運について
面接室の壁には、時計が一つだけ掛かっていた。
秒針の音がやけに大きくて、男はそれを聞きながら、自分の人生もこんなふうに刻まれてきたのだろうかと考えていた。
「今回はご縁がなかったということで」
何度も聞いた言葉だった。
縁、運、タイミング。
どれも理由の顔をしているが、理由ではない。
男は氷河期と呼ばれた時代に社会へ出た。
努力はした。資格も取った。
だが、正社員の椅子は最初から数が決まっていて、
彼はいつも「もう少しで届かない側」に配置された。
派遣、契約、更新。
名前の違う同じ部屋を、何度も引っ越した。
ある日、同期だった男と駅で再会した。
同じ大学、同じゼミ、同じ成績。
彼は正社員になり、家庭を持ち、安定していると言った。
「いやあ、運が良かっただけだよ」
その言葉を、男はずっと覚えている。
軽く、善意で、何の悪気もなく投げられた一言。
――運が良かった。
じゃあ、自分は何だったのだろう。
運が悪かった人間?
努力が足りなかった人間?
選ばれなかっただけの人間?
男は気づいた。
運という言葉は、残った側が安心するための言葉なのだと。
切り捨てられた理由を、誰も背負わなくていいようにするための、便利な布だと。
会社を出ると、夕方の空が赤かった。
今日、何人かが雇用止めになったらしい。
理由は業績、効率、将来性。
どれも正しく、どれも個人とは無関係だった。
それでも人は言うのだろう。
「運が悪かったね」と。
男は歩きながら、思った。
もし運というものがあるなら、それは天から落ちてくるものじゃない。
後から貼られるラベルだ。
結果が出たあとに、
勝者には「運が良かった」
敗者には「運が悪かった」
そう言うことで、世界は何も反省しなくて済む。
駅のホームで、電車を待ちながら、男は初めて少しだけ楽になった。
自分の人生が失敗だったわけでも、間違いだったわけでもないと、
ようやく思えたからだ。
運がなかったのではない。
ただ、そう呼ばれる場所に、置かれただけだ。
電車が来る。
男は乗り込む。
明日もまた、どこかで誰かが「運」という言葉を使うだろう。
それでも彼は知っている。
運は事実じゃない。
物語だ。
誰かが都合よく語るための。
その物語から、少し距離を取れた気がした。
それだけで、今日は十分だった。
男が最後にいた現場は、大企業の看板を掲げていた。
名前を出せば誰もが知っている会社で、
エントランスはガラス張り、受付には季節の花が飾られていた。
中は違った。
派遣社員の席は、いつも照明が少し暗かった。
定時はある。
だが、誰もその時間に立ち上がらない。
「今日はもう少しだけお願いできる?」
その“もう少し”は、毎日だった。
断れば、次の更新はないかもしれない。
誰も脅さない。
誰も命令しない。
ただ、空気がそうさせる。
正社員たちは先に帰る。
「お疲れさま」と軽く言って。
彼らも悪人ではない。
ただ、残業しない立場にいるだけだ。
男は画面を見つめながら思った。
この会社は、残業を命じていない。
だから違法ではない。
だが、知っている。
派遣が何時まで残っているかを。
疲れ切った顔をしていることを。
それでも何も言わない。
黙認。
それは命令よりも便利な仕組みだ。
「自己管理だから」
「派遣会社との契約だから」
「本人が納得しているはずだから」
そうやって責任は細かく分割され、
最後には誰の手にも残らない。
男は、自分が“運が悪い”のではない理由を、
また一つ理解した。
これは運の問題じゃない。
構造の問題だ。
余裕のある者が、
余裕のない者の沈黙の上に立つ。
そしてそれを
「合理的」
「効率的」
と呼ぶ。
会社を出ると、ビルの上階はもう真っ暗だった。
看板だけが光っている。
中身がどうであれ、名前は輝いて見える。
男は思った。
この社会では、
声を上げないことが“協調性”で、
耐えることが“責任感”で、
壊れなかった人間だけが
「運が良かった」と言われる。
それは、あまりにも静かな暴力だった。
男は歩きながら、少しだけ背筋を伸ばした。
自分が壊れなかったのは、
運じゃない。
ただ、まだ言葉を失っていなかったからだ。
あとがき
この話の中で、誰かを特別に悪者にしたかったわけではない。
大企業も、正社員も、現場の管理者も、
それぞれが自分の役割を果たしているだけだ。
ただ一つ、皮肉だと思うことがある。
多くの製造現場は、派遣という体制なしには回らない。
コスト調整、需給変動、責任分散。
それらを可能にする仕組みとして、
派遣労働は組み込まれている。
にもかかわらず、その前提は
会社の成功談や理念の中では、ほとんど語られない。
必要不可欠なのに、
不安定であることを前提にされ、
声を上げないことで成立している。
もし派遣が一斉にいなくなれば、
現場は止まり、
会社という仕組みそのものが立ち行かなくなるだろう。
それでも彼らは
「運が悪かった人たち」
として語られる。
この矛盾を、
効率や合理性という言葉で覆い続ける限り、
同じ物語は何度でも繰り返される。
運とは何か。
それを考えることは、
誰の上に社会が成り立っているのかを
問い直すことなのかもしれない。
そして、さらに考えてしまう。
製造業という仕組みを冷静に眺めると、
正社員という形態は、もしかしたら必須ではないのかもしれない。
派遣や請負だけのほうが、
コストも調整もしやすく、
企業としては「うまく回る」可能性すらある。
だが、その合理性の裏側に、
どうしても納得できない感覚が残る。
それは、派遣という仕組みが、
効率化のためだけでなく、
人が壊れたとき、あるいは亡くなったときに、
責任を遠ざけるための手段として使われているように見えることだ。
労災が起きたとき、
名前が曖昧になり、
所属が分断され、
責任は契約書の行間へと逃げていく。
人を守るための制度が、
いつの間にか
「痛みを分散させるための構造」へと変わってはいないだろうか。
もし正社員がいらないのだとしたら、
それは人が軽くなったからではなく、
人の重さを引き受ける覚悟を、
組織が手放したからなのかもしれない。
合理性の名のもとに、
命の所在だけが曖昧になっていく。
そのことを「運」や「仕方がない」で片づけてしまう社会は、
果たして、うまく生きていると言えるのだろうか。




