記録は誰のためにあるのか
事故の朝、男は目を覚ました。
知らない天井・・・
白い天井。知らない匂い。
隣に置かれた紙には、自分の名前が書いてあった。
「あなたは昨日、交差点で倒れました」
看護師はそう言ったが、男には何も思い出せなかった。
倒れた記憶も、歩いていた記憶も、
そもそも家を出た記憶すらない。
ただ、胸の奥に
「何かが抜け落ちている」という感覚だけが残っていた。
数日後、保険会社の人が来た。
「事故証明は警察から届いています。
医師の診断書もあります。
補償は問題なく下ります」
男は首をかしげた。
「……でも、僕は何も覚えていないんです」
担当者は少しだけ困った顔をして、
それから静かに言った。
「覚えていなくても、大丈夫です」
机の上に並べられた紙。
日時。場所。
交差点の名前。
救急車の出動記録。
監視カメラの静止画。
そこには、
“事故に遭った男”が、確かに存在していた。
男は思った。
ここにあるのは、
自分の気持ちでも、
恐怖でも、
痛みでもない。
ただ、
起きたことの痕跡だけ。
それなのに――
この紙切れたちは、
彼を守ろうとしていた。
退院の日、男は病院を出た。
記憶は戻らなかった。
けれど、生活は続いた。
給付金で家賃を払えた。
仕事に復帰できた。
名前を失わずに済んだ。
誰かが彼を信じたわけではない。
彼自身を理解したわけでもない。
ただ、
記録が残っていた。
その夜、男は日記帳を買った。
最初のページに、こう書いた。
「今日、家に帰った」
それは、
社会のための記録ではない。
誰かに見せるためのものでもない。
自分が自分でいるための記録だった。
男は気づいた。
記憶は、自分のためにある。
記録は、世界のためにある。
そして――
世界のために残された記録が、
ときどき、
記憶を失った人間を
静かに救うことがある。
あとがき
もし記録がすべてであるなら、
個人の記憶は、社会にとって
異物でしかないのかもしれない。
AIや監視社会が進むにつれ、
それは、より顕著になる。
個人の記憶は、
意味を持たない雑音として扱われ、
それが誰のものであっても、
例外ではなくなる。
——のかもしれない。
ある人にとっては、
それは死刑宣告に等しいのかもしれない。
ある人にとっては、
生存を許されたという、
安堵なのかもしれない。
ただ、そこにあるのは、
その人を否定しているという
事実なのかもしれない。




