「本日もご安全に」
工場の朝礼は、いつも安全標語から始まる。
「本日もご安全に」
それは祈りのようで、免罪符のようでもあった。
彼は派遣社員だった。名札の色が違うだけで、作業服も工具も正社員と変わらない。違うのは、危険区域に立つ順番だけだ。
「ここは慣れてる人がやるから」
そう言われて回されるのは、いつも同じラインだった。柵はあるが、完全ではない。センサーは付いているが、止まらないこともある。止まるかどうかは、機械より人の判断に委ねられていた。
数年前、外国人労働者が亡くなった。
正式な記録は「不慮の事故」。再発防止策は「注意喚起の徹底」。現場は一週間だけ静かになり、やがて元に戻った。
彼は知っていた。
この工程が危険であることも、正社員が入らなくなった理由も。
もし社員が死ねば、会社は止まる。
株価が落ち、ニュースが流れ、謝罪が繰り返される。
だが派遣なら、会社は続く。悲しみは外部に留まり、操業は守られる。
安全対策は「ある」。
だがそれは、守られるかどうかを人の認識に委ねる形をしていた。
忙しければ省略され、慣れれば軽視される。
危険は消えず、ただ責任の所在だけが薄められていく。
彼は思った。
これは雇用ではない。
命を切り分けるための仕組みだ。
会社を守るために、誰かの命を外側に置く。
それを「合理化」と呼ぶなら、合理の先にあるのは静かな犠牲だった。
朝礼が終わる。
「本日もご安全に」
誰も、その言葉の重さを量ろうとはしなかった。
彼は名札を胸につけ直し、危険区域へ足を踏み入れる。
機械は今日も動く。
会社も、問題なく存続する。
あとがき
本作は特定の企業や事件を指すものではない。
ただ、製造業という「危険が常に内在する現場」において、派遣労働という仕組みがどのように使われてきたのか、その構造に違和感を覚えたことが出発点になっている。
派遣法そのものが悪だとは思わない。
柔軟な働き方を支え、雇用の選択肢を広げてきた側面も確かにある。
しかし同時に、命のリスクが避けられない工程においてまで、それが当然のように適用されている現実には、強い疑問が残る。
もし事故が起きたとき、
誰の人生が断ち切られ、
誰の責任が問われ、
そして誰の存続が守られるのか。
その配分が、雇用形態によって無意識のうちに調整されているとしたら、
それは労働の問題である以前に、社会の倫理の問題ではないだろうか。
安全対策が「ある」ことと、
命が「守られている」ことは、必ずしも同じではない。
この物語が問いかけているのは、
法律の是非ではなく、
私たちが何を守るために、誰を外側に置いてきたのか、という点である。




