第7話「噂の重さ」
二年前、あの国を追われた。
その事実を、今はもう痛みなく思い出すことができる。 少なくとも、そう思っていた。
書庫の机の上に、外交報告書の写しが置かれていた。 ヴェルシュタット王宮外務局が騎士団に配布した、最新の定期報告だ。アルベールが受領し、リュカが整理したものの中に、アルセーヌ王国に関する記述があった。
私は兵站の記録を整理する延長で、書庫の外交記録に目を通すことがある。アルベールが過去の記録の整理を委任した範囲の延長として、最新の配布文書も閲覧できる状態にあった。
報告書の該当箇所を読んだ。
「アルセーヌ王国において、行政機能の低下が顕著。備蓄管理体制の崩壊により王都の物価が高騰。外交関係においても、同盟諸国との信頼関係に亀裂が生じている旨、複数の筋から確認。聖女の加護による行政支援は実効性を伴わず、宮廷内部の動揺が広がっている模様」
外交文書だ。 商人の噂ではなく、外務局が確認した情報だ。
これまで断片的に伝わってきた噂が、公文書の上で一つの形になっていた。
備蓄管理の崩壊。物価の高騰。外交関係の亀裂。聖女の加護では国政は立て直せないという現実。
あの国で、私がやっていた仕事の穴が、取り返しのつかない大きさに広がっている。
報告書を机に置いた。
もう関係ない。
私はあの国の人間ではない。追放され、自主転居という体裁で国を出た。宮廷への出入りも禁じられた。あの国の行政がどうなろうと、私にできることは何もない。
椅子の背もたれに体を預けた。
もう関係ない、と言えるようになった。 それは確かだった。半年前の私なら、この報告書を読んで手が止まっただろう。今は違う。ここでの仕事があり、ここでの居場所がある。
けれど胸の奥が、かすかに痛む。
私が管理していた備蓄が崩壊したということは、あの国の民が困っているということだ。物価が上がれば、最初に苦しむのは市場で食料を買う平民たちだ。
彼らは何も悪いことをしていない。
扉が開いた。 マルグリットが茶を運んできた。
「エステル様。外務局の報告書をお読みになったのですね」
「ええ」
マルグリットが机の端に茶器を置き、少し間を空けてから口を開いた。
「あの国は、あなたを失ったのですよ」
静かな声だった。 事実を述べているだけの、感情を抑えた言い方だった。
「……そうかもしれません」
「そうです」
マルグリットの口調が、わずかに強くなった。
「備蓄の管理も、外交書簡の整理も、予算の帳尻合わせも。あの国で誰にも名前をつけてもらえなかった仕事は、あなたがいなくなって初めて穴が空いたのです」
返す言葉がなかった。
マルグリットは深く一礼して、書庫を出ていった。
茶器を手に取った。 温かい。いつもの香草茶だった。
もう関係ない。 そう言い切れる自分がいる。
それでも、あの国の民のことを思うと、胸の底がうずく。 それは怒りではなく、悲しみでもなく、ただ重い。
茶を一口飲み、報告書を元の場所に戻そうとして、手が止まった。
報告書の末尾近くに、見覚えのない記述がある。
「補遺:過去の外交視察記録との照合において、アルセーヌ宮廷書記官より受領した関連文書の確認が推奨される」
短い一文だった。 外務局の担当官が書き添えた、事務的な参照指示だろう。
アルセーヌ宮廷書記官より受領。
この書庫には、騎士団の過去の外交視察報告書が保管されている。アルベールが二年前にアルセーヌを外交視察した際の記録も含まれているはずだ。
気になったが、今は追う時間がない。
報告書を棚に戻した。
夜。
書庫に一人で残っていた。 兵站の月次報告書をまとめ終え、羽根ペンを置いた。
窓の外は暗い。蝋燭の灯りが机の上を照らしている。
扉が開く音がした。
振り返ると、アルベールが立っていた。
今日は何も持っていなかった。 湯も、書類も、何も。
ただ、書庫に来て、私のいる部屋に入ってきた。
「ルヴァリエール殿。何か」
「いや。……まだ、いたのか」
「月次報告を仕上げていました。今終わったところです」
アルベールは数歩進み、書架の横で足を止めた。
そして、私の向かいの椅子を引き、腰を下ろした。
何も言わなかった。 書類を持ってきたわけでもない。報告を求めているわけでもない。
ただ、隣に——正確には向かいに——座っている。
備蓄倉庫の棚卸しをしていた夜、この人は湯を置いて去った。 今日は何も持たずに来て、去らない。
沈黙が、書庫の中を満たした。
蝋燭の灯りが揺れる。 アルベールの横顔が、その光の中にある。灰色の瞳が、書架の背表紙をぼんやりと眺めている。
「外交報告書を、読みましたか」
私が訊いた。
「ああ」
「アルセーヌの状況が、公文書で確認されました」
「知っている」
短い返答だった。 アルベールの視線が、書架から私に移った。
「君は」
言葉が止まった。
「君は——」
アルベールが何かを言おうとして、口を閉じた。 視線が手元に落ちる。組んだ指の力が、少し強くなったように見えた。
「……何でもない。遅くなっている。休んでくれ」
立ち上がり、椅子を戻し、書庫を出ていった。
一人になった。
アルベールが何を言おうとしたのか、分からない。 分からないけれど、あの人が言葉を飲み込む癖を、私はもう知っている。
契約の期限のことだろうか。 更新するか、しないか。その話をしなければならない時期が近づいている。
好意を自覚している。 それは、もう否定できない。訓練場であの人の腕に触れたとき、手が震えた。食堂で隣に座られたとき、胸が温かくなった。感謝状を読んだ夜、「君がいなければ」と言われたとき、嬉しいのに苦しかった。
好意がある。ある。
でも、契約だから。
期限が来れば、終わる。 更新は双方の合意が必要だ。私が望んでも、アルベールが望まなければ成立しない。
そして私は、自分から「更新してほしい」とは言えない。 それは好意の告白と同じだから。契約の枠を超えてしまうから。
蝋燭が短くなっていた。 灯りが弱くなる前に、書庫を出なければ。
机の上を片付けた。 報告書を棚に戻し、インク壺の蓋を閉め、羽根ペンを布で拭いた。
ふと、目の端に書架の一角が映った。
外交視察報告書の綴じがある場所だ。 今日の報告書の末尾に書かれていた「アルセーヌ宮廷書記官より受領」の一文。
その関連文書が、あの書架のどこかにあるはずだ。
今日は時間がない。 けれど、近いうちに確認したほうがいいかもしれない。
蝋燭を吹き消し、書庫を出た。
廊下は暗く、窓から差し込む月明かりだけが石の床を照らしていた。
私室に向かって歩きながら、胸の中で二つのものが並んでいた。
あの国が壊れていく重さと、この場所にいたいという願い。
もう関係ない、と言える自分と、それでも痛む胸。
契約だから、と言い聞かせる自分と、隣に座ったアルベールの沈黙。
私室の扉を閉めた。
月明かりが窓から細く差し込んでいる。
契約の期限まで、あと三ヶ月と少し。




