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追放された侯爵令嬢の契約婚。書庫に届く湯気の理由を、私はまだ知らない  作者: 月雅


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第3話「旧姓で呼ぶ人」

「ヴァランティーヌ殿。少々お時間をいただけますか」


廊下の向こうから、冷たく澄んだ声が響いた。


オディール・ルヴァリエール。 アルベールの叔母であり、公爵家の家政を取り仕切る人物だ。 白髪を高く結い上げ、深い紺色の衣装に皺ひとつない。背筋は定規を当てたように真っ直ぐで、五十二年の人生をこの家とともに歩いてきた威厳がその姿勢に宿っている。


ヴァランティーヌ殿。 旧姓だ。ルヴァリエール公爵夫人としてではなく、追放された侯爵令嬢としての呼び方。


「はい、オディール様。何でしょうか」


私は足を止め、姿勢を正した。 公爵家の大叔母に対しては敬語を崩す理由がない。


オディールは廊下の窓際まで歩き、振り返った。 午後の陽が射す窓を背にすると、表情が読みにくい。


「来月の夜会のことです。公爵家主催の秋の夜会に、領内の貴族と商会の長を招きます」


「承知しております」


「あなたの同席についてですが」


オディールの声が一段低くなった。


「契約夫人に公爵家の名で社交させるわけにはまいりません。今回はご遠慮いただきたい」


空気が変わった。


契約夫人。 その言葉は事実だ。私は期限付きの契約結婚でこの家にいる。


けれど、公的行事への夫婦としての同席は契約上の義務として明記されている。 オディールもそれを知っているはずだ。


「オディール様。夜会への同席は、契約の条項に含まれております」


「存じております。ですが、契約と家名は別の問題です」


オディールが一歩近づいた。 香水の匂いはない。代わりに、洗い立ての衣服と乾いた紙の匂いがする。家政の帳簿を扱う人の匂いだった。


「ルヴァリエールの名で社交の場に立つ以上、相応の出自が求められます。他国で不名誉な退去を命じられた方が、公爵家の顔としてお客様の前に立つ。それが領内の貴族にどう映るか、お考えになったことはありますか」


