空気の工場
前書き
この短編は、私個人の見解に基づいている。
日本以外の国々では、商品が「どのように売れるか」を徹底的に分析し、現実の市場や人の行動から判断している。
だが日本は違う。日本人は「空気を読む」ことに優れていると感じる。
ただし、その空気読みは、相手の実体験や現実の動きを観察して成立するものではない。
むしろ「自分の頭の中だけでシミュレーションする」ような、不自然なコミュニケーションが広がっている。
この現象は、日本の社会構造と無関係ではないだろう。私は推測する――実際の声を聞かず、見えない空気を前提に他者を縛る習慣は、日本の成人男性がDVに陥る可能性を高めているのではないか、と。
もっとも、日本ではDVの実態が表に出にくいため、他国と比べることは難しい。だが、表面化しないからこそ、なおさら空気文化の影響を疑う必要があるのではないかと思う。
本作は、そのような違和感を物語という形にした試みである。
町外れに、古びた工場があった。そこは長年、大企業の下請けとして機械部品をつくり続けてきた。
工場長の佐伯は、技術者たちの誇りを胸に秘めながらも、常に元請けの要求に頭を下げざるを得なかった。納期を縮められ、単価を削られ、ついには試作品の工夫すら見向きもされない。
「これ以上は無理だ」と口にするたび、佐伯の脳裏に浮かぶのは、日本独特の「空気」だった。
譲歩するのが当たり前、下請けは従うのが当然――そうした空気を疑うことなく、皆が受け入れてきた。
だがある夜、若い技術者が言った。
「工場長、僕たちの技術を自分たちで発信してもいいんじゃないですか。相手の言う通りにするばかりじゃなくて」
その言葉に佐伯は驚いた。発信? 議論? そんなものは自分たちには無縁だと思っていた。
だが確かに、海外の企業は議論を武器にする。自らの技術を堂々と示し、互いに叩き合い、そこから新しいものを生み出している。
日本の工場は空気を読む。しかしそれは往々にして「自分の妄想」であり、相手の声を聞くことではなかった。
結果、相手を無視しながらも「自分は理解している」と思い込み、自己満足の技術だけが積み上がっていく。
工場は静かに、しかし確実に衰えていった。
元請けの会社もまた、新しい市場で淘汰されていった。
互いに耳をふさぎ、空気ばかりを頼りにした結果だった。
残されたのは、黙々と動く機械と、職人たちの手に残る「伝えられなかった技術」だけだった。
あとがき
この物語には読者を楽しませようという意図はない。作者は読者のことを考えない作者であることは間違いない。
だが、伝えられないままに消えていった技術は、未来では理解不能のオーパーツとして発掘されるかもしれない。
さらに、西洋の考えが進めば進むほど、この物語の根にある考え方は「意味が分からない話」になっていくだろう。
――「自分が我慢すればいい」という日本的な発想そのものが、もはや理解されなくなるのだ。
さらに言うと、「空気を読む」という行為がもし自己防衛のためだとするならば、妙に納得できてしまうのはなぜだろう……。




