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第7章 それぞれの一歩 前編



竜司は、代官山の家に一人でいた。



竜司はソファに腰を下ろし、


なんとなくテレビをつけている。



画面では、


自分のプロ野球引退会見の様子が流れていた。



帽子を取り、短く頭を下げる。



アナウンサーは淡々と原稿を読み上げ、


最後に、こう締めくくった。



「青柳選手、お疲れ様でした」



それで終わりだった。



特番はない。


特集もない。


繰り返し流されることもない。




竜司のプロ野球人生は、


驚くほど静かに、幕を閉じた。



* * *



竜司の息子、流星は、本当は野球をやりたがっていた。


父親の背中を見て育ったのだから、


それも当然だったのかもしれない。



けれど、妻はあまりいい顔をしなかった。


「野球より、勉強をさせた方がいい」


妻が望んだのは、


都内の私立中高一貫校だった。


将来のために、きちんと勉強をさせたい。


そういう考えだった。



竜司は、強く反対することができなかった。


自分自身、プロ野球選手として生きてきたからこそ、息子にも同じ道を歩ませることが、

必ずしも幸せだとは思っていなかった。



だから、「そうだな」と答えた。



息子は今、寮生活を送っている。


芸能活動で忙しい母親。


別居していた父親。


その環境を思えば、寮に入っている方が、よほど安心だった。


本人も、寮生活を楽しんでいるらしい。


親子関係も、悪くない。



――ただ。


いつからだっただろう。


妻とは、結婚したばかりの頃は、


もっとよく話していた。一緒に食事をして、


くだらないことで笑って。



野球の話をすれば、妻も楽しそうに聞いてくれた。


いつの間にか、そんな時間は減っていた。


今では、必要以上の会話をすることもない。


「おはよう」


「行ってきます」


「帰った」


「おやすみ」


それくらい。


喧嘩をしているわけじゃない。


嫌いになったわけでもない。


ただ、いつの間にか、二人の間にあるはずの会話が、少しずつ消えていった。


それが、いつからだったのか。



竜司には、もう分からなかった。



引退後、息子の流星から、一通のLINEが届いた。


《お疲れさま!親父は、俺の自慢だよ》


胸の奥が、ほんの少しだけ、熱くなった。




ある日。


竜司が一人で家にいると、久しぶりに妻が帰ってきた。


玄関のドアが開く音がする。


しばらくして、妻がリビングに入ってきた。


着飾った服。


年齢よりもずっと若く見られる、整った綺麗な顔立ち。


芸能活動をしているだけあって、外では、今でも人の目を引く。



「ただいま」


「……あら」


妻は、ソファに座っている竜司を見つける。


「あなた、いたのね」


「ああ」


竜司は、テレビから視線を外さない。


「仕事、忙しそうだな」


「そうなの。またコスメの案件があってね」


妻はバッグを置きながら、


何気なく答える。


「来週は韓国に行くから」


「そうか」


短い返事。


妻は、部屋を見渡す。


そして、


テーブルの上に置かれた弁当の空き容器に目を止めた。


「あなた、ご飯ちゃんと食べてる?」


「ああ」


「お弁当の容器、散らかってるじゃない」


「ああ……悪い。あとで片付けるから」


「……そう」


それ以上、妻は何も言わなかった。



少しの沈黙。



妻は、ふと思い出したように竜司を見る。


「あなた、これからどうするの?」


竜司は、答えなかった。


テレビの画面を見たまま、黙っている。


妻は、少し待ってから続けた。


「いろんなところから、


オファーもらってるんでしょ?」


「……ああ」


「タイミング逃したら、仕事なくなるわよ」


責めているわけではない。


心配しているのかもしれない。


でも、その言葉が妙に遠く聞こえた。



竜司は、しばらく黙ったあと、ぽつりと言った。


「俺さ」


妻が顔を向ける。


「しばらく、埼玉に帰るよ」


「……そう」


妻は、驚いた様子も見せなかった。


「いいんじゃない?」


そして、淡々と続ける。


「私もほとんど家にいないし」


「……」


竜司は、何か言おうとして、やめた。


それでも、もう一度だけ口を開く。


「今度さ……」


妻を見る。


「みんなで、俺の実家に帰らないか?」


「……」


「両親も、流星に会いたがってるし」



その瞬間。



妻の表情が、ほんの少し曇った。


「……それ」


妻は、少しだけ目を逸らす。


「私も一緒じゃなきゃダメ?」


竜司は、何も言わなかった。


妻は、少し困ったように笑う。


「私から、


今度あなたの実家に何か送っておくから」


「……わかった」


それ以上の言葉が、竜司から出てこなかった。


妻も、何も言わない。


しばらく、気まずい沈黙だけが流れる。


やがて妻が、時計を見る。


「じゃあ、私、明日早いから。先に寝るわね」


「ああ」


妻は、それだけ言うと、


足早にリビングを出ていった。


階段を上がる足音。



やがて、二階からドアが閉まる音がした。


竜司は、一人でソファに座ったまま、


テレビを見つめていた。


画面では、知らない芸能人が笑っている。


その笑い声だけが、広いリビングに響いていた。


竜司は、ふっと息を吐いた。


そして、そっとテレビを消した。



竜司は、重い腰を上げた。


誰もいないリビングを出て、


二階にある自室へと戻る。




部屋の明かりをつける。


静かな部屋の中で、


竜司はしばらく立ち尽くしていた。




ふと、


棚の奥にしまわれていた一冊のアルバムが目に入った。


高校の卒業アルバム。


竜司は、それを手に取った。


ページをめくる。


懐かしい写真が、次々と目に飛び込んできた。


「……懐かしいな」


高校時代の友人たち。


卒業してから、ほとんど会っていない。


それぞれが別の道を歩み、いつの間にか、


連絡を取ることもなくなっていた。


そして、


野球部のページ。


竜司は、指を止めた。


写真の中央に、自分が写っている。


その隣には、カイトがいた。


二人とも、満面の笑みを浮かべている。


あの頃は、何もかもが楽しかった。


野球をして、くだらないことで笑って。


毎日が、ずっと続くような気がしていた。


竜司は、写真を見つめたまま、


ふと息を止めた。


――いつからだろう。


カイトの笑った顔を、見られなくなったのは。


胸の奥が、鈍く痛んだ。




俺のせいだ。




「……カイト」


竜司は、静かにその名前を呼んだ。


けれど。


返事はなかった。


部屋の中には、


時計の針が進む音だけが響いている。


竜司は、アルバムを閉じることができないまま、しばらく写真を見つめ続けていた。


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