薄さ一ミリの視界
眼鏡屋はもう街にない。
代わりに、文房具屋の棚の端に、透明な封筒が並んでいる。
「視界補助フィルム Type-D(遠方)」
「Type-N(近業)」
「Type-B(中庸)」
厚さはすべて一ミリ。
正確には、貼ったことが分からない程度の一ミリだ。
僕は視力が落ちたわけじゃない。
ただ、夕方になると文字が滲む。それだけだ。
鏡の前で、古い眼鏡を外す。
代わりに、今まで使っていたレンズの内側に、フィルムを一枚、そっと貼る。
位置合わせも調整もない。
ただ貼るだけだ。
世界は、少しだけ静かになる。
遠くの信号機の輪郭が、わずかに締まる。
手元の紙は、無理なく読める。
「よく見える」というより、「頑張らなくていい」。
昔の人は、眼鏡を“掛け替えて”いたらしい。
老眼鏡、サングラス、作業用。
今思うと、不思議な習慣だ。
このフィルムは、目を治さない。
補正もしない。
ただ、間違った光を、少しだけ減らす。
医者は言う。
「視力は変わっていません。進行もしていません」
それで十分だった。
夜、外に出る。
暗さは暗いままだ。
星は、盛られない。
でも、見える。
誰も“視力が良くなった”とは言わない。
代わりに、こう言う。
「最近、目のことを考えなくなった」
それが、この時代の最高の評価だった。
あとがき
もしかすると、これはただの仮想の未来の話かもしれない。
一ミリのフィルムで視界を補助し、眼鏡という道具のあり方が変わる世界。
そんなものは現実にはありえない、と言われるかもしれない。
けれど、偏光フィルムが当たり前に使われている今、
光の性質を薄い膜で制御すること自体は、すでに現実の技術になっている。
光を遮り、選び、向きをそろえることができるなら、
その進み方を「少しだけ変える」ことも、絶対に不可能だとは言い切れない。
この物語は、視力が劇的に回復する未来でも、
人間が機械に置き換えられる未来でもない。
ただ、目が壊れないまま、歳を取れるかもしれないという仮定を、
一ミリという薄さに託しただけだ。
もし、眼鏡が使い捨てでなくなり、
「よく見える」より「考えなくていい」ことが価値になる時代が来るなら、
それは技術の進歩ではなく、
人間側が一歩引いた結果なのかもしれない。
この世界が現実になるかどうかは分からない。
けれど、絶対にありえないとも、もう言えない気がしている。
これが実現するなら
私たちの様々な日常は、静かに変化し始めるのかもしれない。




