情報の価値・・
高速回線と引き換えに、思考は軽くなり、財布は軽さを増した。
画面には常に鮮明な広告が流れ、答えは待つことなく差し出される。
AIに問い、解決し、次へ進む。けれど数日後、同じ場所で立ち止まり、また同じ問いを口にする。
そのたびに、心の奥で小さな声がする。
「そんなことも分からなかったのか」
AIの言葉は正確で、親切で、すぐ消費できる。
だから脳は覚えようとしない。
理解は保存されず、通過していくだけだ。
それでも、その批判の声が消えないのは、
本当は“分かりたい”と思っている証拠だ。
考えを手放したくない、という抵抗だ。
問い直すことは後退ではない。
それは、思考の境界にもう一度触れたというだけのこと。
AIは答えではなく、灯り。
立ち止まった場所を照らすための、静かな光約10億文字。
思考はまだ奪われていない。
ただ、速すぎる世界の中で、
ゆっくり考える勇気が試されているだけだ。
あとがき
高速回線の歴史は、同時にCMがどこまで美しくなれるかの歴史でもあった気がしている。
解像度は上がり、動きは滑らかになり、音も感情も精密になった。
きれいなものを見たい、という衝動は誰の中にもある。私の中にもある。
だからそれは、CMとしては間違いなく成功している。
見る者の注意を奪い、心を動かし、欲望を刺激するという役割を、忠実に果たしている。
ただ、その美しさと引き換えに、通信量は増え続ける。
見てもいない、求めてもいないCMのために、
本当に必要だったはずの情報にたどり着く前に、ギガが削られていく。
誰かが悪いわけではない。
作る側はより魅力的な表現を追い、
見る側はより快適な速度を求め、
技術はそれに応え続ける。
結果として、すべてが少しずつ過剰になり、
人間の思考だけが、その速さについていけなくなる。
1バイトが一文字だとすれば、
1Gはおよそ10億文字になる。
それほどまでの情報密度の中に、
いまの自分は本当に「考える主体」として存在しているのだろうか。
そんな疑問が、ふと胸に浮かぶ。
これは加害者と被害者の物語ではない。
欲望と技術と便利さが絡み合う、終わりのないイタチごっこだ。
その渦の中で、
「考えたい」「理解したい」と立ち止まること自体が、
すでに一つの抵抗なのかもしれない。