言葉に悪意はなかった。 少なくとも、意図的な嫌がらせではないと私は感じた。 保守的な価値観から、公爵家の家格を守ろうとしている。それだけだ。


それだけだと分かっていても、胸の奥が軋む。


「私の出自については、ご懸念は理解しております。ですが——」


「オディール叔母上」


背後から声がした。


振り向くと、アルベールが廊下の奥に立っていた。 騎士団の制服のまま、腰の剣帯を佩いている。駐屯地から戻ったばかりのようだった。


「アルベール。ちょうどよい。夜会の件で——」


「聞こえていた」


アルベールが歩み寄ってくる。 長い歩幅で、けれど急いではいない。


オディールの前で足を止めた。 叔母に対しての敬語を崩さず、しかし声には明確な意思があった。


「公爵夫人としての同席は、契約上の義務です。叔母上の許可は、不要です」


オディールの目が細くなった。


「当主としてのご判断ですか」


「ああ。当主としての判断だ」


短い沈黙が廊下を満たした。


オディールが目を閉じ、ゆっくりと開いた。


「……承知いたしました。当主のご判断であれば、わたくしに申し上げることはございません」


一礼して、オディールは廊下を去っていった。 足音は一定のまま、乱れない。怒りも屈辱も、少なくとも外には見せなかった。


私とアルベールが、廊下に二人残された。


「……ありがとうございます、ルヴァリエール殿」


「礼は要らない。契約の条項に書かれていることだ」


アルベールは私を見ずに言った。 視線は窓の外、駐屯地の方角に向いている。


契約の条項。 そうだ。義務だから、庇ったのだ。当主として、契約の履行を確認しただけだ。


「エステル殿。夜会の準備で必要なものがあれば、マルグリットに伝えてくれ」


それだけ言って、アルベールは廊下の先へ歩いていった。


夕刻。駐屯地の中庭に面した休憩所。


リュカが木の長椅子に腰かけて、干し肉を齧っていた。


「いやー、聞きましたよ。オディール様とやり合ったって」


「やり合ってはいません。オディール様からご意見をいただいて、ルヴァリエール殿が対応してくださっただけです」


「それを世間じゃ『やり合った』って言うんすよ、エステル様」


リュカが干し肉を振りながら笑った。


「つか、団長がオディール様に正面から言い返すの、珍しいっすよ。いつもは適当に流すのに」


私は長椅子の端に座り、手元の帳簿を膝の上に開いた。 休憩のついでに補給班の発注書を確認するつもりだった。


「団長、最近なんか変わりましたよね」


「そうですか」


「いや、前からエステル様のこと気にかけてたっすけど。ここんとこ、なんつーか、分かりやすくなってきたっていうか」


リュカが言葉を切り、私の表情を窺った。


「……まあ、こっちの話っすけど」


私は帳簿に目を落とした。


アルベールが変わったかどうか、私には分からない。 分かるのは、契約の義務として庇ってくれたということだ。それ以上の意味を読み取るべきではない。


読み取りたい、とも思わない。 思わないようにしている。


リュカが干し肉を食べ終え、手を膝で拭いた。


「あ、そうだ。城下町の商人が言ってたんすけど、アルセーヌのほう、また物の値段上がってるらしいっすよ」


指が止まった。


「備蓄だけじゃなくて、今度は外交関係もなんか揉めてるって。まあ噂っすけど」


アルセーヌ王国。 一ヶ月ほど前にマルグリットから聞いた備蓄の値上がりの噂。それがさらに広がっているということか。


「噂ですか」


「っすね。商人の又聞きっすから、一ヶ月二ヶ月前の話かもしんないっすけど」


一ヶ月から二ヶ月の遅延。 商人や旅人を通じた情報は、それくらいの時差がある。今この耳に届いている噂は、少なくとも一ヶ月以上前の出来事だ。


あの国の行政が、少しずつ綻び始めている。


私は帳簿を閉じた。


「リュカ、明日の朝、補給班の過去半年分の発注書を書庫に持ってきてもらえますか」


「了解っす。朝イチで持ってきますよ」


リュカが立ち上がり、軽く背を伸ばした。


「エステル様、あんまり根詰めないでくださいね。団長に怒られんの、俺っすから」


「ご心配なく。無理はしません」


リュカが手を振って中庭に出ていった。


夜。私室。


マルグリットが届けてくれた香草茶を飲みながら、椅子に座っている。


オディールの言葉が、まだ耳に残っていた。


契約夫人に公爵家の名で社交させるわけにはまいりません。


その言葉は、私の立場の不安定さを正確に言い当てている。 契約は期限付きだ。期限が来れば、この家を出ることになるかもしれない。 公爵夫人の肩書きも、家名の使用権も、すべて失う。


オディールはそれを知っているから、公爵家の顔として社交の場に立たせることに反対した。 家格を守りたいだけだ。私を憎んでいるわけではない。


分かっている。


分かっていても、あの言葉は刺さる。


アルベールは契約の義務として対応してくれた。 当主としての判断だ。それ以上でも以下でもない。


けれど。


あの廊下で、アルベールが私の前に立ったとき。 背中が見えた。広い背中だった。


あの人が「不要だ」と言ったのは、叔母の許可のことだ。 私を守ろうとしたのではない。契約を守ったのだ。


……それなのに。


嬉しいと思ってしまった自分がいる。


茶器を机に置いた。


嬉しいと思うのは、危険だ。 契約だから庇った。義務だから守った。それ以上の意味を期待すれば、いつか裏切られる。


あの国で学んだはずだ。 必要とされているうちだけの関係は、必要がなくなれば終わる。


でも。


オディールの妨害に対して、仕事の成果で返すことはできる。 夜会に出て、公爵夫人としての役目を果たして、文句のつけようがない結果を出す。


それが、今の私にできることだ。


香草茶を飲み干した。


明日はリュカから発注書を受け取り、帳簿の不自然な支出の追跡を続ける。 夜会の準備もある。マルグリットに相談しなければ。


やるべきことがある。 それだけで、今は十分だった。

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