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追放された侯爵令嬢の契約婚。書庫に届く湯気の理由を、私はまだ知らない  作者: 月雅


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第10話「触れてもいいか」

契約は、明日で終わる。


その一文が、目を覚ました瞬間から頭の中にあった。


私室の窓から朝の光が差し込んでいる。寝台の上で天井を見つめたまま、しばらく動けなかった。


契約期間の最終日。


今日が終われば、ルヴァリエール公爵夫人という肩書きは消える。家名の使用権も、この部屋に住む権利も、すべて。


寝台を出て、身支度を整えた。


机の上に、昨夜マルグリットが届けてくれた香草茶の茶器が残っている。冷め切った茶を一口飲んだ。


朝食の席に、アルベールがいた。


いつもの席に座り、パンを手に取っている。私が食堂に入ると、灰色の瞳がこちらを見た。


一瞬だけ、目が合った。


私は向かいの席に座った。


沈黙のまま、朝食が始まった。


パンをちぎる。口に運ぶ。味がしなかった。


「エステル殿」


アルベールの声がした。低く、硬い。


顔を上げた。


「契約の件で、話がある。……昼に、書庫で」


「分かりました」


それだけの会話だった。


アルベールが先に席を立ち、食堂を出ていった。


一人になった食堂で、パンの欠片を皿の上に置いた。


食欲はなかった。


昼前。私室。


衣装を整え、髪を結い直した。


いつもと同じ身支度だ。特別なことは何もない。


けれど手が止まった。


机の引き出しを開けた。二年間の生活費から少しずつ節約した、わずかな蓄え。契約が解消されれば生活保障金が一括で支払われるが、その先の見通しはない。


引き出しを閉じた。


考えるのは後だ。


書庫に向かった。


書庫の扉を開けた。


アルベールが、机の前に立っていた。


いつもの騎士団の制服ではなかった。公爵家の当主が公式の場で着る、紺色の上衣。襟元の留め具に公爵家の紋章が光っている。


机の上に、一通の書類が置かれていた。


契約書だ。


三年前に署名した、契約結婚の契約書。


「座ってくれ」


アルベールの声は低く、けれどいつもの短い言葉ではなかった。


私は椅子に座った。アルベールは立ったまま、机の向こう側にいた。


「契約の期限は今日だ」


「はい」


「更新について、話をしなければならない」


アルベールの指が、机の上の契約書に触れた。


「更新しなくていい」


息が止まった。


「俺のほうから、更新を求めない」


言葉の意味が、一拍遅れて届いた。


更新しない。


つまり、契約は今日で終わる。


予想していたはずだった。贖罪が動機だったと知ったあの夜から、この結末は見えていた。


けれど、実際にその言葉を聞くと、胸の底が抜けるような感覚があった。


「……承知しました」


声は平坦に出た。


「明日までに荷造りを済ませます。生活保障金の手続きはマルグリットさんに——」


「違う」


アルベールが私の言葉を遮った。


その声に、切迫した何かがあった。


アルベールが契約書を手に取った。


両手で持ち、一度だけ目を落とした。


そして、縦に裂いた。


紙が裂ける音が、書庫に響いた。


二つに裂かれた契約書が、机の上に落ちた。


「ルヴァリエール殿、何を——」


「契約は終わりだ」


アルベールが私を見た。


灰色の瞳が、まっすぐにこちらを向いている。


「契約ではなく——俺の意志で言う」


声が震えていた。


この人の声が震えるのを、私は初めて聞いた。


「贖罪で始まった。それは嘘じゃない。断罪を止められなかった罪を償いたかった。条件が合う相手だから選んだ。それも嘘じゃない」


アルベールの手が、机の端を掴んだ。指が白くなるほど力が入っている。


「けれど、二年間——君と暮らして、君の仕事を見て、君が書庫で羽根ペンを走らせる音を聞いて、食堂で隣に座って、傷の手当てをされて——」


言葉が途切れた。


アルベールが息を吸い、吐いた。


「贖罪だけじゃ、とっくに説明がつかなくなっていた」


私は椅子に座ったまま、動けなかった。


「隣にいてほしい」


短い一文だった。


この人はいつも、本当に伝えなければならないとき、言葉を失う。けれど今は違った。不器用で、途切れ途切れで、けれど確かに言葉になっていた。


「契約ではなく、俺の意志で。公爵夫人としてではなく——エステルとして」


名前を呼ばれた。


「エステル殿」ではなく、「エステル」と。


三年間で、初めてだった。


胸の奥で、何かが決壊した。


贖罪から始まった。それは事実だ。


けれど、あの書庫の夜に届いた麦茶の温度を、私は知っている。蝋燭を明るいものに替えた理由を。食堂で隣に座った沈黙の重さを。何も持たずに書庫に来て、ただ向かいに座ったあの夜を。


贖罪だけでは、あの温度にはならない。


怒りはまだ残っている。裏切られたという痛みも、消えてはいない。


けれど。


「贖罪から始まったとしても」


声が出た。


震えていた。涙が溢れていた。いつから泣いていたのか分からない。


「今ここにあるものは——本物だと、私は知っています」


アルベールの目が見開かれた。


「この場所が私の居場所だと、胸を張って言えます。誰かに選ばれたからではなく、自分で選んだから」


椅子から立ち上がった。


涙を拭わないまま、アルベールの前に立った。


「アルベール」


名前を呼んだ。


「ルヴァリエール殿」ではなく、「アルベール」と。


アルベールの表情が崩れた。


目が赤くなっていた。唇が震えている。この人が泣くところを、私は見たことがなかった。今も泣いてはいない。けれど、その寸前にいることは分かった。


「触れても、いいか」


かすれた声だった。


私は頷いた。


アルベールの手が、ゆっくりと伸びた。


私の手に触れた。


指先が震えていた。


訓練場で私が包帯を巻いたとき、震えていたのは私の手だった。


今は、二人とも震えている。


アルベールの指が、私の指に絡んだ。


温かかった。


書庫の窓から、午後の光が差し込んでいた。裂かれた契約書の上に、光が落ちている。


手を繋いだまま、しばらく二人とも何も言わなかった。


言葉はいらなかった。


夕刻。


書庫で並んで座っていると、マルグリットが扉を叩いた。


「エステル様。お手紙が届いております」


マルグリットが差し出した封書には、アルセーヌ王国の王宮紋章が押されていた。


封を開いた。


正式な書簡だった。ヴァランティーヌ侯爵令嬢エステルに対する断罪の撤回と、宮廷への出入り禁止の解除。名誉回復の公式通達。


末尾に、一文が添えられていた。


「なお、ヴァランティーヌ侯爵家の後継問題に関し、帰国の上での協議を要請する」


帰国要請。


名誉回復の書簡に、帰国の要請が含まれている。


私は書簡をアルベールに渡した。


アルベールが目を通し、末尾の一文で視線が止まった。


「……帰国要請か」


「ええ」


アルベールが書簡を机に置いた。


私の手を、まだ繋いだままだった。


「どうする」


短い問いだった。


私は窓の外を見た。駐屯地の屋根が夕日に染まっている。


答えはまだ出さなくていい。


今はただ、この手の温度を覚えていたかった。


(完)


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