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追放された侯爵令嬢の契約婚。書庫に届く湯気の理由を、私はまだ知らない  作者: 月雅


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第2話「名前のない仕事」

二年前、私は「替えのきく人間」だった。


アルセーヌ王国の宮廷で、私がしていた仕事に名前はなかった。 備蓄の管理。外交書簡の整理。予算の帳尻合わせ。式典の段取り。 誰かに命じられたわけではない。気がつけば私がやっていて、誰もそれを不思議に思わなかった。


聖女が来るまでは。


あの聖女が宮廷に迎えられてから、私の仕事は少しずつ「聖女の功績」に変わっていった。 備蓄管理の改善案は聖女の提案として記録され、外交文書の草稿は聖女の助言として処理された。


私は何も言わなかった。 侯爵令嬢として、王太子の婚約者として、聖女と争うことは宮廷の秩序を乱すと思ったからだ。


そして、乱したのは私のほうだと断じられた。


羽根ペンの先が紙に引っかかった。 意識が戻る。


目の前にあるのは、アルセーヌの宮廷ではない。 ヴェルシュタット王国、ルヴァリエール公爵家別邸の書庫だ。


机の上には騎士団の帳簿が三冊、開いたまま重なっている。 備蓄の棚卸しを終えてから数週間。定期的な在庫確認の仕組みは動き始めたが、帳簿の整理はまだ途中だった。


私は羽根ペンを置き、手元の帳簿に目を戻した。


数字を追っていく。 補給品の購入記録。月ごとの支出。業者への支払い。


指が止まった。


三ヶ月前の支出に、不自然な項目がある。 「雑費」とだけ記された支出が二件。金額は補給品一ヶ月分の四分の一に相当する。 品目の記載がない。受領印もない。


前後の月にも同様の「雑費」がある。 金額はばらばらだが、いずれも品目と受領の記録が欠けている。


……帳簿の記載漏れか、それとも。


追及すべきだろうか。 私は公爵夫人であり、兵站補佐を委任されている。帳簿の不備を指摘する立場にはある。


ただし、これが誰かの不正を示すものだとしたら、契約妻の私が騎士団の内部問題に踏み込むことになる。


ルヴァリエール殿に報告すべきか。 それとも、もう少し自分で調べてからにすべきか。


椅子の背もたれに体を預けた。


実父のことが、ふと頭をよぎった。


ヴァランティーヌ侯爵。アルセーヌ王国に在住する、私のただ一人の肉親。 母が病で亡くなってから、父と私の間にはいつも仕事があった。侯爵家の運営という仕事が、親子の間を埋めていた。


