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追放された侯爵令嬢の契約婚。書庫に届く湯気の理由を、私はまだ知らない  作者: 月雅


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第9話「玉座を追われる者」

公爵領の門前に、アルセーヌ王国の旗を掲げた馬車が止まっていた。


朝の光の中で、青地に銀百合の紋章がはためいている。


護衛の騎士が四名、馬車の周囲に立っていた。いずれもアルセーヌの宮廷騎士の正装だが、旅塵にまみれ、顔には疲労が滲んでいる。


リュカが駆け込んできたのは、私が私室で帳簿の整理をしていたときだった。


「エステル様。アルセーヌの外交使節が来てます。王太子殿下ご本人です」


指が止まった。


フェリクス殿下。


アルセーヌ王国の王太子。かつての婚約者。二年前、宮廷会議の場で私を断罪した人。


「ヴェルシュタット国王の許可を得て、正規の外交使節として入国してるそうっす。公爵家への滞在許可も出てます」


正規の手続きを経ている。拒むための法的根拠はない。


「ルヴァリエール殿は」


「団長は門前で使節を迎えてます。騎士団が護衛と監視を兼ねる態勢で」


リュカの声にいつもの軽さはなかった。


「エステル様に会いたいって、王太子が名指しで」


帳簿を閉じた。


会う。


その選択は、私室に閉じこもった数日間で、すでに決めていた。


逃げる理由がない。あの人が何を言いに来たのであれ、私はもうあの国の人間ではない。


「お通しください」


公爵家別邸の応接間。


壁際に騎士団の団員が二名、控えている。ヴェルシュタット側の護衛だ。


扉が開いた。


フェリクス・アルノーが入ってきた。


二年ぶりだった。


金色の髪は変わらない。整った顔立ちも、背筋を伸ばした姿勢も。しかし、目の下に影があった。頬の線が以前より鋭い。王太子の正装は仕立てが良いが、肩の辺りがわずかに合っていない。痩せたのだ。


その後ろに、アルベールが立っていた。


腰に剣帯を佩き、騎士団長の制服。表情はない。灰色の瞳がフェリクスの背中を見ている。


私はフェリクスの前で、外交上の礼をとった。公爵夫人として、同盟国の王太子に対する礼だ。


「お久しぶりでございます、フェリクス殿下」


フェリクスが足を止めた。


私を見た。


その目に、かつての自信に満ちた光はなかった。


「エステル嬢。……いや、ルヴァリエール公爵夫人、か」


声が乾いていた。


「座ってくれ。話がある」


王太子の命令形だったが、声に力がなかった。


私は椅子に腰を下ろした。フェリクスが向かいに座り、アルベールは壁際に立ったまま動かなかった。


「単刀直入に言う」


フェリクスが膝の上で拳を握った。


「マリエルの不正が、露見した」


言葉が、応接間の空気を裂いた。


「宮廷書記官の記録と照合された結果、聖女マリエル・フォンテーヌが、複数の政策文書の起案者を偽って記録させていたことが公的に確認された。備蓄管理の改善案、外交書簡の草稿、予算の調整——すべて、君が起案したものだった」


知っていた。


証拠文書を見た。書記官の添え書きを読んだ。


けれどそれは、アルベールの金庫の中にあった事実だ。アルセーヌの宮廷で、公的に確認されたわけではなかった。


それが今、王太子本人の口から語られている。


「聖女の側近が外交通信を握りつぶしていたことも判明した。外務担当官は更迭された。マリエル本人は——神殿に戻された。聖女の称号の扱いは、神殿と宮廷の協議に委ねられている」


フェリクスの声は淡々としていた。


事実を報告しているだけの口調だった。けれど拳の力は抜けていない。


「それで、私に何の御用でしょうか」


「名誉回復だ」


フェリクスが顔を上げた。


「ヴァランティーヌ侯爵令嬢エステルに対する断罪は不当であったことを、宮廷会議で正式に撤回する。宮廷への出入り禁止も解除する。そして——」


言葉を切った。


唇が引き結ばれた。


「帰国を、要請する。あの国には君が必要だ。備蓄管理も、行政機能も、君がいなくなってから——」


「もう遅い」


静かに言った。


フェリクスの言葉が途切れた。


「もう遅いのです、フェリクス殿下」


声は震えなかった。


「二年前、あの宮廷で何が起きたか、殿下はご存じのはずです。私の仕事に名前はありませんでした。聖女に功績を移し替えられても、誰も疑問に思わなかった。殿下も、です」


フェリクスの目が揺れた。


「あの時点では——そう判断せざるを得なかった」


「ええ。殿下はいつもそうおっしゃいます」


フェリクスの顔が強張った。


壁際のアルベールが微かに動いた。腕を組み替えただけだったが、フェリクスの肩がわずかに震えた。隣国の公爵で騎士団長である男の存在が、この応接間ではそのまま圧力になっている。


