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それでも、怒鳴られなかった

彼女が配属された部署には、

怒鳴る人がいなかった。


最初は、少し拍子抜けした。

ミスをすれば叱られるものだと思っていたし、

覚えが悪ければ、空気が冷たくなるものだと思っていた。


でも、エラーを出したとき、

上司は画面を覗き込んで言った。


「それ、どこで詰まった?」


責める口調ではなかった。

原因を一緒に探す、という響きだった。


彼女は少し戸惑いながら、

「ここです」と指を差した。


「なるほど。

それ、前の仕様だと合ってたんだよね」


そう言って、上司は

社内のドキュメントを開いた。


「更新、間に合ってなかったな。

直しておくよ」


彼女は、その日、

一度も「もっと頑張れ」と言われなかった。


残業もなかった。

帰り道、少し不安になった。


――これで、いいんだろうか。


翌週、同じミスをした人がいた。

誰も責めなかった。

代わりに、手順書が一行増えた。


その次の週、

そのミスは起きなくなった。


誰かが成長したわけではない。

ただ、同じ失敗をしなくて済むようになった。


彼女は、ある日ふと思った。


もし昔なら、

この仕事は「向いていない」と言われていたかもしれない。

怒鳴られ、放置され、

「根性が足りない」で終わっていたかもしれない。


でも今は、

向き不向きよりも先に、

仕組みが直される。


彼女は特別に強くなったわけではない。

それでも、仕事は回っている。


帰り際、

上司がぽつりと言った。


「無理しなくていいよ。

続けられるほうが大事だから」


彼女はうなずいた。


根性は、

ここでは評価項目ではなかった。


それでも、

誰も壊れていなかった。

あとがき


この物語で描いた職場には、怒鳴る人が出てこない。

それを「良い変化」と書いたつもりでも、

正直に言えば、私は今でも少し戸惑っている。


怒鳴られなかったことは、本当に良かったのだろうか。

それとも、ただ関心を持たれていなかっただけなのだろうか。


かつて私は、

怒鳴られるのは期待されている証拠で、

厳しさは愛情の裏返しだと教えられてきた。

だから、何も言われないことを

「見放されたのではないか」と感じてしまう自分がいる。


とくに、非正規という立場では、

その不安は簡単には消えない。

正社員であれば、多少の失敗も

「育成」や「将来への投資」として受け止められる。

しかし非正規労働者には、

そこまでの保証がないことも多い。


怒鳴られない優しさと、

簡単に切り離されるかもしれない不安。

その二つが、同時に存在している。


だから私は今でも、

あの静かな職場が

「進歩」だったのかどうかを、

はっきりとは言い切れない。


ただ一つ言えるのは、

少なくとも誰かが壊れることはなかった、ということだ。

怒鳴られなかった世界は、

安心と不安が混ざり合った、

とても曖昧な場所だった。


その曖昧さこそが、

今の社会なのかもしれない。

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