断罪のとき、父は宮廷にいなかった。 聖女の側近が父の出席を妨げたのか、それとも父自身が避けたのか。今となっては分からない。


追放されてからの二年間、父からの手紙は一通も届いていない。 私からも出していない。


父は——守り切れなかった。 守る力がなかったのか、守る意志がなかったのか。 どちらであっても、結果は同じだ。


帳簿を閉じた。 不自然な支出の件は、このまま一人で抱えるべきではない。


午後の執務室。


アルベール・ルヴァリエールは机に向かい、騎士団の報告書に目を通していた。


扉を叩くと、短い間を置いて「入れ」と声が返ってきた。


「お時間をいただけますか、ルヴァリエール殿」


「ああ。座ってくれ」


アルベールが椅子を示した。 私は向かいの椅子に腰を下ろし、帳簿を机の上に置いた。


「兵站帳簿の整理を進める中で、不明な支出を見つけました」


開いた頁を示す。 アルベールの灰色の瞳が数字の列を追った。


「雑費。品目なし、受領印なし。三ヶ月分で計六件です」


「……金額は」


「補給費の月額に対して、合計で約二割に相当します」


アルベールの眉がわずかに動いた。 帳簿から顔を上げ、私を見た。


「君の見立ては」


「記載漏れの可能性もあります。ですが、六件連続で品目と受領印が欠けているのは不自然です。発注先の業者に確認を取れば、実態が分かるかと思います」


アルベールは数秒、沈黙した。 それから帳簿を閉じ、私に向き直った。


「確認は進めてくれ。業者への問い合わせも、君の判断で行っていい」


「よろしいのですか」


「兵站補佐として委任している。帳簿の精査はその範囲だ」


短い言葉だった。 けれど、その言葉の意味を私は正確に理解した。


委任の範囲を、広げたのだ。 帳簿の整理だけでなく、支出の確認と業者への問い合わせまで。 契約妻に対して、騎士団の財務に関わる裁量を渡している。


「……ありがとうございます。結果が出次第、ご報告します」


アルベールが頷いた。


立ち上がりかけたとき、アルベールが口を開いた。


「エステル殿」


振り返る。


「書庫の蝋燭を、もう少し明るいものに替えさせた。目を悪くする」


それだけ言って、アルベールは手元の報告書に視線を戻した。


私は一礼して執務室を出た。


廊下を歩きながら、胸の奥にある小さな疑問がまた顔を出す。


なぜこの人は、私にだけこういうことをするのだろう。


蝋燭を替える。湯を届ける。委任を広げる。 どれも大きなことではない。けれど、どれも「契約上の義務」には含まれていない。


条件が合ったから、私を選んだ。 知人を通じて紹介された、行き場のない元侯爵令嬢。断る理由のなかった相手。 それだけのはずだ。


……考えても仕方がない。 帳簿の不自然な支出を追うほうが、よほど建設的だ。


夕食後。


私室に戻ると、小さな盆が部屋の入口脇の台に置かれていた。 陶器の茶器と、焼き菓子がひとつ。


添えられた小さな紙片に、丁寧な筆跡で書かれている。


「本日もお疲れ様でございました。——マルグリット」


筆頭侍女のマルグリット・デュヴァルだ。 先代公爵の時代からこの家に仕える古参の侍女で、私の身の回りを整えてくれている。


茶器を手に取り、一口飲んだ。 温かい。ほんのりと甘い香草の茶だった。


盆を持って私室に入ろうとしたとき、廊下の奥からマルグリットが静かに歩いてきた。


「奥様。お口に合いましたでしょうか」


「ええ、ありがとうございます、マルグリットさん。とても美味しいです」


マルグリットが小さく頭を下げた。 白髪の混じった髪をきちんとまとめ、侍女服に皺ひとつない。背筋の伸びた姿勢は、長年の奉公で身についたものだろう。


「少し、お耳に入れたいことがございます」


マルグリットの声がわずかに低くなった。


「お隣の国の噂を、お聞きになりましたか」


お隣の国。 アルセーヌ王国のことだ。


「いいえ。何か」


「城下町の商人が申しておりました。アルセーヌの王都で、物資の値が上がっているそうです。備蓄の管理が行き届かなくなったとか」


指先が冷えた。


備蓄の管理。 それは、かつて私がやっていた仕事だ。 名前のない、誰にも気づかれなかった仕事。


「……そうですか」


「噂の域を出ませんので、確かなことは分かりません。ただ、商人たちの間では少し話題になっているようです」


私は頷いた。


マルグリットが一歩近づき、声をさらに落とした。


「奥様。この家にいてくださる間は、奥様です。どうか、ご自分のことを『替え』などとはお考えにならないでくださいませ」


息が止まった。


替えのきく人間。 その言葉を、私は声に出したことがない。少なくとも、この家では。


けれどマルグリットは、見ていたのだろう。 二年間の私の振る舞いから、その言葉を読み取っていたのだ。


「……ありがとうございます、マルグリットさん」


声が少しだけ震えた。 マルグリットは深く一礼し、静かに廊下を戻っていった。


私室の扉を閉めた。


茶器を机に置き、椅子に座る。


実父のことを思い出す痛みと、マルグリットの言葉の温かさが、胸の中で交差する。


父からの手紙は来ない。 あの国の備蓄は崩れ始めている。 私がいなくなったあとの穴を、誰も埋められなかったということだ。


それでも。


私はもう、あの宮廷にはいない。 今いるのは、ここだ。


帳簿の不自然な支出を追う仕事がある。 棚卸しの仕組みを定着させる仕事がある。 名前のない仕事を、今度は自分で名前をつけてやっていく。


茶器に残った香草茶を飲み干した。


明日、業者への問い合わせの書面を作ろう。 リュカに補給班の過去の発注書を集めてもらう必要もある。


やることは、いくらでもあった。

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