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追放された侯爵令嬢の契約婚。書庫に届く湯気の理由を、私はまだ知らない  作者: 月雅


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第6話「国王の感謝状」

大規模演習の兵站計画書を、机いっぱいに広げていた。


駐屯地の会議室。壁には公爵領の地図が掛かり、机の上には物資の輸送経路図、人員配置表、天候による予備日程の一覧が並んでいる。


演習は三日間。参加人数は騎士団の全兵力に加え、近隣の領地から招かれた視察団を含めると五百名を超える。食事だけで一日三回、三日分。水の確保、天幕の設営、負傷者の搬送経路、予備の武器と消耗品の配置。


棚卸しや補給路の見直しとは規模が違う。 一つの判断の誤りが、五百人分の混乱になる。


「エステル殿」


会議室の扉が開き、アルベールが入ってきた。 右腕の傷はすでに塞がり、制服の袖の下に薄い包帯が残っているだけだった。


「輸送計画の最終確認を頼みたい。明後日には国王の視察団も到着する」


「はい。最終版を今日中にまとめます」


アルベールが机の上の計画書に目を落とした。 数枚の紙を手に取り、輸送経路図と人員配置表を並べて見比べる。


「……よく組まれている。補給の中継点をここに置いたのは君の判断か」


「はい。地形と距離から、ここが最も効率的です。リュカに実地の確認を依頼して、水場が近いことも確認済みです」


アルベールが頷いた。


「失敗すれば公爵家の面目に関わる」


それは私も分かっていた。 演習は騎士団の練度を示す場であり、国王の視察団が来るということは、公爵家の評価に直結する。


そして、その兵站を取り仕切るのは、契約婚の夫人だ。


「オディール様から、何か」


訊かずにはいられなかった。


アルベールの表情がわずかに硬くなった。


「叔母上は——失敗すれば契約解消の理由になる、と」


予想はしていた。


オディールは、演習の失敗を私の退去の口実にしようとしているわけではないだろう。ただ、事実を述べただけだ。契約夫人が公爵家の公的行事を失敗させれば、それは契約の継続を疑問視する材料になる。


「承知しました。失敗しなければよいだけのことです」


アルベールが私を見た。 灰色の瞳の奥に、何か言いたげな色があった。しかし口を開かず、計画書を机に戻した。


「任せる」


二文字だけを残して、アルベールは会議室を出ていった。


演習初日。


夜明け前から動いた。 リュカと補給班が中継点に物資を運び込み、食事の準備は炊事班と連携して定刻通りに整えた。


私は中継点と本営の間を行き来し、物資の消費状況を帳簿に記録しながら、不足が出そうな箇所を先回りして手配した。


二日目の昼に、天候が崩れた。 予備日程の想定通り、雨天に切り替えた。天幕の増設と排水路の確保をリュカに指示し、食事の提供場所を屋根のある兵舎に移した。


三日目。 天候は回復し、演習は最終日の総合訓練に入った。


物資の残量は計画の想定内。負傷者の搬送は二件あったが、いずれも軽傷で医官が対応済み。食事は全日程で定刻提供を達成した。


演習の終了を告げる号令が訓練場に響いたとき、私は中継点の天幕の中で帳簿を閉じた。


リュカが天幕に駆け込んできた。


「終わったっすよ、副団長。大成功っす」


「お疲れ様でした、リュカ。補給班の皆さんにも伝えてください」


「いやいや、エステル様の計画がなかったら無理でしたって。雨の日の切り替え、あれ事前に全部決めてあったから混乱ゼロっすよ」


リュカが額の汗を袖で拭いながら、歯を見せて笑った。


演習から一週間後。


書庫で報告書をまとめていると、マルグリットが静かに扉を開けた。


「エステル様。お手紙が届いております」


マルグリットの声に、いつもと違う響きがあった。


差し出された封書を見て、指が止まった。 王宮の紋章が押された蝋封。ヴェルシュタット国王からの書簡だった。


封を開いた。


短い文面だった。 先日の大規模演習における兵站管理が極めて優れていたこと、ルヴァリエール公爵領の騎士団の練度に加え、後方支援体制の充実を高く評価すること。末尾に、公爵家宛ての感謝状であることが記されていた。


国王からの感謝状。 公爵家宛てだが、兵站管理を名指しで評価している。


「エステル様」


マルグリットが一歩近づいた。


「わたくしから一つ、申し上げてもよろしいでしょうか」


「はい」


マルグリットが姿勢を正し、深く頭を下げた。


「今後はエステル様、とお呼びしてもよろしいでしょうか」


息が詰まった。


マルグリットは、これまで私を「奥様」と呼んでいた。 契約婚の夫人に対する、形式的で丁寧な呼び方だ。


「エステル様」は違う。 公爵夫人として、この家に属する人としての呼び方だ。


「……ええ。もちろんです」


声が少しだけ揺れた。 マルグリットが顔を上げ、微かに目を細めた。それは笑みと呼ぶには淡すぎたが、温かかった。


夕食の席。


アルベールが感謝状を読み終え、食卓に置いた。


「国王が兵站を名指しで評価するのは珍しい。演習の報告書に目を通されたのだろう」


「公爵家宛てのものですから、ルヴァリエール殿の功績です」


「俺は剣を振っていただけだ。兵站の計画と運用は、君が全てやった」


アルベールの声は、いつもの短い言葉とは違っていた。 一文が長い。目を合わせている。


「君がいなければ、こうはならなかった」


食堂の空気が変わった気がした。


嬉しい。 その感情が、胸の中で大きく膨らんだ。


けれど同時に、息が苦しくなった。


好意だと分かっている。 この人の言葉が、契約の義務から出たものではないことも。仕事への感謝以上の何かが込められていることも。


分かっている。分かっているから、苦しい。


契約だから、と自分に言い聞かせることが、少しずつ難しくなっている。


「……ありがとうございます、ルヴァリエール殿」


それだけ言うのが、精一杯だった。


アルベールは何か言いかけて、口を閉じた。 椀を手に取り、食事を再開した。


食堂に、二人分の食器の音だけが静かに響いた。


翌日。


別邸の廊下で、オディールとすれ違った。


足を止め、一礼した。


「オディール様」


オディールは立ち止まり、私を見下ろした。 いつもの冷たい視線。けれど、その奥にある何かが、かすかに違っていた。


「国王の感謝状。読みました」


「はい」


「……認めざるを得ませんね」


短い言葉だった。 それだけ言って、オディールは廊下を去っていった。


称賛ではなかった。 許容でもなかった。


ただ、事実を事実として受け入れた。 それだけのことだった。


けれど、あのオディールが口にした「認めざるを得ない」は、夜会の同席を拒んだときとは明らかに違う態度だった。


私は廊下に立ったまま、オディールの背中が角を曲がるのを見送った。


書庫に戻ろうとして、ふと足が止まった。


祖国の崩壊の噂が、断片的に増えている。 備蓄の混乱に加え、外交関係の問題、聖女の評判の低下。商人や旅人から届く情報は一ヶ月以上前のものだが、悪化の方向は一貫していた。


あの国が壊れていく速度と、この場所で私が積み上げてきたものの重みが、頭の中で並ぶ。


契約の期限は、あと半年を切った。


この場所にいられる時間が、少しずつ減っていく。 仕事を積み上げるほど、手放すものが大きくなる。


それでも、今は手を止めるわけにはいかない。


書庫に向かった。 演習の最終報告書を仕上げなければならない。

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