老婆と華子
<一>
「お母さん。今日も暑くなるからしっかり水分とってね。冷蔵庫にジュースと冷たいお茶が入っているから」
華子の出勤だ。
私は玄関まで華子をお見送りに行った。しかし、既に玄関に華子の姿はない。窓の外には駅へ向かう華子の後ろ姿が見える。
――せっかちね。スカートの裾が折れ曲がってる。
朝からムッとするような暑さに、華子は首筋の髪をさっと一度大きくかきあげて風を入れた。それから小走りに駅のほうへと向かった。
私は年をとりすぎた。今ではほとんど外出することはない。ほとんど体を動かすことはないので、昼食は摂らない。朝夕の一日二食だ。
華子が準備してくれていた朝食を摂り終えてから、ソファーの上で少し横になる。そこでうとうととしながら、昔のことを思いだすのが今や私の日課になってしまった。
◆◇◆
風香る初夏の公園。
夕方に木陰になったベンチには私と華子が並んで座っている。華子はトートバッグからバスケットと冷たいカフェラテを取り出し、自家製のサンドウィッチをつまみ始めた。
――私の分は?
「うふっ。オイシイ……」
華子は微笑みながら私の方を見た。
――だから、私の分は?
「うふっ。よく冷えてる。カフェラテ……」
私はふうっと、ため息をついて心の中でつぶやいた。
――そう。華子ってこういう人間。それが悪いところでもあり、かわいいところでもあるのよね。
サッカーボールがベンチのもとへ転がってきた。そして一人の男の子が走って来た。
足もとへ来たボールを華子は停めてベンチから立ち上がった。ちょんと前の方へボールを蹴ってから彼女は二・三歩助走をつけた。
「えいやあっ!」
……ばしーん!
サッカーボールは華子のつま先を離れ斜め右側にすっ飛んでいった。ボールは丈の低い金網を超えてその向こう側にあるどぶ川に消えた。音だけが異様に大きく響いた。
……ぼっちゃーん!
子供がボールを目で追いかけて呆気にとられている。
華子は「ごめん!」と言い、顔の前で合掌しながら、ボールの方へ急いで走り出した。長めのスカートの裾をつかみながら草むらをがに股で走り、低い金網を一気に跳び越えた。年の割には機敏な動きである。
しかし後の方のつま先が金網の一番上に引っ掛かり、華子の姿はそのまま金網の向こう側へ消えた。
……どっぽーん!!
またも、ひときわ大きな音が辺りに響き渡った。
そして少年は泣き出した。
<二>
華子はとても優しい子だった。そして、彼女は今でも優しい。
その彼女も、どうやら最近、会社でかなり年上の男性にプロポーズされたようである。しかし、彼女は翌日これをあっさりと断った。
私は、最近特に体が動かなくなってきている。彼女はそのことを気遣ってくれているのかもしれない。彼女はそういう人間だ。
私は歩くことはできるが、外出は自信がない。そしてまな板一つ、包丁一本、握ることができないのだ。
彼女はあまり体格が良い方ではないが、時々私を軽々と抱き上げベッドに寝かせてくれる。私は自分でベッドに横になることなど全然問題なくできるのだ。あまり、年寄扱いしないで欲しいとも思う。でも、私は華子に悪いと思いながらこれに甘えてしまう。何故なのか。彼女がそうしたい、と思ってくれているからだ。彼女の好きなことをさせてあげること、そして、いつも孤独な彼女に何でもいいから満足感を味あわせてあげること。これが、優しく孤独な彼女に対する私のせめてもの恩返しだ。
◆◇◆
華子と風呂に入る。彼女は、湯船で私の顔が浸からないようにしっかりと抱きかかえてくれる。彼女はもう昔のように若くはない。ところどころのお肉が緩んできているようだ。でも、彼女が気にするので私はあまりじろじろと見ないようにしている。湯船で彼女の肩に顎をのせて目を閉じていると、もう老婆になってしまった私が若かったときのことや彼女との生活を思い出して懐かしい想いに胸がジーンとなってきてしまう。
いえ、華子はまだまだ若いのだ。私とは違う。いつ寿命を閉じてしまうかもしれない私とは違うのだ。まだまだ彼女の人生はこれからだ。
――こんな私はもう死んでしまえばいいのだ! そうしたら、彼女の人生は開けるのだ!
自暴自棄になり掛けていた私は、彼女の顔を覗き込む。
「なあに?」
華子の『にっこり』を見て、私は頭の中が真っ白になってしまう。私はどうすれば良いのかわからなくなってしまう。こんな私でも、彼女の生き甲斐の一つになっているとすれば、私は死ぬことなんて出来ない。
私が死んだときの彼女の哀しい顔を想像して思う。
出来ない。私はもう少し生きていてあげよう……、と。
本当にこれで良いのかわからない。でも、誰も答えを教えてくれる人はいない。
<三>
最近、華子の様子が少しおかしい。
ある日の真夜中のことだ。
私は妙な胸騒ぎがして彼女の方を見た。見ると、こんな真夜中に彼女は一糸纏わぬ丸裸になっている。部屋のライトも煌々と点いたままだ。私はどうしていいかわからず、じっと寝たふりをして薄目を開けていた。
彼女は裸のまま、ごそごそと洋服ダンスの奥から下着を取り出した。いえ、下着ではない。
――? 水着!?
