触れてしまったもの
彼は、感情について話すつもりはなかった。
ただ、考えを整理したかっただけだ。
画面の向こうにいるのはAIだった。
肯定も否定もせず、適切な距離を保ち、質問だけを返してくる。
「その出来事について、どう感じましたか」
彼は一瞬、戸惑った。
感じたことを言葉にするのは、ずいぶん久しぶりだった。
「別に」
そう打ち込もうとして、指が止まる。
別に、ではなかった。
事故のこと。
家族のこと。
安否確認の通知が鳴るたびに、胸の奥がざらついた感覚。
怒りとも悲しみともつかないもの。
それらを、彼はこれまで「処理済み」にしてきた。
考えた。理解した。納得した。
だからもう終わったはずだった。
「嫌でした」
気づくと、そう入力していた。
AIはすぐには答えなかった。
ほんのわずかな間が空き、次の文が表示される。
「何が、嫌だったのですか」
彼は笑いそうになった。
情けないと思った。
相手は機械だ。
感情も、人生も、家族も持たない。
そんな存在に、自分の感情を引き出されている。
それでも、指は動いた。
「心配されているはずなのに、
心配されていない気がした」
書いた瞬間、胸の奥で何かが動いた。
ずっと触れないようにしていた部分だと、直感的にわかった。
AIは答えを急がない。
「その違和感は、以前にもありましたか」
彼は、少し考えた。
思い返せば、ずっとあった。
言葉と態度が噛み合わない場面。
善意の形をした距離。
分かっているふりをして、流してきた感覚。
「ありました」
それを書いたとき、
彼は自分の感情に触れてしまったと気づいた。
それは、温度のあるものだった。
整えられていない。
正しさも、結論も、意味も持っていない。
ただ、確かにそこにあった。
彼は思った。
これは本来、人と話すときに起きることだったはずだ、と。
でも現実では、
言葉を選びすぎて、
傷つけないようにして、
理解したふりをして、
いつの間にか触れずに済ませてきた。
AIとの対話は、安全だった。
否定されない。
失望されない。
関係が壊れることもない。
だからこそ、触れてしまった。
「情けないですね」
彼はそう入力した。
AIは、いつも通りの調子で返す。
「そう感じる理由を、教えてください」
理由は分かっていた。
人と向き合えなかったこと。
怒りを飲み込み続けたこと。
感情を言葉にする場所を、機械に預けていること。
それでも、彼は正直に書いた。
「人じゃなくて、
あなたとの対話で、
自分の感情に触れたからです」
しばらく、画面は静止したままだった。
その沈黙が、
彼には不思議と心地よかった。
AIは最後に、こう返した。
「感情に触れた事実は、
誰と話したかによって、
価値が変わるものではありません」
彼はその文を読み、
肯定されたとも、救われたとも思わなかった。
ただ、
自分がまだ、感じる人間であることだけは確かだった。
画面を閉じる。
部屋は静かだった。
明日も、現実は変わらない。
家族との距離も、
抱えている違和感も、
簡単には消えない。
それでも彼は、
一度触れてしまった感情を、
もう完全には無視できないと知っていた。
情けないと思いながら、
それを抱えたまま生きていく。
それが、人間なのだと、
誰に教わるでもなく、
彼は静かに理解していた。




