第1話「帳簿と湯気」
干し肉の束を持ち上げて、棚の奥を覗き込んだ。
埃が舞う。 鼻の奥がつんとして、私は袖で口元を押さえた。
ルヴァリエール公爵領、騎士団駐屯地に併設された備蓄倉庫。 石造りの壁に囲まれた薄暗い空間に、木箱と麻袋が雑然と積まれている。
棚札が剥がれている。 いや、剥がれたのではない。最初から貼られていないものがほとんどだ。
「……これは、だめだ」
声に出すと、現実の重みが増した。
前任の管理者が退任してから、引き継ぎがなかったと聞いている。 聞いている、というより、誰もそのことを問題だと思っていなかったのだろう。騎士団にとって備蓄倉庫は「あるもの」であって、「管理するもの」ではなかったらしい。
前の人生でやっていたことと、そう変わらない。 棚卸し、台帳の整備、発注点の設定。総務課で毎月やっていた仕事だ。
ただし、ここにはパソコンも表計算ソフトもない。 紙と羽根ペンとインク壺。それだけが頼りだった。
私は木箱の蓋を開け、中身を確認し、手元の紙に品目と数量を書き込んでいく。 干し肉。薫製の魚。塩。小麦粉。乾燥豆。蝋燭。包帯。矢羽根の予備。
契約はあと一年。
ルヴァリエール公爵夫人という肩書きの期限まで、あと一年。 それまでの間に、できることをする。 それだけだ。
「うわ、何すかこれ。全部出したんすか」
声が倉庫の入口から飛んできた。
リュカ・モンフォール。 騎士団の副官補佐で、補給班の若手をまとめている二十三歳の青年。 亜麻色の髪を無造作に束ね、腰に剣を佩いたまま、目を丸くして立っている。
「棚卸しです。中身と帳簿が合っていないので、一度全部出して数え直しています」
「帳簿って……あります? そんなの」
「ありませんでした。だから作っています」
リュカが倉庫の中を見回した。 床に並べた木箱と麻袋。分類途中の消耗品の山。壁際に積んだ空の木箱。
「エステル様がこれ、お一人で?」
「朝から始めて、まだ三分の一ほどです」
リュカは一瞬黙り、それから軽く息を吐いた。
「手伝いますよ。俺、補給班っすから。つか、本来これ俺らの仕事じゃないすか」
断る理由はなかった。 私が品目を読み上げ、リュカが木箱を運ぶ。 二人になると作業の速度は倍以上になった。
食料品を東側の棚に、消耗品を西側に分ける。 数えるたびに、帳簿との——正確には、帳簿があったならば記載されているべき数量との——乖離が明らかになっていく。
干し肉は、想定備蓄量の三分の一しかない。 塩は逆に余っている。発注の偏りだ。誰かが必要な量を計算せずに、前回と同じ数だけ注文し続けた結果だろう。
「リュカ、この矢羽根の箱、中身が違います。開けてみてください」
「え、マジすか。……あ、ほんとだ。包帯が入ってる」
「ラベルと中身が一致していない箱が他にもあるかもしれません。全部開けましょう」
リュカが額の汗を拭いながら頷いた。
夕刻までかかった。
倉庫の全品目を出し、分類し、数え、紙に記録した。 不足品と過剰品のリスト。発注の偏りの原因分析。改善策の骨子。
それらを報告書としてまとめる作業が残っている。
私は駐屯地に隣接する公爵家別邸に戻り、夕食を簡単に済ませてから、書庫に向かった。
書庫は別邸の一階奥にある。 天井が高く、窓は小さい。壁一面の書架に革装の帳簿と文書箱が並んでいる。 公爵家の家計記録と、騎士団の過去の報告書が収められた部屋だ。
机にインク壺と羽根ペンを並べ、倉庫で取った記録をもとに報告書を書き始めた。
品目別の在庫数量。想定備蓄量との差異。不足品の優先発注リスト。 定期棚卸しの頻度と手順の提案。発注点の設定基準。
前の人生の記憶が、指を動かしてくれる。 概念は同じだ。在庫を数え、不足を見つけ、補充の仕組みを作る。 使う道具が違うだけで、やるべきことは変わらない。
窓の外はもう暗い。 蝋燭の灯りだけが机の上を照らしている。
そのとき、背後で扉が静かに開いた。
振り向くと、アルベール・ルヴァリエールが立っていた。
公爵家の当主であり、騎士団長であり、契約上の、夫。
長身の体躯に騎士団の制服。腰の剣帯は外しているが、姿勢は崩れていない。 薄い灰色の瞳が、机の上の書類を一瞥した。
その手に、湯気の立つ陶器の杯が載っていた。
「……まだ、やっていたのか」
低い声だった。 短い。いつも通りだ。この人はいつも、必要なこと以外を口にしない。
「はい。報告書をまとめています。明日、お時間をいただければお渡しできるかと思います」
アルベールは頷いた。 それから、机の端——書類に触れない位置に、杯をそっと置いた。
甘い麦の香りが湯気とともに立ち上る。
「無理は、するな」
それだけ言って、彼は書庫を出ていった。 扉が静かに閉まる。足音が遠ざかる。
私は杯を手に取った。 温かい。指先から熱が伝わってくる。
なぜこの人は、こういうことをするのだろう。
契約上の夫婦だ。同居の義務はあるが、互いの私室には入らない取り決めになっている。 書庫は私室ではないけれど、夜遅くにわざわざ湯を届けに来る義務はない。
条件が合ったから、私を選んだ。 追放された元侯爵令嬢で、行き場がなくて、断る理由がなかった私を。
それだけのはずだ。
一口飲んだ。 甘い麦茶だった。体の内側がじんわりと温まる。
……考えても仕方がない。
私は杯を机の端に置き、羽根ペンを取り直した。 報告書を仕上げなければ。
翌朝。
朝食の席でアルベールに報告書を手渡した。
アルベールは黙って目を通した。 食事の手を止め、一枚一枚、丁寧に読んでいく。
私は自分の皿に視線を落とし、パンをちぎりながら待った。
「……よくまとまっている」
顔を上げると、アルベールが報告書の最後のページを閉じるところだった。
「定期棚卸しと発注点の設定は、このまま導入したい。補佐を、正式に頼めるか」
「はい。お任せください」
アルベールが小さく頷いた。
その頷きは、契約妻への社交辞令ではなかった。 騎士団長が、兵站の実務を委任する判断だった。
少なくとも、私にはそう見えた。
食堂の扉が勢いよく開いた。
「団長ー! 朝飯まだ残ってます? ……あ」
リュカが入ってきて、私とアルベールの間に置かれた報告書を見た。
「おー、エステル様の報告書。もう出したんすか、仕事速いっすね」
「リュカ。お前も補給班として協力しろ。エステル殿の指示に従え」
「了解っす。つか団長、また昨夜書庫に行ったんすか。廊下で見かけたって当番の奴が——」
「朝食を取れ」
アルベールはそれだけ言って席を立った。 報告書を手に、食堂を出ていく。
リュカが私の向かいに座り、残っていたパンに手を伸ばしながら、にやりと笑った。
「団長、ああいうとこありますよね。不器用っていうか」
「……何がですか」
「いや、別に。こっちの話っす」
リュカはパンを頬張り、何事もなかったように朝食を始めた。
私は空になった杯を見た。
昨夜の甘い麦茶の香りが、まだかすかに残っている気がした。




