第5話「震える手」
心配、なのだろうか。本当に?
訓練場から叫び声が聞こえたのは、書庫で演習の兵站計画を詰めている最中だった。
羽根ペンを置き、窓に駆け寄る。 駐屯地の訓練場は書庫の窓から見える。団員たちが一か所に集まり、輪になっている。
誰かが倒れたのだ。
書庫を出て、廊下を走った。 別邸の裏口から駐屯地に入り、訓練場へ向かう。
団員の輪の中心に、アルベールが座り込んでいた。
右腕を押さえている。 制服の袖が裂け、その下に赤い線が見えた。切り傷だ。上腕の外側を、斜めに走っている。
「何があったんですか」
リュカが輪の外に立っていた。顔が青い。
「訓練中に模擬剣の柄が折れたんす。破片が腕に——団長が避けきれなくて」
模擬剣の柄の破損。老朽化した訓練用の装備が原因だった。
「医官は」
「呼んでます。ただ今日は城下の往診で出てて、戻りに少し時間が——」
私は輪の中に入った。
アルベールが顔を上げた。 灰色の瞳が私を見る。痛みで少し曇っている。
「エステル殿。……大したことはない」
「見せてください」
膝をつき、アルベールの右腕に手を伸ばした。
裂けた袖を慎重にめくる。 傷は上腕の外側を斜めに横切り、長さは掌ほど。深さはそれほどでもない。骨には届いていない。出血は続いているが、脈を打つような激しさではなかった。
「包帯と清潔な布、それから水を」
リュカに声をかけると、すぐに団員が走った。
清潔な布が届く。 水で傷口の周囲を洗い、砂や繊維の破片を丁寧に取り除いた。アルベールの腕が微かに震えた。
「痛みますか」
「いや。……続けてくれ」
布で傷口を押さえ、出血を止める。 数分待ってから、包帯を巻き始めた。
指先が、アルベールの肌に触れる。
その瞬間、自分の手が震えていることに気づいた。
手当ての手順に不安はない。前の人生でも、職場の応急処置講習で何度か練習した。清潔に保ち、圧迫止血し、包帯を巻く。やるべきことは分かっている。
それなのに、手が震えている。
包帯を巻く指が、アルベールの腕に触れるたびに、胸の奥が締まる。
怪我をした人の手当てをしているだけだ。 それだけのはずなのに。
「……すまない」
アルベールの声が、近かった。 見上げると、灰色の瞳がすぐそこにあった。
「謝ることではありません。模擬剣の管理は補給の範囲ですから、破損の点検を怠っていたのはこちらの——」
「違う。そうではなく」
アルベールが言葉を切った。 視線が私の手元に落ちる。包帯を巻く、震えた指に。
「手を、煩わせた」
それだけ言って、アルベールは目を逸らした。
私は包帯の端を結んだ。 手の震えは、止まらなかった。
医官が戻り、改めてアルベールの傷を診た。 縫合は不要、清潔に保てば数日で塞がるとの診断だった。
私は訓練場を離れ、別邸に戻った。 書庫に入り、椅子に座った。
手を膝の上に置く。 まだ、わずかに震えている。
心配だった。 アルベールが怪我をしたと知ったとき、胸が冷えた。 傷を見たとき、血の色が目に焼きついた。 手当てをしているとき、肌に触れるたびに心臓が跳ねた。
心配。
……本当に、心配だけだろうか。
仕事仲間が怪我をすれば、誰でも心配する。 公爵夫人として、当主の怪我に駆けつけるのは当然の行動だ。
でも、手は震えない。 仕事仲間の怪我で、手は震えない。
私は両手を見つめた。 アルベールの肌の温度が、まだ指先に残っている気がした。
認めたくない。
この感情に名前をつけたくない。 名前をつければ、期待してしまう。期待すれば、裏切られる。 条件が合ったから選ばれた相手に、それ以上を望んではいけない。
書庫の扉が開いた。
リュカが顔を覗かせた。
「エステル様、お疲れ様っす。団長の腕、ちゃんと処置できてたって医官が言ってましたよ」
「そうですか。よかった」
「あと、これ内緒っすけど」
リュカが声を落とし、にやりと笑った。
「団長、手当てされてる間、顔真っ赤でしたよ。俺もう二十年あいつ知ってますけど、あんな顔見たの初めてっす」
私は何も言えなかった。
「まあ、団長のことっすから、本人は気づいてないかもしんないすけどね」
リュカが手を振って書庫を出ていった。
一人になった。
顔が、真っ赤だった。
アルベールのではない。私のだ。
手で頬を押さえる。熱い。
……だめだ。
契約の期限まで、あと数ヶ月。 この感情に名前をつけてしまったら、期限が来たときに立ち上がれなくなる。
私は椅子から立ち上がり、机の上の兵站計画書に向き直った。
演習の準備はまだ終わっていない。 物資の輸送計画、人員の配置、天候による予備日程の設定。 やるべきことは山のようにある。
羽根ペンを取った。
手は、もう震えていなかった。
けれど胸の奥の、名前をつけたくないものは、まだそこにあった。
夕食後。
マルグリットが私室に茶を届けに来た。
「エステル様。本日はお疲れ様でございました」
「ありがとうございます、マルグリットさん」
茶器を受け取りながら、ふと気になったことを訊いた。
「マルグリットさん。最近、お隣の国の噂は何か聞いていますか」
マルグリットがわずかに首を傾げた。
「城下の商人が申しておりました。アルセーヌの聖女の評判が、少し変わってきているそうです」
「変わった、というのは」
「癒しの加護は素晴らしいが、国政は立て直せないのではないか、と。備蓄の混乱が続いているようで、民の間でも不満の声が出始めたとか」
加護で帳簿は書けない。 加護で補給路は組み直せない。 加護で予算の最適化はできない。
当たり前のことを、あの国の人々がようやく気づき始めたのだろう。
「噂の域でございますので、確かなことは分かりませんが」
「ええ。ありがとうございます」
マルグリットが一礼して部屋を出ていった。
茶を一口飲んだ。 温かい香草の香りが鼻を抜ける。
あの国のことを考えると、胸の奥が少しだけ痛む。
でもそれは、もう私の仕事ではない。
今の私の仕事は、この公爵領の騎士団の兵站を支えることだ。 演習の成功に向けて、やれることをやる。
契約の期限のことは、今は考えない。 手の震えの意味も、今は考えない。
茶器を机に置き、兵站計画書の続きを広げた。




