって思うんだよね」
「なるほど、それで麻子さんに見つかったんだ」
「あれは偶然だったね~。目覚まし時計が早く設定されてて飛び起きたら、表の扉が開く音がしたから誰かなって見てみたらお兄ちゃんだったんだよ」
「本当に偶然だな」
「偶然が重なってむしろ必然になったって感じだね、うん」
笑顔で浩二さんの事を話す麻子さんを隣に、歩きながら、話を聞きながら、お気の毒にと浩二さんを哀れんでいると、僕たちはある家電専門店のディスプレイの前を通りかかった。
そこには箱型のレトロなカラーテレビが陳列されている。時代観を彷彿とさせる代物ではあったが、それ以上に僕は、そのテレビに映っている映像に衝撃を受けてしまった。
『繰り返し速報です。先程警視庁が正式に機動隊を東京大学に派遣する事を発表致しました。警察側は長期間に渡り全共闘学生と意見を交わし、東京大学のバリケードの開放を要求していましたが、依然、暴力的な手段を使い占拠を続ける全共闘学生との意見の合致は不可能と判断し、警察力を導入。バリケードの強制撤去に踏み切る事を決定しました。なお、撤去作業は現在のところ一八日に行われるとの発表がされています』
「バリケードの強制撤去だと……まさか……」
安田講堂事件。僕の脳裏にはすぐにこの言葉が出てきた。
共学共闘会議と警視庁機動隊が攻防戦を繰り広げた一九六九年を代表する一大事件。悪い予感しかしない。
一気に血の気が引いていくのが、分かる。
「これって……もしかしてお兄ちゃん、このテレビを見ていなくなったんじゃ!?」
「可能性は……あるな」
むしろ、この状況でそれ以外は考えられない。
タイミングが、悪過ぎた。
「そんな……いや、まだ諦めるには早いよ!これって速報でしょ?だったらまだこれを見て間もない……もしかしたらまだ近くにいるかも!」
「確かに……よし、二手に分かれて探そう!」
「そうだね!じゃあここでまた合流しよ」
「了解!」
それから僕は麻子さんと分かれ、浩二さんを探す事にした。もしかしたら、藍川が朝慌てていたのはこの事だったのかもしれない。
僕とした事が、余りにも考えが浅はかだった。藍川から二人をしっかり守れと言われていたのに、こんな失態を犯すなんて……やっぱり僕は、相当な馬鹿だ。救いようの無いくらいに。
「はあ……はあ……あっ……あれってもしかして……」
僕が走って浩二さんを探していると、池袋駅近郊、そこで僕は浩二さんらしき後姿を見つけた。
浩二さんであるという確信は無いけれど、声を掛けてみるしかない。僕はその人の下へ駆け寄った。
「はあ……はあ……あ、あの……」
「ん?あっ……」
振り返った顔は、浩二さんその物だった。というより、浩二さんだった。どうやら間に合ったみたいだ。
「何一人で……はあ……はあ……抜け出そうとしてるんですか……」
「……速報見なかったのか」
浩二さんの目は、真剣で、殺気で満ち溢れている。でも、こんなところで怯む訳にはいかない。
「はあ……はあ……見ましたよ。見たからもしかしたらって思って探したんですよ」
「そうか……という事はそんなに説明する必要は無さそうだな」
「……東京大学に行くんですか」
「そうだ。これを聞いて奴らが動き出さないとは思えんからな……来たる時に備える為にな」
「来たる時……バリケード撤去の行われる一八日の事ですね」
「ほう……勘がいいな。反対派の勢力と全共闘の勢力については話したかな?」
「確か、反対派勢力が約七〇〇人に対して、共学共闘会議は約二〇〇〇人でしたっけ?」
「そうだ。正直、このまま突っ込んだとしても、圧倒的人数の差で敗北する事は間違いないだろう。だが、今回の警視庁の決めた機動隊の導入。これを上手く利用出来れば……勝機は必ずある!」
浩二さんは僕の目の前で自らの拳を硬く握ってみせる。おそらく、自分の意志を曲げる事は無いと、僕に暗に示しているのだろう。
たった一度きりのチャンス。それを逃すまいと浩二さんは必死だ。
まるでそう、僕がセツナドライブに入社を決める前と同じ心境だ。目の前の物を必死に掴みたいと思ってしまう、あの時のよう。
「……麻子と母さんには悪いと思っている。だが、悪い物は誰かが変えていかなければならない。その変える誰かがたまたま俺だっただけなんだ……だが、やるからには徹底的にやらなければならない。だからこの機を逃す事は俺にとって許されない事なんだ。刹那君、もし君が俺の障害になるのだとしたら、俺は君を倒して越えていかなければならなくなる……それだけは……避けたい」
「…………」
「分かってくれ……」
新左翼の世界に、平和主義の世界。浩二さんに与えられた選択肢は、とてつもなく大きいものだった。
それを自覚しているかどうかは分からないが、それでも、反対運動を起こすという固い意志を持っている事には変わりない。
それに、僕達のここへ来た理由。平和主義の世界を取り戻すという目的を果たすには、僕は浩二さんをここで止める事が出来ない。見てみぬふりを、演じるしかなかった。
「……その代わり浩二さん、一つお願いがあります」
「何だ?」
「絶対に戻って来てください。家族を悲しませない為にも……絶対に」
「……当たり前だ」
その一言を残して、浩二さんは池袋駅へと向かって行く。僕はその後ろ姿を、ただただ佇んで見ている事しか出来なかった。