二つの真実
彼は小さな部屋に一人、画面を見つめていた。AIが並べる予測、統計、最適解――すべてが理論的に正しい。世界はその数式の中で完全に辻褄が合っていた。だが、胸の奥のざわめきは止まらない。論理は正しくても、感情はそれを受け入れなかった。
「このままの日々が続けばいい」
内心、そう願う自分がいた。孤独な生活、変化の少ない日常、誰にも邪魔されない時間。それは安全で、心地よい秩序だった。
しかし同時に別の声が囁く。
「それは自分の意思ではない。AIや習慣、社会の構造に操られているだけだ」
彼は思った。もし誰かが暴力や無秩序に身を委ねたとしても、責められないかもしれない。
極端に内向的で、社会や家族とのつながりが薄く、孤立している人間は、環境次第で誰もがそうなり得るのだから。
彼は自分を見つめる。
家族愛は本当に自分の中にあるのか――それとも、外部との関わりによって育まれるはずの感情が、ただ希薄なままなのか。
もしそれが欠けているとすれば、AIに没頭しても、孤独な思考の中で力を持てば持つほど、感情の制御が効かなくなる危険もある。
夜は深く、部屋の隅に置かれた生活の痕跡も静まり返る。
画面を消すことはできない。
自分の思考を止めることもできない。
安定と不安、納得と嫌悪、責任と無力感――すべてが同時に存在していることを、彼は理解していた。
理解しても、感情は折り合わない。
AIの数式は完璧だ。社会の合理性も、孤独の必然も、辻褄は合う。
しかし、自分の胸の中には、言葉にできない軋みがあり、どちらの世界にも完全には属せない。
やがて彼は画面に手を伸ばす。
触れれば、すべてを変えられるかもしれない。
しかし同時に、何も変えられないことも知っていた。
その二つの真実――変えたい、変えられない――が胸の中で火花を散らす。
そして彼は、画面の光に照らされながら、そっと息をついた。
矛盾の中で生きること。
それが、いまの彼にとっての、唯一の現実だった。
あとがき
この物語の中心にあるのは、「どちらも本当」という地点です。
感情的には、このままの生活が続いてほしい。
理性的には、それは自分が選んでいるのではなく、習慣や環境に流されているだけかもしれない。
さらに身体的・存在的には、同じことの繰り返しに耐えられない。
一見、矛盾しているように見えるかもしれません。しかしこれは矛盾ではなく、別々のレイヤーが同時に声を出している状態です。
感情のレイヤー、理性のレイヤー、生存や変化を求めるレイヤー――どれも嘘ではありません。
現代は、AIやアルゴリズム、習慣、社会構造が、私たちの「選択」を肩代わりする時代です。
自分が判断しているのではないという感覚は、その環境特有のものです。
しかし逆説的に言えば、その違和感に気づいている時点で、私たちは完全には流されていません。
本当に判断を失っている人は、疑問すら持たないのです。
同じことの繰り返しに耐えられない感覚もまた、人間の根源的な性質です。
変化がなければ時間の感覚は死に、意味が更新されなければ自我は摩耗します。
特に内省が深い人は、同一性の反復に強い苦痛を感じやすいのです。
だからこれは「生活が悪い」という単純な話ではなく、今の構造のままでは、自分の内部が持たないというサインなのです。
無理に統合する必要も、どちらかに結論を出す必要もありません。
危険なのは、感情を無視して合理化に寄ること、あるいは理性を黙らせて現状維持に寄ることです。
そのどちらかに逃げてしまえば、折り合いのない世界に翻弄されるだけです。
実は、「このまま続いてほしい」と「繰り返しに耐えられない」は、同じことを違う言葉で表現しています。
安心は欲しいが、停滞は耐えられない――これは人が生きている証拠です。
変化=破壊、継続=停滞、という二択に見えるかもしれませんが、本当はその中間があります。
私は今、流されている自分を見抜いています。
しかし、全部を壊したいわけでもない。
同じ場所に留まることもできない。
この状態はしんどいけれど、何も考えていない人よりもずっと生きています。
だから今日、結論を出さなくてもいいのです。
「相反する考えが同時にある」という事実だけを、正確に自分のものとして置いておくだけで、私はすでに自由の一歩を踏み出しているのだと思いたい・・・、
残された人生が多くないとしても