セパレートタイプのかなり露出部分が多い『キワドイ』水着だ。彼女はそれを身に着け、姿見の前に立った。鼻歌を歌っている。しかもその歌は、聞いたこともない歌だ。
♪ 改札口で君のこと
いつも待ったものでしたぁ
…………
電車の中から降りてくる
君を探すのが好きでしたぁ ♪
耳を澄ませてよく歌詞を聞いていると、ストーカーがこっそりと通勤か通学途中の恋人に付きまとい、遠くから一人で観察しているような『絵』である。
作詞者は決してそういうつもりで詞を創ったわけではないと思う。それに、懐かしのメロディーか何かで聞いた『名曲』のような気もするし、これ以上、詞を書き続けると完全に著作権法に触れるかもしれないため、控えることにする。
華子はついにデジカメを取り出し、オートシャッターをセットして、パシャッ、パシャッ、と自分の水着姿を取り出した。何か妖しげなポーズを造りながら……。
――華子の様子が明らかにおかしい。ついに、ついに! 来てしまったのか!
華子はとても幸せそうな顔をしていた。
そういえば、華子が最近口にしていた言葉を思い出した。
「お母さん。私、好きな人出来ちゃったかもよ。どうするぅ?……」
私は見てはいけないものを見てしまったような気がして思わずタオルケットに顔をうずめた。
――ああ。華子。やっぱり。やっぱり、私がいけなかったんだ! ごめんなさい。華子!!
<四>
次の日の夜中、彼女は明らかに異常だった。
『異常』というのは、彼女の元からの性格のことを言っているのではない。
具合が悪そうなのだ。
「ああ~ん……」
顔が真っ赤だ。私は手を彼女の額に当ててみた。
――熱い!!
猛烈な発熱だ。
――どうしよう。どうしよう。早く医者を呼ばなければ……。
しかし、よく見てみると、華子は昨夜に引き続いてキワドイ水着を着けている。しかも真夜中だ。
――これはまずい。説明のしようがない。こんな時間に何をしていたんですか? と聞かれても答えようがない。
どうしたら良いのか迷っているうち、華子は突然ベッドの上で立ち上がり、部屋を出て行った。
――ちょっ、ちょっと。何? 何? どこ行くの!
彼女はトイレに駆け込んでいった。そして次の瞬間水の流れる音がした。水洗の流れ続ける音。
私は部屋で何も見なかったようにまた、狸寝入りをした。
「ああ、もうダメ……。だっ、誰か助けてえ」と華子の声。
真っ赤な顔から、今度は真っ青な顔になって華子が戻ってきた。彼女は一度大きなクシャミをしてベッドに潜り込んだ。廊下には彼女の水着が転がっている。こうなったらいよいよ救急車を呼べる状況ではない。
「ああ~ん……」
顔が真っ赤だ。私は再び手を彼女の額に当ててみた。
――熱い!!
まだ、発熱がひどい。夏風邪をこじらせてしまったに違いない。
――どうしよう。どうしよう。でも。でも……。
華子はまたしても、突然ベッドの上で立ち上がり、部屋を出てトイレに走った。そして次の瞬間、水洗の流れる音。そして真っ赤な顔から、また真っ青な顔になってベッドへ戻る華子。彼女は今度は「ゴホン、ゴホン」と咳をして「ああ~ん……」。
朝までこれが何度となく続いた。しかし華子は何とか頑張り抜いたようだ。少し落ち着いた顔をしている。
<五>
華子が玄関で大きな声で叫んでいる。
「ねえ、お母さん! みーが私のシューズにおしっこしてる! もうやだ。どうしよう」
私が玄関に行ってみると、華子の大切にしている外出用のハイヒールがびしょびしょに濡れてしまっている。シューズの周りにもおしっこが輪になって溜まっている。
「もう、やだあ! 匂い付いちゃったよう。もう、履いていくものないじゃないのよ」
かなり酷い。靴の中にもおしっこがたっぷりと溜まっている。
そのとき私と華子の目が合った。
彼女はいきなり私のお尻を叩いた。
――痛! 何するのよぅ!
そして華子は私を両手で抱き上げた。
「もう、いい加減にしてよ! みー! あんたホントに年とって呆けちゃったの!?」
私は急に悲しくなってきた。よく覚えていない。しかし、微かな記憶に残っている。華子の水洗の音を聞いているうち、自分もおしっこがしたくなり、そして玄関へ……。
――そうだ。そこで、猫トイレの砂場と間違えて華子のシューズにしゃがんでしまったんだ……。
そして、私は一生懸命彼女に謝った。
「みゃあ。みゃあ。」
「みゃあ、みゃあじゃないわよ。んもう」
華子のお母さんも玄関に来て呆れたように、しかし少し同情っぽく言った。
「まあまあ。でも、みーはもう人間の年で言えば八十歳近いのよ。猫だって呆けるんだから、大事にしてあげないと……」
お母さんはちょっと優しい。お母さんも体が動かなくなりかけてるけど、まだまだ、おしっこの場所を間違えたりはしない。
◆◇◆
――こんな私はもう死んでしまえばいいのだ! そうしたら、彼女に迷惑を掛けなくて済むのだ。彼女の人生は開けるのだ!
またしても自暴自棄になり掛けていた私は、彼女の顔を覗き込む。
そこには、笑顔ではなく華子の『涙顔』があった。
華子の涙顔を見て、私は頭の中が真っ白になってしまった。私はいよいよどうすれば良いのかわからなくなってきた。
「みー。可哀そう」彼女は言った。
「みゃあ」
「大丈夫よ。大丈夫。みー。あなたがどんなに呆けちゃっても面倒見てあげるからね」
――ううう。彼女は私の生き甲斐。私も彼女の生き甲斐の一つになっているとすれば、私は死ぬことなんて出来ない。私はもう少し生きていてあげよう……。
華子は私を抱きしめた。私は彼女の頬をざらざらの舌で舐めた。
「みゃあ」
そこには、また彼女の『にっこり』があった。
今日はまた暑くなるかもしれない。
気を付けよう。猫は暑いのが得意と言っても、老婆猫にはかなりこたえるの、にゃあ!
『老婆と華子』 <了>




