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追放された侯爵令嬢の契約婚。書庫に届く湯気の理由を、私はまだ知らない  作者: 月雅


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第8話「金庫の中身」

「——なぜ、これがあなたの書庫に」


声が震えていた。


自分の声だと気づくのに、一拍かかった。


書庫の机の上に、一冊の綴じが開いている。


騎士団の外交視察報告書。二年前、アルベールがアルセーヌ王国を訪問した際の記録だ。


数日前から気になっていた一文を追って、書架の奥から引き出したものだった。


「アルセーヌ宮廷書記官より受領」。


外務局の報告書に添えられていた、事務的な参照指示。その関連文書が、この視察報告書の中にあるはずだった。


報告書の本文には、外交上の儀礼的な内容しか書かれていなかった。


しかし末尾の受領記録に、一行だけ不自然な記載があった。


「添付文書一件、団長私室にて保管」


添付文書。


公式の報告書に綴じられず、団長の私室に移された文書。


騎士団の文書管理の外に置かれたということだ。


私は視察報告書を持って、書庫を出た。


アルベールの執務室の扉を叩いた。


「入れ」


短い声。いつも通りだった。


扉を開けると、アルベールが机に向かっていた。制服の襟元を緩め、手元の書類に目を落としている。


「ルヴァリエール殿。お時間をいただけますか」


「ああ。何か」


「外交視察報告書についてお訊きしたいことがあります」


報告書を机の上に置いた。


開いた頁を示す。末尾の受領記録。「添付文書一件、団長私室にて保管」の一行。


アルベールの手が止まった。


灰色の瞳が、その一行を見つめている。


「この添付文書は、どのような内容ですか」


沈黙が落ちた。


アルベールの指が、机の端で組まれた。力が入っている。


「……見たのか」


「この記載を見つけました。中身は見ていません。団長の私室にあるものに、私が触れる権限はありませんから」


私室の不可侵。契約書に明記された条項だ。


アルベールが椅子の背にもたれた。天井を仰ぎ、数秒、目を閉じた。


それから立ち上がった。


「来てくれ」


短い言葉だった。


アルベールの私室は、執務室の奥にあった。


一度も入ったことのない部屋だ。契約の条項に従い、互いの私室には立ち入らない。二年間、一度も破らなかった取り決めだった。


アルベールが扉を開け、私を中に通した。


質素な部屋だった。寝台と机と書架。窓際に剣架。それだけの空間。


書架の横に、鉄製の小さな金庫があった。


アルベールが鍵を取り出し、金庫を開けた。


中から、革紐で束ねられた文書を取り出す。


数枚の紙だった。


私の手に渡された。


一枚目を開いた瞬間、指が凍った。


見覚えのある書式だった。


アルセーヌ王国宮廷の公文書書式。備蓄管理に関する政策提案書。


私が書いたものだ。


正確には、私が書いた政策提案書の原本の写し。宮廷書記官が正式に複写し、署名と日付を添えたもの。


二枚目。


書記官の添え書きが付いていた。


「本政策提案書はヴァランティーヌ侯爵令嬢エステルの起案による。宮廷記録においては聖女マリエル・フォンテーヌの助言として記載されているが、原本の筆跡および起案日の記録との照合により、記載の齟齬を確認。本書を外交視察団に託し、保全を依頼する」


文字が滲んだ。


涙ではない。手が震えているのだ。


聖女が私の功績を横取りした証拠。改竄の事実を立証する文書。


それが、二年前からここにあった。


「ルヴァリエール殿」


声を出した。


低く、硬い声が出た。


「この文書を、二年前からお持ちだったのですか」


「ああ」


「なぜ——」


言葉が詰まった。


なぜ黙っていた。なぜ見せなかった。なぜ、私がこの家に来てから二年間、一度も。


「外交視察の最終日に、宮廷書記官から密かに託された」


アルベールの声は低く、平坦だった。


「俺はアルセーヌの宮廷で、断罪の場に立ち会っていない。視察が終わった後で事の次第を聞いた。書記官が証拠を託してきたのは、帰国の前夜だった」


「それで」


「外交ルートで証拠をアルセーヌ王宮に通達しようとした。しかし——届かなかった」


「届かなかった」


「外務担当官が聖女派だった。通達は握りつぶされた。三度試みて、三度とも」


アルベールが金庫に手をついた。


「外交ルートでは動かせなかった。ヴェルシュタットからアルセーヌへの直接介入は、同盟国であっても国王の裁可なしには——」


「そんなことを訊いているのではありません」


自分の声が、思ったより鋭かった。


アルベールが言葉を切った。


「なぜ、私に見せなかったのですか」


沈黙が落ちた。


長い沈黙だった。


「……言う資格がなかった」


「資格」


「断罪を止められなかった。証拠を手に入れたのは、すべてが終わった後だった。俺は——何もできなかった」


アルベールの声が、かすかに震えた。


「契約結婚を申し出たのは、条件が合ったからだけじゃない」


「……何ですか」


「贖罪だ」


その一語が、書庫の空気を凍らせた。


「あの場にいて、止められなかった。証拠を届けることもできなかった。せめて——行き場のなくなった君に、安全な場所を。それが、俺が契約を申し出た理由だ」


指先が冷えていた。


文書を持つ手が、小刻みに震えている。


贖罪。


この二年間の優しさは、全部。


書庫の蝋燭を替えたのも。夜遅くに湯を届けたのも。兵站の委任を広げたのも。食堂で隣に座ったのも。傷の手当てを受けながら「すまない」と言ったのも。


全部、罪悪感だったのか。


「この二年間の優しさは全部、罪悪感だったの」


敬語が消えていた。


自分でも気づいていなかった。


アルベールが顔を上げた。灰色の瞳が、私を見た。


否定の言葉は、出なかった。


「……違うと言い切れない」


その答えが、何よりも正直で、何よりも残酷だった。


文書を机の上に置いた。


丁寧に。折り目がつかないように。


「証拠文書は、お返しします。これはあなたのものです」


「エステル殿——」


「ルヴァリエール殿」


声が、自分のものとは思えないほど静かだった。


「私は替えのきく人間でした。あの国で。どこにいても。……ここでも、そうだったのですね」


アルベールの表情が、初めて歪んだ。


「違う。それは——」


「贖罪の相手なら、誰でもよかったはずです。たまたま私が、条件に合って、行き場がなかっただけ」


「違う」


「何が違うんですか」


アルベールが口を開き、閉じた。


言葉が出てこない。この人はいつも、本当に伝えなければならないときに、言葉を失う。


私は一礼した。


深く、正確に。公爵夫人として、当主に対する礼を。


「失礼いたします、ルヴァリエール殿」


部屋を出た。


扉を閉めた。


廊下を歩いた。


足音が石の床に響く。一定の速さで。乱れないように。


私室の扉を閉めて、鍵をかけた。


椅子に座った。


机の上に、マルグリットが届けてくれた香草茶の茶器があった。


冷めている。


手を伸ばして、茶器に触れた。


陶器の冷たさが指先に伝わった。


贖罪で必要とされていたのか。


やっぱり、私は。


替えのきく人間だった。


涙は出なかった。


出ないほうが、ずっと苦しかった。

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