「名誉の回復はお受けします。不当な断罪の撤回は、当然のことですから」


フェリクスの目に、一瞬だけ安堵が浮かんだ。


「しかし帰国はいたしません」


安堵が消えた。


「私はもうあの国の宮廷官ではありません。ルヴァリエール公爵領で、自分の仕事があります」


「しかし、備蓄管理の再建には——」


「二年間、私がいなくても回っていたのでしょう。回らなくなったのは、私の不在ではなく、管理の仕組みを引き継がなかった宮廷の問題です」


フェリクスが黙った。


反論ができないのだ。事実だからだ。


沈黙が長く続いた。


フェリクスが立ち上がった。


椅子を引く音が、静かな応接間に響いた。


「……分かった」


声が小さかった。


王太子の威厳は、もうそこにはなかった。二年前の宮廷会議で断罪を宣言した、あの自信に満ちた声とは別の人間のようだった。


「名誉回復の書簡は、正式な手続きを経て送付する」


「ありがとうございます」


私は立ち上がり、礼をとった。


フェリクスが扉に向かった。


その背中は、二年前より小さく見えた。


扉の前で、フェリクスが足を止めた。振り返らないまま、低い声で言った。


「君より有能な人間が隣にいることに、俺は耐えられなかったのだろう。……そう判断せざるを得なかった、のではなく」


それだけ言って、フェリクスは応接間を出ていった。


護衛の騎士たちの足音が廊下に遠ざかっていく。


応接間に、私とアルベールが残された。


アルベールは壁際に立ったまま、動かなかった。


私もしばらく立っていた。


フェリクスの最後の言葉が、耳の中で繰り返されている。


有能な人間が隣にいることに、耐えられなかった。


それが、断罪の根底にあったもの。


二年間、知りたくて、知りたくなかった答えだった。


「エステル殿」


アルベールの声がした。


振り向かなかった。


「私は——もう隠さない。だが、君に対して何かを言う資格が——」


「少し、一人にしてください」


アルベールの言葉が止まった。


数秒の間があった。


「……分かった」


足音が遠ざかり、扉が閉まった。


応接間に一人、座り直した。


窓から午後の光が差し込んでいる。


フェリクスの哀れな姿を見て、胸がすくような感情は湧かなかった。


ただ、終わった、と思った。


あの国との関係が、ようやく一つの区切りを迎えた。


椅子の背にもたれ、天井を見上げた。


アルベールのことを考えた。


贖罪だと言った。罪悪感だったのかと問い詰めて、否定できなかった。


あの夜から、私はアルベールを避けていた。朝食の席にも出ず、書庫でも顔を合わせないようにしていた。


けれど今日、フェリクスとの面会の間、アルベールは壁際に立っていた。


何も言わず。口を挟まず。ただ、そこにいた。


護衛と監視を兼ねる立場だった。騎士団長として当然の配置だ。


それだけのはずだ。


でも。


贖罪だけで、あの場に立つだろうか。


書庫に湯を届けたこと。蝋燭を明るいものに替えたこと。食堂で隣に座ったこと。傷の手当てを受けながら顔を赤くしていたこと。「君がいなければ、こうはならなかった」と言ったこと。何も持たずに書庫に来て、ただ隣に座ったあの夜のこと。


贖罪だけでは、説明がつかない。


その事実が、怒りの下から静かに浮かび上がってくる。


怒りは消えていない。裏切られたという痛みも消えていない。


けれど、あの人の行動の一つ一つを思い返すと、贖罪という一語では括りきれないものが、確かにそこにあった。


窓の外で、アルセーヌの旗を掲げた馬車が門を出ていくのが見えた。


契約の最終期限は、明日だ。


私は椅子から立ち上がった。


応接間を出て、廊下を歩いた。


私室に向かう途中、ふと足が止まった。


アルベールの執務室の前だった。


扉の向こうに、気配がある。


何かを言いに行くべきなのか。それとも、まだ早いのか。


分からなかった。


分からないまま、私室に戻った。


扉を閉めて、窓辺に立った。


馬車はもう見えなかった。


明日で、契約が終わる。

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